■二高女への入学
私は生まれも育ちも佐敷村の新里(しんざと)(現 南城市佐敷)で、二高女(にこうじょ)(沖縄県立第二高等女学校)※1に入学する前の小学校6年生まで、ずっと新里で暮らしていた。戦前、私の家族は大阪で小さな商売をしていた。そのため、私は父のきょうだいであるおばと沖縄で2人暮らしをしていた。
父は毎年沖縄に帰ってきて、「大阪に一緒に行こう。美味しいものが食べられるし、きれいな服も着られる。いい学校にも入れる」と私を誘った。しかし、私は8歳のときから優しいおばに育てられていたので、おば1人を置いて大阪に行く気にならなかった。なので「私は沖縄でいい」と言って行かなかった。
女学校への進学について、小学校の先生には「一高女(いちこうじょ)(沖縄県立第一高等女学校)※2に行きなさい」と言われたが、父は「二高女がいい」と言って聞かなかった。父には新しい学校ほどいいという考えがあった。また、当時の二高女は音楽と美術で有名で、今でいう全国大会に出るくらいの実力があった。その上、沖縄県内の体育大会でも二高女の成績はよかった。そういうこともあり、父が私に二高女への進学を勧(すす)めてくれた。
受験会場は二高女の校舎で行われた。試験の内容は学校からの内申書と口頭試問だった。軍国主義教育の時代なので、国に対する気持ちなどを尋(たず)ねられた。私は軍国主義少女らしく、「お国のために何でも頑張る」と答えた。筆記試験はなかった。
佐敷からは5人が受験して、6年生の私ともう1人の子※3だけが合格した。他の3人は私より1期上の高等科生で、のちに首里高女(しゅりこうじょ)(沖縄県立首里高等女学校)※4に合格した。
受験時にとても感激した思い出がある。私たちは旭町(あさひまち)(現 那覇市)の馬車宿小(バシャヤードゥグヮー)※5に宿泊していたのだが、そこに私の字(あざ)(新里)出身の男子師範学校(沖縄師範学校男子部)※6の生徒が訪ねてきて、二高女まで連れて行ってくれたのだ。しかし、この方はのちに戦死した。
佐敷から二高女に行く際は、与那原まではバス、たまに客馬車に乗り、与那原からは軽便鉄道(ケービンてつどう)に乗った。軽便(ケービン)鉄道の与那原線にはお世話になった。
■着ることができなかった憧れの制服
佐敷から二高女へは遠くて通学できないので、私は通堂町(とんどうちょう)(現 那覇市)で1人暮らしをしていたおばさんのところに下宿した。このおばさんは親同士が知り合いだった。最初の3ヶ月くらいは千代ちゃん※7も一緒だったが、のちに千代ちゃんは自分の親戚の家に下宿するようになった。
女学校の制服には憧れていた。当時、ほとんどの女学校はセーラー服で、(襟(えり)の)線の本数や太さで区別していた。しかし、二高女だけはスリーピースだった。ひだがたっぷりあるジャンパースカートで、裾(すそ)にはゴムが入っており、上に上げて締めればブルマになった。ブラウスは白で、ベストとブレザーコートもあった。
この制服に憧れていたが、着ることができなかった。というのも、1941年(昭和16)入学の私たちの学年からは全国統一の女学生服に変わったからだ。当時は、(1937年に始まった)日中戦争の影響で、着るものや食べるもの、学用品・日用品など全てが困窮(こんきゅう)していた。そのため、ひらひらした華やかな制服は布地をたくさん使うということで、ヘチマ襟(えり)(の上着)とタイトスカートの制服に変わった。先輩たちの制服は変更なしだった。4月いっぱいは私服で、5月1日に変更された制服を渡されたときは本当にショックだった。みんな壁にくっついて(うなだれて)、「なんでこんなおばあさんみたいな制服を着るのか」とがっかりした。しかし、すぐに思い直して、戦争を勝ち抜くまでは我慢しようと思った。戦争はすぐに勝つと思っていた。
ヘチマ襟の制服は校章と名札が違うだけで、あとは色も形も他の学校とまったく一緒だった。
当時は私用で出かけるときも必ず制服を着ていた。夜間には「教護連盟(きょうごれんめい)」といって、男子の学校と女子の学校の両方が交代だったと思うが、毎日何人かの大人が見回りをしていた。学生が夜間に歩いていると、そのことを学校にすぐに伝えられた。私は真面目だったので夜は外出しなかったが、(暗いので)近づかないと(学生かどうか)わからなかった。
女生徒の髪型は学年ごとに決まっていて、1年生はおかっぱ、2年生は分けるだけ、3年生は後ろで結ぶ、4年生は三つ編みだった。これはほとんどの女学校がそうだった。自分より先輩かどうかわかるので、先輩だったら会釈(えしゃく)した。
■当時の暮らし(1~3年生のころ)
1年生のころは通常通り各教科の授業が行われていたが、1941年(昭和16)12月8日(アジア・太平洋戦争の開戦)以降は学校の内情がどんどん変わっていった。
2年生にあがってすぐ、英語が廃止になった(2年生の2学期に廃止になったという人もいる)。私は(この対応に対して)逆だと思って不満だった。敵を知るには敵の言葉を学ぶことが必要だと思ったからだ。その後、英語を学ぶ機会はなかった。教科としてなくなったのは英語だけだが、戦時訓練というものが新しく入ってきて、藁(わら)人形を竹やりで突く練習もした。
3年生にあがると、状況はもっとひどくなった。当時は徴兵令(ちょうへいれい)があったので、ほとんどの男の人は戦地に行っていた。女の人でも、健康で子育てから手が離れた人は軍に関わる作業に動員された。一番困ったのは食料だった。体の不自由な人や子持ちの女性たちは、農業を細々としかすることができない。食料は配給制(はいきゅうせい)のため買いたいものを買えず、あるものをみんなで分け合わなければならず、量は絶対に足りない。米や醤油(しょうゆ)、味噌(みそ)や油もみんな、家族の人数に応じた量が配給された。どうやって家族の胃袋を満たすか、当時の女性は大変だったと思う。
