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永山 盛勇(ながやま せいゆう)(旧姓東恩納 昭和11年生まれ 佐敷・兼久)【キーワード】玉城村・知念村へ避難

■沖縄戦前の佐敷の海
私の家族は父方の祖母、母、私(8歳)、弟(6歳くらい)、妹(4歳くらい)、弟(2歳くらい)の合計6人だった。父は同じ部落の人(親戚ではない)と南洋に出稼ぎに行っていて不在だった。
戦前、冨祖崎(ふそざき)(現 南城市佐敷)に親戚がいて、干潮のときには兼久(かねく)から冨祖崎まで歩いて渡って行くことができた。当時は、現在の佐敷中学校裏手の海岸にある築島(ちくしま)※1もなく、きれいな砂辺があった。
また、私が8歳ぐらいのときだったと思うが、馬天(ばてん)港の海の方に日本軍の飛行機が降りたのを見た※2。馬天には、終戦直後まで「カイグンショウ(海軍省)」と呼ばれていた大きな建物があった※3。

■当時の遊び
私は佐敷国民学校(現在の佐敷小学校の前身)に通っていた。学年は2年生だったと思う。当時は鬼ごっこや陣取り、セミなどの虫取りのほか、亀の甲羅(こうら)を足の甲に置いて甲羅が落ちないように進むといった遊びをしていた。また、集落のアジマー(十字路)で、私より年上の男の子たちが大きな石を持って力比べをしていた。
他にも、人の屋敷の裏にあったシークヮサーがなっている木に登り、勝手に取って食べたりした。大人はシークヮサーを盗んでいることに気づいていたと思うが、子どものすることだからと見逃してくれていたのだと思う。

■佐敷国民学校にいた暁部隊
[1944年(昭和19)3月に第三十二軍が創設されたのち、同年夏ごろから日本軍の部隊が続々と沖縄入りし、沖縄県内各地で日本軍の駐屯が始まった。]
佐敷国民学校には、暁部隊(あかつきぶたい)と呼ばれていた部隊が駐屯した。彼らは隊を組んで掛け声をかけ、学校から海岸の方に走って行き、そこで機関銃か何かの演習をしていたようだ。しかし、私は当時子どもだったので、詳しいことはよく知らない。
部隊が学校を使うようになったため、私たち生徒は一時的に新里のムラヤー(現在の公民館)に移動した。しかし、そこでは勉強ではなく、女性の先生に連れられて新里の丘の上に避難する訓練を毎日させられた。避難訓練の時間は11時くらいで、お昼時間の前だったと思う。お弁当はイモだった。

■母が陣地構築中に弟を子守
これも私が8歳ぐらいのころで夏だったと思うが、馬天のあたりで行われていた、ため池か壕を造る工事※4に母がかり出されていた。母が工事に行く日は、学校が休みのときだったので日曜日だったと思う。毎日ではなかった。私は工事の現場を見ていないので、詳しい場所や、何を造っていたのかは知らない。だが、行き帰りは歩いて移動していたので、そう遠くない場所だったのではないかと思う。
母が工事に行っている間、祖母が自宅で上の弟と妹をみていた。私は工事現場の近くにあった茅葺(かやぶ)きの掘っ立て小屋(ほったてごや)で下の弟の子守をしていた。子どもの泣く声がしたので、私と同じように、きょうだいの子守をしながら親を待っている人が他にいたのかもしれないが、その姿は見ていない。母を待っている間は弟と2人きりで、芋を食べたり水を飲んだりしていた。この芋や水は母が準備して持ってきたと思う。水は急須(きゅうす)から飲んだ覚えがある。工事は朝から16時から17時ぐらいまで作業していたと思う。
この工事には、女性たちや中学生たちが強制的に動員されていた。兼久だけでなく、ほかの字(あざ)の人々も動員されていたと思う。

■疎開のことは知らなかった
疎開(そかい)は、お金持ちや優秀な子どもに関係する話だったと思う。学校で疎開に関係する呼びかけはなかったし、知らなかった※5。疎開のことも、対馬丸(つしままる)※6の話も戦後に知った。