私の家には父が仕送りをしてくれていた。お米は買えなかったが、おばは小さな畑で野菜を作っていた。昔は野菜を人からいただいたり、あげたりしていた。飼っていた豚にはあまり良くない芋を与えていた。(普段の食事は)たいていはジューシーメー(沖縄の炊き込みご飯)だったが、おばは、私だけにたまに白いご飯を食べさせてくれた。
下宿先では、麦やさつまいもなどが入った混ぜご飯に、おかずとして佃煮(つくだに)や漬物が少し添えられていた。タンパク質が足りないが、それでも食べることができたらいいほうだった。弁当は芋を2個ぐらい、ハンカチに包んで持っていった。
■授業の代わりに増産活動(3年生)
ある日、校長先生に「兵隊さんは戦地で命をかけて戦っているというのに、君らは学校で勉強ばかりしていていいのか。食糧難(しょくりょうなん)だから増産(ぞうさん)活動に携(たずさ)わりなさい」と言われた。これは命令というよりはお願いのようなものだったと思う。私たちはすぐに「はい」と言って、(増産活動への参加を)嫌がらなかった。本当に食べ物がなかったからだ。
この増産活動は休日ではなく、平日に授業の代わりに行っていた。(活動場所は)南風原(はえばる)(現 南風原町)や西原(現 西原町)まで行ったかもしれない。移動は徒歩だった。
二高女の生徒は90パーセントが那覇出身だった。那覇は当時から県庁所在地で家が密集していた。そのため、那覇出身の同級生は農業なんて見たことがなかった。増産活動では畑で雑草取りをしたが、間違えて人参(にんじん)の芽も取ってしまっていた。私は田舎の出身なので「それは人参だよ」と教えたら、(間違えて人参の芽を取った子は)驚いて土に戻していた。気持ちは一生懸命でも、経験がないのでそのような間違いをしていた。たまにウージ畑(さとうきび畑)の下草取りもした。ひょろひょろした草なので楽しく取っていた。
■ニュース映画を観て看護婦に憧れる
当時は私のような田舎出身の学生が実家に帰るときには汽車に乗ることが許されたが、女学生や(男子)中学生が汽車に乗ることは禁止されていた。映画館やレストランもぜいたくだとして禁止だった。(外出は)制服を着ているのですぐばれるし、ばれたら学校に連絡がいくので大変だった。ただ、レストランは家族と一緒なら入ることができた。
映画館も禁止されていたが、年に何回かは団体見学があり、1年生から4年生まで一緒に映画を観に行った。ただ、映画といってもドラマのような内容は一切なく、ニュース映画※8だけだった。唯一、2年生のときにニュース映画以外の映画を観た。『小島の春(こじまのはる)』※9という、ハンセン病の人たちの物語で、非常に心に残っている。
ニュース映画の内容は、日中戦争で勝ち戦(いくさ)をしている場面や、中国大陸にある野戦病院などだった。映画の中のけが人は清潔(せいけつ)な白衣を着ていた。看護婦さんも白衣を着て赤十字(せきじゅうじ)のマークを付けて、帽子をかぶっていた。私はその姿に憧れ、赤十字の看護婦さんになりたいと思った。それが、のちに沖縄戦で学徒隊に進んだ理由の1つでもあった。
沖縄戦はちょうど梅雨(つゆ)の時期だった。私が勤務していた野戦病院の重傷者は何日間も放って置かれ、大小便も処理されずそのまま、しかも(傷口には)ウジが湧いている、そんなものすごい格好(かっこう)で運ばれてきていた。私は患者が野戦病院に運ばれてきたときの様子を見たことがないが、見たことがある人の話によると、トラックが入れるところまではトラックで運び、その後は女子青年団※10などが担架に乗せて連れてきたそうだ。(ニュース映画のなかの)日中戦争ではそのようなことはなく、患者は清潔な白衣を着ていた。
戦後は、戦争で傷を負った人でなくても、白衣を着て物乞(ものご)いをする人がいた。現在の国際通りの、かつて三越(みつこし)があった辺りなどで、お金を入れる容器を置いて座っていた。最初のころは傷病兵(しょうびょうへい)であったと信じ、かわいそうだと思ってお金を入れていたが、なかには傷病兵ではない人もいたということだった。
■夏休みの作業(3年生)
3年生の時から食糧増産活動に携わるようになったが、夏休みには田舎に帰り、毎日ムラヤー(現在の公民館)で小さな子どもたちを集めて遊ばせていた。これは大人たちに農作業に専念してもらうためで、同じ字出身の女学生たちによって行われた。
また、佐敷出身の男女で上の学校※11に通学している人たちの会があった。佐敷村学生会という感じの名前だったかもしれない。その人たちと一緒にイーバル(上原)※12などの陣地構築(じんちこうちく)作業に行った※13。私が二高女で本格的に陣地構築作業に行くようになるのは、もう少し後のことだった。
■飛行場造りや陣地構築(4年生)
1944年(昭和19)からは陣地構築や竹やり訓練などが多くなり、正規の授業はほとんどできなくなった。このころは小禄飛行場(現 那覇空港)の整地作業にも行った。日本軍には大型機械がなかったので、鍬(くわ)やツルハシなどの農機具で固い土を砕き、ショベルでザルに入れて運んだ。全て人力だったので、いくらでも人手が必要だった。女学生、中学生、周りの住民など、動ける人たちはみんな動員された。飛行場のほかにも、丘の上に大砲(たいほう)を置く砲台(ほうだい)や防空壕(ぼうくうごう)も造りに行った。
陣地構築への参加は、年齢的にできない人たちや、小さな子どもがいて参加できない人たちもいた。当時は食べるものがなかったため栄養状態が悪く、今(話者への聞き取り時は88歳)の私より若い50歳くらいの人たちでも老けていた。そういう人たちは(作業への参加などの)軍への協力ができなかったため、1944年(昭和19)の夏ごろから県外疎開(そかい)が始まった。「なんで自分の生まれ島から(離れるのか)、どこに行くのか。行かない」と年寄りたちは怒っていた。しかし、国策だから反対できなかった。一方で、私たち(学生)は軍に協力できるから疎開は許されなかった。
私の両親とおば(私を育てたおばとは別のおば)、きょうだいたち(弟4人と妹1人)は大阪にいたが、情報をどう見間違ったのか、沖縄に帰ってきていた。大阪にいればもっといい暮らしができていたと思う。彼らは、食べるものがなくて大変苦労していた。
私は(陣地構築作業などを)一生懸命にやり、10年近く「戦争中の子ども」だったが、砲弾1発も機関銃弾1発も降らなかった。戦場は中国大陸などで、大変な目にあっているのは現地の住民たちだった。初めて戦争の姿を見せつけられたのは、1944年(昭和19)10月10日の十・十空襲(じゅう・じゅうくうしゅう)だった。
■十・十空襲で豊見城まで避難
十・十空襲があった日、私は那覇の下宿先にいた。仲間たちによると朝の7時ごろだったというが、ものすごい(飛行機の)爆音が聞こえてきた。(その爆音を聞いて)本当に喜んだ。というのも、この空襲前に何回か訓練をしていて、この日も訓練だと思ったから。
訓練の際は、警防団(けいぼうだん)の人たちがメガホンを持って「訓練、警戒警報」と周りに触(ふ)れ回り、しばらくすると日本軍の飛行機が7、8機ほど飛んでいった。(日頃から、)爆音が聞こえたら警防団の人が「訓練、空襲警報」と言い、それを聞いたら壕に隠れるという訓練をしていた。壕は畳1枚くらいのスペースで、しゃがんで座れるくらいの深さだった。入口には蓋(ふた)をするように畳を置いて、その上に土を盛ってあった。飛行機の爆音が聞こえなくなると、(警防団の人が)「訓練、空襲警報解除」と言っていた。そうした訓練が3回くらいはあったと思う。だからみんな、10月10日も訓練だと思っていた。
しかし、この日は爆音の音が違った。戦後の記録を読むと、空襲は5回にわたってあり、延べ1,000機(1,396機)が飛んできたと書かれていた。単純に割ると(1回の空襲で)200機の飛行機が、沖縄にも宮古・八重山などの離島にも飛んできたことになる。200機の飛行機というのは信じられないが、記録上はそう書かれている※14。
私は今日の訓練はすごいと思っていたが、警防団のお触れがなかった。午前中、私は隣近所の人たちと一緒に上之蔵(うえのくら)(現 那覇市)にあった知念病院の大きな壕に入れてもらった。何年生のときだったか覚えていないが、私は通堂町の下宿先を出て、知念病院の近くに引っ越していた。壕には14、5人くらい入っていて、ぶるぶる震えていたが、爆弾はいっこうに落ちてこなかった。のちに聞いたことだが、アメリカ軍は、午前中は軍事施設を中心に狙(ねら)っていたそうだ。私は敵ながらあっぱれだと思った。軍事基地を潰(つぶ)せば兵隊がいくらいても動けないし、飛行機も大砲も使えないからだ。
午後から那覇に砲弾の雨が降った。当時、コンクリートでできた建物はデパートや大きな商社など数えるくらいしかなかった。そのほかの建物はほとんどが木造で、きれいな赤瓦(あかがわら)の平屋(ひらや)だった。高層建築はなかった。アメリカ軍はそこに焼夷弾(しょういだん)を雨あられと降らせた。
どこからか、「辻町(つじまち)(現 那覇市)が燃え始めた」という知らせが入ってきた。私の下宿先のおばさんが、「危ないから豊見城(とみぐすく)に逃げよう」と言った。豊見城(現 豊見城市)にはそのおばさんの親戚がいたからだ。私はおばさんと2人で、飛行機から見られないようにしながら壕を飛び出した。本物の空襲のときには(食べ物などは)何も持っていなかった。救急袋だけはいつでも肌身離さず持っていたが、救急袋を食べることはできない。
国場川(こくばがわ)の近くまで来ると、隠れるところがなくてアメリカ軍の飛行機に狙われた。私たちだけでなく大勢の避難民が右往左往していたが、運良く誰も弾に当たらなかった。私たちは真玉橋(まだんばし)(那覇市と豊見城市を結ぶ橋)を越えて豊見城に行った。
夜になって高台に上がってみると、那覇の街が火の海だった。私はその光景を見て、自分の下宿先も学校も燃えてなくなっているだろうと思ったが、その通りだった。
沖縄に戻ってきていた私の家族は、十・十空襲前に大阪に戻るつもりで、荷物だけ先に港に運んでいた。十・十空襲で、家族の荷物も(乗る予定だった)疎開船もやられてしまったが、幸いに家族は佐敷にいたので助かった。(同年の8月22日に疎開船の)対馬丸(つしままる)がアメリカ軍に撃沈(げきちん)されていたが、そのことは口止めされていた(箝口令(かんこうれい)が敷かれていた)ため、私たちは知らなかった※15。
■佐敷に帰る
十・十空襲の翌日は、豊見城のおばさんの親戚の家でお世話になった。ただ、いつまでもお世話になるわけにはいかないので、歩いて田舎(佐敷)に帰った。私には帰る家があったからよかった。(佐敷に帰ることを)学校には何も言わなかった。
家に帰ると、おばや母は私の姿を見て泣いて、「生きていたか」と私を抱きしめた。私はこんなにも家族に大事にされていたのだとつくづく思った。