■十・十空襲は大変だった
十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)の日は親戚の墓に避難して助かったが、自宅や集落の家が燃えた。集落の大人たちが火消しをしていた。夕方になると海に向かって弾が一発飛んだ。すると、海から何百発と弾が飛んできた。その様子はまるで花火のようであった。
あまり語りたくないことだが、この空襲で同じ集落の人が、トイレ(フール)で流れ弾に当たって亡くなった。

■家族、親戚と一緒に避難
私の父は、沖縄戦が始まる前に沖縄に帰ってきていた。しかし、すぐに防衛隊(ぼうえいたい)として召集(しょうしゅう)されて南部に行った。
沖縄戦が始まると、私たちは家族6人と親戚家族6人の合計12人で避難した。祖母と母は4人の子どもを抱えて大変だったと思う。
私たちは初め、自宅から終戦直後に刑務所があった場所※7の上の方にある親戚の墓に避難した。中城湾にはアメリカ軍の船がたくさん来ていた。その光景が珍しく、いとこと見ていたが、祖母に「危ないから墓に入りなさい」と怒られた。昼も夜も艦砲射撃(かんぽうしゃげき)が激しかった。夜には、海の方から艦砲の弾が花火のように打ち上げられる様子が見えた。
アメリカ軍の攻撃が激しくなってきたので、そこから親慶原(おやけばる)(現 南城市玉城)にあるアマチジョーガマ※8に移動した。移動のときは、近道を知っている親戚の人についていった。ちなみに最初に避難した親戚の墓は私たちが移動した後、弾が当たったのか無くなってしまった。
到着したアマチジョーガマは避難している人が奥の方までいっぱいいて、私たちは入口近くにいた。そこで2、3日過ごしたが、ガマの中はジメジメしていて、水があちこちに溜まっていた。子どもたちが過ごすには大変な場所だったと思う。

■生きることに必死だった避難中の生活
祖母や母は頭に荷物(食べ物だと思う)を持ち、私は雨避け用のゴザを持っていた。食事は母が乾(かん)パンのような、お菓子のようなものを持っていたので、それを食べた。家から持ってきたのか、人からもらったものなのかはわからない。水は田んぼの水を飲んだ。
避難中、みんなは壕に入っていたが、子連れは壕に入れてもらえなかった。子どもたちが壕で泣いてしまうためだ。雨の日はゴザをかぶって、岩の下かススキの中で過ごした。ずっと緊張しているから雨が降っても寒いと感じなかった。
死んだ人を見ても、かわいそうだと思う感情が湧かなかった。母の必死な姿を見て、自分たちがどう生きのびていくか、ただそれしか考えることができなかったと思う。

■祖母が「自分の墓で死にたい」と言って自決を拒否
私たちは、アマチジョーガマから知念の方に移動した。このときに、親戚の1家族と別れた。移動は全て夜で、ススキの中を這(は)いながら進んだ。移動先の場所ははっきりしないが、山里(現 南城市知念)の上あたりだと思う※9。そこで別の親戚1家族と合流し、私たち家族を含む2家族が集まった。
おじさん(祖父の弟)※10が手りゅう弾(しゅりゅうだん)を使って自決しようとしたが、祖母が「どうせ死ぬなら自分の墓のところで死にたい」と言ったため、私たち6人は親戚と別れた。本当は語りたくないことだが、残った親戚家族の4人は知念で亡くなった。自決で亡くなったのか、原因はわからない。
私たちはそこから、手登根(てどこん)、伊原(いばら)(どちらも現 南城市佐敷)を経由して海岸伝いに兼久へ向かった。山手側は大変だからと海沿いに行ったら、アメリカ兵に見られたのか機銃掃射された。また、照明弾が上がると、そこが田んぼであってもみんなでぱっと伏せた。照明弾のあとは海の方から機関銃の激しい攻撃があった。下の弟は母におんぶされていたが泣かなかった。移動は夜間にだけ行っていたので、兼久に着くまで3日くらいかかった。
そうやってようやく自分たちの墓に着いた。この墓は門中墓(もんちゅうばか)ではなく、家ごとに建てた個人墓だった。ただ、墓の蓋(ふた)を開けることができなかったので、そこからセーラモー(兼久にある山)に移動した。戦闘が終わったのも知らず、そこで一週間か10日ぐらい過ごしていた。