1年生のときは学校に慣れていないし、友達とも深い付き合いがなかったので、土曜日に田舎に帰り、日曜の夕方に那覇に戻ってきていた。しかし、2年生からは帰宅は月に2回ほどになり、3年生になるとほとんど帰らなくなっていた。というよりも、私はずっと友達や軍のことだけを考えていて家のことを考える余裕がなく、帰れなくなっていた。(おばや母が泣いて私を抱きしめる様子を見て、)家のことを忘れていたことを本当に反省した。
田舎では芋は自分たちで作っていたが、食べ物はなかった。私は(田舎に帰って)すぐに仲間たちのことを考えた。誰が元気で、誰が犠牲になったかわからなかった。これはその後何年も、長いことわからなかった。二高女の校舎は1937年(昭和12)に放火で焼失し、1940年(昭和15)に新しく建て直された。立派で新しい校舎だったが、それも十・十空襲で焼かれてしまった。とはいえ、4年生に進級してからは、校舎は日本軍の兵舎として利用されるようになっていたので、学校にはほとんど行っていなかった。
[十・十空襲から間もなく、二高女では県知事官舎で授業が再開され、中山さんは新里から歩いて通学した※16。しかし、週の半分は陣地構築に動員され、授業らしい授業を受けることはなかったという※17。]
■家族の反対を押し切って看護教育へ
[1945年(昭和20)2月、二高女の稲福全栄校長は第三十二軍司令部から「生徒に看護教育を受けさせるように」という要請を受け、学校(県知事官舎のことだと思われる)で4年生70人を対象とした看護教育が始められた。これは従軍補助看護婦の養成を目的としたもので、球(たま)部隊の衛生下士官(かしかん)を教官とし、主として外傷の救急処置法や、伝染性疾患とその看護法が教えられた※18。]
1945年(昭和20)の2月ごろ、佐敷村の役場を通して学校から連絡が来た。私の家には電話がなかったので、役場吏員(りいん)(役場職員)の人が伝えてくれたと思う。学校も焼けて、先生方もどこにいるかわからなかったが、現在の西原町に一間だけ借りて、校長先生と4、5人の先生方が事務作業をしていたそうだ。
連絡の内容は、家の人が許可をしてくれたら、(山部隊※19野戦病院看護教育隊へ補助看護婦要員として入隊し看護教育を受けるために※20)3月6日に国場駅に集まりなさいというものだった。これは命令ではなかった。この連絡の内容を家族に伝えると、家族からは「行くな」と言われた。しかし、私は沖縄が戦場になると思っていなかったので、「なんで、大丈夫よ」と答えた。家族も沖縄が戦場になるとは思っていなかったが、(従軍補助)看護婦になったら必ず戦地に送られるのではないかと察していたようだ。私は「赤十字の看護婦さんになりたい」と親には言っていたと思うが、十・十空襲の後だっただけに猛反対された。
私は反対する家族をほとんど押し切って家を出た。国場駅までは歩いていったと思う。千代ちゃんも来ていたが、違う字(あざ)(字佐敷)なので一緒には行かなかった。千代ちゃんは「あなたのお母さんがよく許してくれたね」と言ったが、私は「母もおばも反対していたけど、私は『看護婦さんになって、傷ついた兵隊さんを看護するのが使命というか、当たり前でしょ』と言って来たのよ」と答えた。そして「千代ちゃんのお母さんはどうだったの」と聞いた。千代ちゃんは一人っ子だったからだ。千代ちゃんは、「初めは反対されたけど、『お国のためだから仕方ない』と許してくれた」と言っていた。
佐敷出身ではないが、(国場駅には)ゆりちゃん※21も来た。ゆりちゃんは「お母さんにすまないことをした」と言っていた。ゆりちゃんのお母さんは、「お前(ゆりちゃん)までもし戦争で死んだら、私も自殺するよ」と言っていたそうだ。ゆりちゃんのお兄さんの戦死公報が2月に届いており、お母さんが悲しい思いをしているときに「看護教育を受けたい」と言ったから、(ゆりちゃんのお母さんは看護教育を受けに行く娘を)止めようとしたのだろう。子ども2人まで戦争で殺されたら生きていてもしょうがない、と(思ったのだろう)。国場駅には何人くらいいたのか、記録もないのでわからない。実際に看護教育を受けた人数は56人だったが、国場駅にはそれだけの人数はいなかった。何人かは、仲間たちが看護教育に行ったのを知ってから、後から加わった。
国場から東風平(こちんだ)※22(現 八重瀬(やえせ)町)までは先生と一緒に行った※23。道中でははじめに校歌を歌い、その次から軍歌を歌った。歌い終わると誰かが別の軍歌を歌った。気分は高揚(こうよう)し、「これから看護教育を受けて看護婦さんになるんだぞ」という気持ちだった。その場面は記憶に残っている。ありったけの軍歌を歌ったと思う。
国場駅を出発したその日のうちに東風平の学校に着いた。(二高女の先生が)2人で東風平の学校まで送って下さったが、「軍が預かった以上、先生はいらない」と言われて先生たちだけ追い返された。そのため、私たちの看護教育に先生の付き添いはなかった。
■山三四八六看護教育隊へ入隊
山三四八六(やまさんよんはちろく)看護教育隊では、積徳(せきとく)女学校(沖縄積徳高等女学校)※24 も一緒だった。東風平国民学校に行ってはじめて、積徳高女の人たちも一緒だということを知った。人数は積徳の方が多かったと思う。その理由は、(山三四八六看護教育隊では)6つの班が編成されており、1~3班が積徳、4~5班が二高女、6班が沖縄出身の初年兵だったからだ。