■出会った兼久の人から終戦を知らされ、下山する
食料を探しに母が下山すると、そこで同じ兼久部落の人と会ったそうだ。その人から「戦は終わっているのに何をしているか」と言われ、そこで戦争が終わったことを知った。母が会った部落の人は山手の方に残っていた民家にいて、3家族くらいが一緒に過ごしていた。この時期の日付は覚えていないが、梅雨は明けていた。
終戦を知った私たちは家族全員で下山した。下山途中に見えた兼久は何も残っておらず、敷きならされていた。そのため、祖母の出身地である伊原に移動した。伊原にあった祖母の実家(渡慶次(とけし)家)は焼けずに残っていて、ヤンバルに行かされるまで過ごした。わりと長く過ごしていたと思う。
伊原に行くと、衛生班なのかDDTをまかれた。まいた人は日本人だったから日本兵だと思う。また、アメリカ軍が兼久の海を浚渫(しゅんせつ)しているのを見た※11。収容所に入った記憶はなく、アメリカ兵にも会わなかった※12。

■汀間の収容所に移動
ある日、母や親戚に「行くよ」と言われ、アメリカ軍の船に乗せられた。このとき、呼びに来た人がいたのかどうかはわからない。行き先は誰もわからなかったが、怖くはなかった。
下船した場所はクシグヮー(久志小、現在の名護市)だった。そこで「あなたたちはティーマ(汀間(ていま)、現在の名護市)だよ」と言われて、そこから歩いてティーマの部落に行った。歩いても歩いても着かなくて、2、3日かかった。

■弟と食べ物を探し回る
到着したティーマでは、祖母、いとこ、親戚の男性たち(覚えているのはシブンという人。当時20~30代くらい)が掘っ立て小屋を造ってくれた。食べ物の配給はあったが足りず、上の弟を連れて食べ物を探しまわった。山の方に行き、蚕(かいこ)の葉っぱ(クワ)を取って、野菜替わりに食べた。
ティーマの浜はきれいで、小さな貝殻がたくさんあり、それを拾って食べた。魚は捕らなかったがワカメを取ったりもした。口に入るものは何でも取って食べたが、腹いっぱいになることはなかった。

■楽しみだった粉ミルクの配給
ティーマには学校のようなものがあった。小屋などはなく青空の下で、子どもたちを集めていた。黒板も何もなく、女性の先生が竹などで地面に1、2、3と字を書いていた。勉強が終わった後に粉ミルクの配給があり、それが楽しみで毎日行った。粉ミルクは甘くはないが腹いっぱい飲めた。この粉ミルクはアメリカ軍からの配給だと思う。
学校の後にティーマの運動場跡のような広場でラッチョウ(島らっきょう)を取って、漬け物にして食べたりもした。

■マラリアに罹る
マラリアには家族全員が罹(かか)ったが、下の弟も罹ったかどうかはわからない。上の弟は2、3回罹ったが、私はそれ以上だった。兼久に帰っても症状が出た。
マラリアの症状は、あくびから始まって、すぐ寒くなった。遊んでいても症状が出たら一目散(いちもくさん)に家に帰った。何をかぶっても、自分の弟が上に乗っても寒気で震えが止まらなかった。
マラリアの薬は配給で手に入れたと思う。色は黄色で飲むと苦かったし、目が黄色くなった※13。飲むのが嫌で飲んだふりをして捨てていたので、なかなか治らなかったのだと思う。私の家族は誰も亡くならなかったが、1日2、3人ぐらいはマラリアや栄養失調で亡くなったと思う。

■汀間から伊原に帰る
ある日、母に「着替えなさい。準備しておきなさい」と言われ、家族全員でアメリカ軍のカーゴトラックに乗った。トラックには、板馬(いたんま)(現 南城市知念知名)や伊原の人もいて、あふれるほど人が乗っていた。トラックでの移動中に東喜(とうき)※14を通ったが、崖っぷちを走っていたので怖かった。あちこちの部落の人を降ろしながら移動したので、何日もかかった。
最初に降りたのは字知念だと思う。そこに何日かいて、玉城村字中山(なかやま)(現 南城市玉城)に移動し、1、2ヵ月ほど暮らした。その後、伊原に移動した。祖母の実家が残っていたので、そこで生活した。帰ってきた時期は終戦の翌年だったと思う。寒さは特になかった。
食料は配給もあったが、親戚の男性(シブンという名前)が食事を考えてくれていた。そのため、ヤンバルにいたときより食事の心配はなかった。

■兼久で初めてアメリカ兵を見る
字佐敷に住んでいた、いとことたまに兼久に戻り一緒に遊んだ。兼久の海岸にはテント小屋があり、そこにアメリカ兵やクロンボー(黒人のアメリカ兵)が住んでいた。寝台に寝そべっていて、トートーメー(沖縄の位牌)が珍しかったのか飾(かざ)りとして置いていた。私はこのときに初めてアメリカ兵を見たが、特に怖いとは感じなかった。また、兼久の海には大きな港が造られていた。

■伊原から兼久に戻る
伊原に住んで1年後に兼久に戻った。兼久は終戦後、アメリカ軍のブルドーザーで敷きならされて、まっすぐな道ができていた。そこに兼久の部落民総出で碁盤型(ごばんがた)に茅葺き小屋を建てていた。また、親戚が集まり、それぞれの土地を思い出して小屋を造っていた。私の家は戦前にあった井戸と、門のところにあった大きなデイゴの木が残っていたので、それを目印に家を建ててもらった。井戸は土砂で埋まっていたが中の詰まりを取って使えるようにした。この井戸は今も使っている。
伊原にいたときは学校に通っていなかったが、兼久に戻ってからは学校に通った。

■終戦後、父の戦死を知る
終戦後、親戚のおじ(父の姉の夫)が、私の父の安否をあちこち聞いてまわって、父の戦死を知った。父は大里(おおざと)の大城(おおしろ)(現 南城市大里)の山で亡くなったらしい。一緒にいた人が埋めてくれたのか、目印になるものを持っていたのか、遺骨は回収されお墓に入れることができた。

■祖母に言われた「イキガヤ イジリヤンドー(男は度胸)」
佐敷中学校卒業後、職場見学で行った与那原の木工所に就職し、3年ぐらい働いた。工場の中の3畳間で住み込みをしながら、工場の機械の使い方や大工道具の手入れの仕方などを学んだ。同じ工場に裕福な家庭の同級生がいて、この同級生には負けないという気持ちで働いた。
その後、馬天のバックナービル(アメリカ軍高官の住宅地)※16で庭師、親慶原のCSG(アメリカ軍の知念補給基地)※17でエンジニア、サトウキビ畑でキビづくりなどをして20年以上働いた。
祖母には、よく「イキガヤ イジリヤンドー(男は度胸)。引っ込み思案にならないで何でもやれ」と言われた。その言葉で頑張れたが、自分が苦労したことはあまり話したくないし、子どもたちに話していない。
弟や自分の子どもたちには「部落のことは可能な範囲でいいから協力しなさい」と言っている。私も部落の役員や、スポーツを頑張ったと思う。
今言いたいことは、戦争は悪であり、絶対にやってはいけないということだ。
(2015年 井口学による聞き取り 2025年 事務局による聞き取り 構成:山内優希、事務局)