[中山さんは、山三四八六看護教育隊に「入隊」したという表現を用いる。]「学生であって兵隊ではないのに、なぜ『動員』ではなく『入隊』なのか」と言われることがあるが、私は入隊という言葉を使う。なぜなら、私たちは「山三四八六看護教育隊内務班(ないむはん)」だからだ。内務班という言葉を辞書で引くと、軍人が(兵営※25内で)起居する最小単位だと書いてある。最初のころは、大学の先生たちも「『動員』であって『入隊』ではない」と言っていたが、私が「内務班で生活しましたよ」と言うと「軍隊だ」と言っていた。だから、二高女と積徳高女は看護教育のときから軍隊に入っていた(と言える)。
私は第五内務班の所属だった。第六内務班は沖縄出身の初年兵で、衛生兵になる教育を受けていたのだと思う。各班の班長は兵隊で、(6人の班長のうち)5人が伍長(ごちょう)、1人は1つ位が上の軍曹(ぐんそう)だった。
■厳しい「軍隊生活」
私たちは、「軍隊に入ったからには女性であると思うな」と言われた。寝起きする教室と看護教育を受ける教室は違っていた。
1日の暮らしはラッパ(が合図)だった。起床、消灯、昼食や集合もラッパで、(私たちは)日本軍隊とまったく同じ生活をしていた。
寝具は毛布を2枚ずつ渡された。もちろん日本軍の毛布だった。3月とはいえ、毛布2枚では寒くて大変だった。2人組になり、2枚の毛布を敷き、もう2枚の毛布をかぶって寝ていた。(この毛布の使い方について)だめだとは言われなかった。私物はわずかで、着替えが1、2組くらいあればよかった。教室の周りにそれぞれの私物を置いていたが、「毛布をきちんと畳(たた)め」と言われたので、毛布も私物もきれいに畳んだ。
ある日、午前の看護実習を終えて帰ってきたら、教室内が毛布の山になって散らかっていてびっくりした。悪い人が入ってきてやったのか、軍隊にも悪い人が入ってくるのかと思っていたら、「畳み方がなっていないから畳み直せ」と言われた。(私たちは)きれいに畳んだはずなのにと思いながら畳み直したが、同様のことを3回くらいやられた。(後々、)これは気合を入れるために兵隊がやったのだなと思った。
2回目にびっくりしたのは、ご飯を食べるときだった。これについては、4班の仲間が書いた記録がある。私のいた班の班長は本当に優しい人で、一緒に教室でご飯を食べてくれた※26。ただ、4班の班長は階級が軍曹でほかの班長よりも偉(えら)かったので、班長室まで食事を持っていかなければならなかった。4班の子が食事を持っていったら、「(食事を持ってくるのが)遅いから食わん」と言って突っ返されたそうだ。班の子たちは、その後もう一度持っていけばいいのに持って行かず、「班長が来ないうちに食べておこう」と先に食事をとったらしい。するとこの軍曹が回ってきて、「貴様らはそういう魂胆(こんたん)か。僕はこの部隊で一番偉いんだぞ。だから一番真っ先に飯は持ってくるべきだ」と、ものすごく怒られたそうだ。それからは、軍曹の食事をすぐに持っていっていた※27。
点呼は毎朝あり、時間は5時だったと思う。私がいた教室には2つの班が入っていたので、おそらく28人くらいが1つの教室にいたと思う。例えば私が当番だったら「第五内務班、総勢28名、現在28名、異常ありません」と報告した。すると下士官が「よし」と言って「番号」と号令をかける。1、2、3……28まで淀(よど)みなくできないと「もとい」(もう一度)だった。点呼は廊下に並んで行われた。
班長に用事があるときに、「あのー、班長さんいらっしゃいますか」と言ったら怒られる。「ここには女性はいない。もう一度やり直せ」と言われた。「第五内務班、津波きく、班長殿に用事で参りました」と軍隊口調で言わないといけない。そのように言うと「よし、入れ」と言われて、自分が用事のある班長と話をする。帰るときも「第何班、誰々、帰ります」と言った。
看護教育隊では不寝番(ふしんばん)勤務もあった。不寝番は2時間で、2人1組でランプを持って建物内を回った。みんなの寝ている場所や他の校舎、トイレを回るのだが、夜のトイレは気味が悪くて怖かった。週番下士官も毎日ではないが見回りをしていた。週番下士官に会うと、軍隊のようにお辞儀をして名乗る。すると「不寝番の任務を言え」と言われる。これを答えられないと大変だった。
看護教育隊での生活はとても厳しかったが、大変だとは思わなかった。私にとってやらないといけないこと、やるべきことだと思っていた。やる気満々だったし、へこたれなかった。
他の女学校が受けていた看護教育は軍隊式ではなく、自分の学校の寄宿舎や近くの病院などで看護教育を受けていたそうだ。
■当時の情勢
看護教育は1945年(昭和20)3月6日から23日までの18日間だった。看護教育期間が1ヶ月の予定だったという人もいるが、そういう期限があったのかどうかはわからない。
日中戦争のときは華々しい戦果を伝えるニュースが流れていたが、1941年(昭和16)12月8日に始まった日米戦争(アジア・太平洋戦争)のニュースはまったく流れてこなかった。情勢が悪化してそれどころではなかったのかもしれないが、私としては、日本は強い国だからアメリカをやっつけていると思っていた。しかし、のちに記録を読むと自分の考えとは逆で、最初から歯が立たなかったのだとわかった。日本軍は(アメリカ軍に)東南アジアあたりから南洋群島、フィリピン、台湾と追い詰められていた。その証拠がアメリカ軍による対馬丸の撃沈で、沖縄のすぐそこまでアメリカ軍の潜水艦(せんすいかん)が迫(せま)ってきていた。日本側は戦況が良くなかったから、一般の人たちにニュースを聞かせなかったのだろう。今ならばアメリカの国力がわかるが、なぜ当時はわからなかったのか不思議だ。
しかし、当時の私たちはそこまで考える余裕もなく、とにかく看護婦さんになることだけを夢見ていた。
■許可が下りなかった卒業式