■脚注
※1 佐敷中学校の裏手にある人工の島。沖縄戦の折、アメリカ軍が兼久の海岸の干潟部分に南北の水路を構築した際、その底質の砂泥を水路の東側に集めた。以後、体積が進み、島になったとされる(『佐敷町史3 自然』258頁参考)。
※2 1929年(昭和4)の大村航空隊(海軍)の調査で、兼久の沖は干潮時に飛行機の不時着陸場として使用し得るとされた。(『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』[第2版]南城市教育委員会 2021 513頁)
※3 1895年(明治28)、海軍の軍艦への水や物資の補給基地として中城湾需品支庫が津波古に建設された。艦船への石炭供給は9年ほどで終わったと考えられているが、その後も津波古と新里にあった約5,500坪の用地は海軍が所有し続けた。1933年(昭和8)の資料によると、用地内の329坪は「貯炭」に使用されたが、残りは畑地として民間に貸し付けられていた(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』第1章第1節「中城湾需品支庫」)。佐敷町史編集委員会編『佐敷町史 4 戦争』(佐敷町役場 1999)469頁掲載の戦前の津波古の地図(図3-③ 字津波古被災地図)には、「海軍省」の敷地(中城湾需品支庫の敷地)に水タンク、燃料タンク、貯炭所が記されている。
※4 前掲『佐敷町史 4 戦争』225頁に、津波古で軍のため池工事に参加したという女性の体験記録が掲載されている。
※5 疎開の対象は国民学校初等科3年から6年までの男子で疎開を希望者する者を原則とし、初等科1・2年生でも付添が必要ないと認められれば参加を許可された。しかし実際には、女子生徒や高等科の生徒たち、初等科3年生以上の兄や姉が疎開に参加している初等科1・2年生も多く参加した。なお、話者が通学していた佐敷国民学校では、学童と関係者を合わせて375人が宮崎県に学童疎開をしている(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』155~157頁 参考)。
※6 1944年(昭和19)8月23日、那覇港から長崎へ航海中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け撃沈した貨物船。県外へ疎開するために乗船していた784人の学童を含む1,484人(氏名判別者数)が犠牲となった(公益財団法人対馬丸記念会 ホームページ「対馬丸事件について」参考 https://www.tsushimamaru.or.jp/tsushimamaru.php)。なお、南城市出身の遭難者は12人いることが確認された(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』201頁 参考)。
※7 1946年5月に佐敷村に設置された沖縄中央刑務所。佐敷村出身者が戦後帰村すると「佐敷国民学校の西側のターブックァー(田んぼ)は、埋め立てられて刑務所になっていました」(前掲『佐敷町史 4 戦争』296頁)という。刑務所の場所は書籍によって兼久もしくは新里の桃原屋取の、いずれかの地名で説明されているが、兼久と桃原屋取は隣接する集落であり、上記の証言が表す場所は両集落の中間付近であったと推察される。同刑務所は1950年8月に沖縄刑務所に改称し那覇市楚辺に移転した。
※8 村民が避難していた自然洞穴で、日本軍も占領していた。壕口はアメリカ軍によって爆破された。現在もガマ入口の見学が可能(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』581頁 参考)。
※9 永山さんによると「戦後に5歳上のいとこと場所を確認に行った。しかし当時は移動が夜間だったのでわからず、だいたいこの辺りだろうということになった」とのこと(2025年事務局聞き取り)。
※10 永山さんによると「おじは防衛隊だったかもしれない。だから手りゅう弾を持っていたのだろう。部隊から逃げてきたのか、解散になって家族の元に戻って来たのかはわからない」とのこと(2025年事務局聞き取り)。
※11 アメリカ軍は船の接岸や航路を確保するため馬天湾を浚渫した。兼久の浜には、浚渫による土砂堆積によって出来た人工島「築島」が現存する。
※12 『南城市の沖縄戦 資料編』によると、6月中旬には伊原に収容所が開設されている。(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』640頁、652頁 参考)
※13 マラリアの特効薬といわれる「キニーネ」のことか。
※14 二見区はスギンダ(シジンダ)とスックの2小集落からなる区であった。両地域は民間人収容所として、スギンダ(シジンダ)は東喜市、スックは二見市となった。「東喜」の由来には諸説あるが、定かではない。現在は、二見集落内を流れる杉田川に掛けられた「東喜橋」が当時の名残を残しているのみである(名護市史編さん委員会、名護市史『戦争』専門部会編『名護市史本編・3 名護・やんばるの沖縄戦』名護市役所 2016 443頁、498頁参考)。
※16 アメリカ軍は終戦直後から津波古から新里、小谷の丘陵地に倉庫やモータープール、兵舎、家族住宅を建設し、一帯を「バックナービル」と名付けた。バックナーは、南部で戦死したアメリカ陸軍第10軍の総司令官の名前。1951年(昭和26)に開放された(津波古字誌編集委員会『津波古字誌』字津波古自治会 2012 153頁、前掲『南城市の沖縄戦 資料編』525頁 参考)。
※17 Composite Service Group= 混成サービスグループ/ 知念混成サービス補給部隊基地のこと。もとは玉城一区と仲村渠二区の集落があった地域を米軍が接収し、基地を建設した。1946年(昭和21)から米軍政府(MG)が入り、1949年(昭和24)から1972年(昭和47)までは CSG 基地となっていた。1974年(昭和49)に土地は返還されたが、琉球ゴルフ倶楽部となって現在に至っている(玉城村史編集委員会編『玉城村 第6巻 戦時記録編』玉城村役場 2004 295頁、407頁、前掲『南城市の沖縄戦 資料編』562頁 参考)。