二高女の先生は時々、東風平に回ってきていた。特に金城宏吉(きんじょうこうきち)先生が私たちのことを一番身近で心配してくださっていた。あとから聞いた話だが、先生が「卒業式をさせてくれ」と軍に頼んだものの、許可が下りなかったそうだ。しかし、看護教育が終わった翌日からアメリカ軍の攻撃が始まっているから、卒業式はできなかったと思う。私たちは学校を卒業するという意識もなかった。看護教育を受けて、看護婦さんになることしか考えていなかった。
■東風平国民学校から山第一野戦病院壕へ
艦砲射撃が始まったのは3月23日だった。この日から、壕の中に入っていないと生きていけなくなった。
すぐに看護実習は打ち切られ、東風平国民学校の裏の方にあった軍の壕で一晩過ごした。翌日、薄暗くなってから、二高女は山第一野戦病院(八重瀬岳(やえせだけ))、積徳は山第二野戦病院(豊見城)へ歩いて移動した※28。
3月6日に国場駅から東風平国民学校に行くときには、気勢(きせい)を上げてありったけの軍歌を歌ったが、3月24日に八重瀬岳に向かうときには誰も口を利(き)かなかった。というのも、夜間の移動だったので艦砲弾が花火のように飛んで行くのが見えたからだ。これからどうなるのかという気持ちが強くて誰もが無口だった。この様子を戦後、「お葬式のようだった」と表現するが、心配で心配で話をするどころではなかった。誰も話さないまま、山第一野戦病院に向かった。
しかし、到着したものの、その日は壕に入れなかった。なぜなら壕が出来上がっていなかったからだ。一応、病院の中を見学するという感じで壕の中に入ると、赤痢(せきり)を患(わずら)った内科患者がいた。赤痢は伝染病なので、今だったら隔離(かくり)される(しかし、このときは隔離されていなかった)。私たちが到着して3日目くらいから負傷兵が運ばれてきたが、そのときまでは、壕の中に入って様子を見るくらいだった。
最初の一週間くらいは私たち学徒の寝る場所がなかったので、昼は壕の中に入り、夜は三角兵舎で寝ていた。直撃弾を受けなかったからよかった。八重瀬岳まで艦砲弾が飛んでくることはなかったが、艦砲射撃が始まったから危ないということで、壕の中に入っていた。
今、(病院壕の)入り口は全て塞がれていて、中に入れないようになっている。
■10人が除隊
看護教育隊は命令によるものではなく、家の人から(女子学徒を)預かっている(という認識だった)。だから、家族から「(娘を)帰してくれ」と言われた人と、体調を崩してこれ以上勤務ができないという人は自宅に帰った。野戦病院に到着した後に、家から「帰してくれ」と言われて帰ったのは1、2人くらいだと思う。その他の人たちは体調が悪くなって帰っていった。
戦後、このことに関して、先に帰った人は白梅学徒隊ではないという捉え方(とらえかた)をされることがある。別の学徒隊の記念誌には、白梅学徒は56人なのに、帰った10人を除いて46人と書いてあった。この10人は帰ったけれども、戦争はすでに始まっていたし、10人のうち5人は(家に帰る)途中で亡くなっている。私は「1日でも何日でも、病院(壕)まで来て勤務をしたら白梅学徒だ」と言っている。一番早く帰った人が八重瀬岳の病院壕にいたのは2日くらいだったと思う。八重瀬岳に到着して、だいたい一週間以内に10人が帰っている。また、本※29に10人「除隊」と書いたのは、(看護教育隊に入ったことを)「入隊」だと捉えているからだ。(除隊の)書類はなく、口頭のみだった※30。
私は、帰っていった人の1人が非常に印象に残っている。嘉数幸子(かかずさちこ)という、小柄で生まれチヂラー小(グヮー)(天然パーマのような縮れ毛)で、かわいい子だった。何度か振り返って泣きながら「(私たちと)別れるのが辛い」と言っていた。でもこの子は家に帰る途中で死んでしまった。亡くなった場所もわからない※31。他の9人も帰った時期はバラバラで、一緒ではないと思う。家族が引き取りに来た人もいるかもしれないが、それもわからない。
■手術場壕へ
(看護教育を受けた)18日間では何もできないと思ったが、現場では本当に役に立った。私たち学徒がいなかったら、野戦病院は成り立たなかった。というのも、私たちがやったのは汚物を片付けることで、知識のいらない業務だったからだ。私は、傷ついた兵隊さんの傷を消毒し、薬を塗ってガーゼを当て、包帯で巻くというのが看護だと思っていた。しかし、これらは看護婦さんと衛生兵がやった。医療行為だから素人(しろうと)ができるわけがなかった。
病院壕に到着して一週間後くらいに、壕の第一坑口(こうぐち)の一番端に私たち学徒用の場所ができた。だが、そこは荷物を置いておくだけの場所で、寝る暇(ひま)はなかった。ほとんどの人が壁によりかかって、まどろむ程度だった。
負傷兵がどんどん増えて、2段ベッドに寝かされた。現代の救急体制のように、けがをしたらすぐに救助されるわけではなく何日間も放って置かれた。しかも山野だから、銀蝿(ぎんばえ)がたかって傷はどんどん悪化していく。負傷兵は一人残らずウジに蝕(むしば)まれていた。
私はすぐに手術場壕※32に配置換えになった。一番長く勤務したのが手術場壕だった。手術場壕は、戦前にセメントのようなものを取るために掘ったところを、さらに掘り進んで反対側からも出入りができるようにした、自然洞窟(どうくつ)に似た人工壕だった。
手術場壕に運ばれてくる人たちの手術は、普通の手術ではなかった。傷がものすごく悪化して、傷の周りが髪の毛ぐらいに真っ黒になっていた。看護婦さんが「壊死(えし)している。ここは早く切り捨てないと毒が回って死んでしまう」と言っていた。ほとんどが手脚(てあし)の切断をする手術だった。また、盲管銃創(もうかんじゅうそう)(体の中に弾が残っている状態)の切開手術もあった。そういうことをするのが手術場壕だった。
薬はほとんどなかった。せっかく手術して病院壕に収容しているのだから、本当は包帯の交換もしないといけないが、包帯もないから交換しなかった。また、傷が悪化して高熱を出すと脳症(のうしょう)を発症した。脳症は、自分が何をしているかわからない状態になるので大変なことをする。自力で動けないのにベッドから降りようとして落ちたり、衣類を脱ぎ捨てたり、訳がわからないことを言ったりした。これは病院とは言えなかった。
他にも、「水がほしい」とか「包帯交換してくれ」とか、いろんなことを言われた。私たちは、お国のために戦った兵隊さんのためにこの場所に来ているという気持ちがあるから、「ハイ、ハイ」と言って対応する。すると1日中、座る暇もなかった。
■1日2回の食事
食事は、軍の病院だったからか、最初のころは1日2回もらえていた。ピンポン玉よりは大きいくらいのおにぎりで、白い米ではなく、玄米と何かが混ざって入っていた。食事はこれだけだったが、重傷の兵隊さんたちも同じものだった。ある人が「軍隊の記念日のようなときにはお汁が出た」と言っていたが、ほとんどの人は覚えていない。おにぎり以外で付くとしたら、佃煮(つくだに)とか福神漬け(ふくしんづけ)くらいだった。
私たちは炊事を一切していない。炊事をしていたのは兵隊だと思うが、作っているところは見ていない。炊事場のあたりに樽(たる)が出されていて、それを取りに行くだけだった。炊事場周辺では学徒の出入りはなかった。近くに将校室もあったので、学徒は自由には歩けなかった。
私は手術場勤務なので、そこまで樽を担いで持って行くのが大変だった。灌木(かんぼく)(背の低い木)が残っていて、木の間をぬって移動していたが、爆音が聞こえたら運んでいる途中でも樽を置いてじっとしていた。
■手術場壕での勤務
私が手術場壕で最初にした仕事は照明係だった。軍の病院の手術場なのに電灯はなかった。他のところはランプを使っていたが、手術のときにランプは危ないとのことで、2人でロウソクを2本ずつ持ち、計4本のロウソクの明かりで軍医さんが手術をした。ロウソクは紙みたいなもので包んで持っていたと思う。
指を切るだけでも痛いのだから、手や脚を切断するのに麻酔(ますい)は絶対に必要だった。脚を切断するときには、体を直角に曲げて、背中の脊椎(せきつい)のところに麻酔をした。手の切断をする人たちには、肩のあたりに麻酔をしていた。麻酔をしたのに、メスを入れた途端、一人残らず「やめてくれ、切らないでくれ」と叫んだ。麻酔の量が足りなかったのだと思う。ほとんどの物資が不足しているときだったし、手術に時間もかけなかった。戦後、私は家族の手術に立ち会ったことがあるが、医者が患者に数を数えさせて数えるのが止まったら麻酔が効いていると判断していた。しかし、手術場壕では麻酔をしたかと思ったら、時間をかけないですぐやる(メスを入れる)から、「やめてくれ、切らないでくれ」となる。この言葉は忘れられない。患者が叫んだ途端に、軍医が「貴様、それでも軍人か」と怒鳴(どな)る。軍医も痛いのはわかっているが、そんなことは言えなかったと思う。軍医さんは上官で偉いので、患者は言われた通り、叫び声はあげないが、口を結んで唸(うな)って苦しがっていた。
私も最初のころは患者と一緒に泣いて、手術も見ていられなかった。本当は軍医さんの手元にロウソクの光を当てないといけないのに、怖くて顔をそむけていた。すると「明かりをしっかり照らせ」と足を蹴飛(けと)ばされた。何回も蹴飛ばされ、兵隊さんの看護にきているのにこのザマは何だと、自分で反省した。ちゃんと軍医さんの手元を照らそうと何日もやっていると、怖くても顔をそらさないようになっていった。
手術中に気絶してしまう人はいいのだが、そうでない人たちは動いたりする。そんなときは「早く済みますよ、ちょっと我慢してください」と声をかけられるようになったし、手術中の様子も見ることができるようになった。軍医は患部を切り捨てた後、血管をくびり、最後に皮膚(ひふ)と皮膚を縫(ぬ)い合わせていた。そのときに、患者さんに「今は血管を結んでいますよ」と状況を伝えたり、「すぐ終わりますよ」と励(はげ)ましたりすることができるようになった。
軽傷の人たちが入る場所と、切断または切開手術が必要な人たちが入る場所は別だった。切断や手術が必要な人は多いときには4、5人運ばれてきたが、ほとんどは待たされている間にそこで亡くなってしまった※33。この人なら連れて行ってもいいと思われる人たちが(病院壕に)運ばれてきて、どの人を手術するかは軍医さんが選んでいた。最初のころは1日に5人も手術をしていた。昼は(病院壕に)収容していた人たちの世話をやって、夕方から翌朝まで毎日手術がされていた※34。私たち学徒は2人ずつ交代した。
切断した手足は、毎日砲弾穴に投げ捨てていた。場所は今の八重瀬公園の駐車場になっているところで、当時は畑だった。梅雨どきだったので、砲弾穴には水が溜まっていた。また、手術場壕に勤務していた5人の学徒のうち1人だけが戦争で亡くなったが、私以外で生き延びた3人の誰に聞いても、(手術場壕勤務のときに)死体の処理や埋葬をさせられた人はいなかった。
5月半ばごろからは、薬も包帯もなくなってしまった。患者が4、5人運ばれてきても、1人ぐらいしか手術をされなかった。これは軍医さんが決めていた。手術するかしないかは傷の良し悪しの程度を見て判断していたと思うが、どういう風に選んだのかはわからない。「(階級の)高い人から手術をやっていた」という人もいる。一度の手当も受けないで亡くなった人もいた。
■排泄の世話
手術場以外の係のときには、患者さん達のいろんな世話をした。患者さんたちからは、「傷が痛い」「いつ包帯交換するの」「おしっこ」「便」など言われた。おしっこと便の対応は、できないと思いながらもやった。看護婦さんがガーゼと尿器、または便器を持ってくるので、患者自身で用足しができたらいいが、重傷なのでできない。ガーゼも何もかも不足している時代だったが、(用足しの補助の際には)看護婦さんが「ガーゼを使いなさい」と言った。結局、(患者の局部を)つかんで尿器に入れてあげないといけなかった。便も、患者がしてしまったものの拭き取りもした。相手が重傷患者だからできたかもしれない。知識はいらず、片付けるのが私たちの仕事だった。包帯の交換などは全然できなかった。傷の手当てが看護の仕事だと思っていたが、今考えたら、これ(排泄(はいせつ)の世話)も看護である。
■解散命令
6月4日に「本部壕に集まりなさい」と言われた。そして、軍医さんたちから「君たちも知っている通り、薬も包帯もなくなった。病院の機能はなくなったから、この病院を閉める。君たちはよくやってくれた。君らは大勢で固まらないで、2、3人ずつ南部の方へ逃げてくれ」と言われた。言い換えれば、これは解散命令だった。
その言葉を聞いて、私たちは艦砲射撃が始まったからここ(八重瀬岳)に来たのに、南部も艦砲射撃を受けているじゃないかと思った。すると続けて、「実は2ヶ月前の4月1日に沖縄本島中部の西海岸にアメリカ軍が上陸して、首里まで来ている」と聞いて、そこで初めて敵が上陸していたことを知った。そのときまでは敵の上陸を知らなかったのでショックだった。(アメリカ軍が首里から)八重瀬岳までは3、4日では来るということが私たちでもわかった。
そのころの私たちは、薬も包帯も不足していたから日本軍が助けに来てくれると思っていた。これはほとんどの仲間たちがそう思っていた。でも来たのはアメリカ軍だった。当時はアメリカ軍の戦力はわからなかったが、沖縄本島に上陸したということであれば、戦争は負けかなという気持ちもあった。
それで私は、南部に逃げるしかないと思った。(言われた通り)2、3人で逃げるならと、千代ちゃんと一緒に壕を出た。傷病兵は残っていたが、その後どうなったかわからない。「処置※35」をしたのかどうか、私は見ていない。手術場はみんな重傷の患者だから、生き延びることはできなかったと思う。
■南部を逃げまどう
南部は行ったことがなかったから、道を全く知らなかった。八重瀬岳を上がって見たら大勢の避難民が、小さい道ではあるものの道幅(みちはば)いっぱいになって歩いていた。数百人ぐらいの人がいたと思うが、5、6列になって疲れたように歩いていた。それを見てホッとした。行き先は考えずに、彼らの後に付いて行った。
新垣十字路(現 糸満市新垣)に出るところで2回、砲弾が落ちた。たくさんの即死した人、大けがをして叫んでいる人がいたが、誰も構う人はいなかった。自分たちもいずれこうなるのだと思っていた。私も千代ちゃんも運良くやられなかった(けがをしなかった)。
新垣十字路からまっすぐ糸満方面に行けば、今の白梅の塔のところ(現 糸満市真栄里(まえさと))に着く。だけど私たちは左に曲がって、米須(こめす)方面へ行った。
たくさんの避難民がいたので2人きりになったことはない。隠れているときは2人だけだが、移動するときは避難民の後に付いて行くだけで、目的地はなかった。どこが安全かもわからなかったからだ。戦後に3回くらい当時の足跡を辿(たど)ったが、どの道を歩いたかはまったくわからなかった。でも方向はわかった。
(避難した場所の中でも)大度(おおど)(現 糸満市大度)がとても印象に残っている。大度まで行って浜辺まで降りた。あのあたりにはアダンの木が広く植わっていて、海からは見えなかった。あのときには艦砲射撃もなく、爆弾も落とされなかった。なぜなら、あの一帯にアメリカ兵、日本兵、住民が混在していたからだ。もしアメリカ兵に見つかったら機関銃で撃たれていた。
その大度の浜で、ものすごく怖い死体を見た。おそらく日本兵だったと思うが、皮膚が真っ黒になって、パンパンに腫(は)れあがっている死体をすぐ近くで2体見た。あれは怖かったし、あの場面はまったく忘れられない。
浜辺を通るのも危ないと思い、少し引き返して、陸地を通りながら摩文仁(まぶに)の方まで行った。それから、今の沖縄師範健児の塔(現 平和祈念公園内)あたりかと思うが、そこから海岸まで降りた。海岸に降りると疲れ果てて動けなくなった。そこに一週間くらいいたと思う。日付はわからないが、とにかく長い時間いた。
そのとき、「敵陣突破(てきじんとっぱ)」(アメリカ軍の陣地を突破して国頭(くにがみ)方面へ行くこと)という言葉が聞こえた。千代ちゃんと相談して、その声がしたところに行ったら、兵隊さんだけではなく大人の住民もいた。(彼らに合流したいと伝えると、)「女・子どもはダメだ」と言われた。それで「私たちは山部隊の学徒看護婦でした」と言うと、軍属(ぐんぞく)と解釈(かいしゃく)したのか、「そうか。固まって歩くと危ないから、一列縦隊(じゅうたい)で逃げるができるか」と聞かれた。私たちは「できます」と答え、15人くらいの集団の一番後ろに加わった。
昼は山の中に隠れ、暗くなってから移動した。見晴らしが良い場所ではなく林の中やサトウキビ畑の端の方を歩いたが、アメリカ軍は探知機でわかっているのか、暗いところをめがけて機関銃を撃ってきた。それで何人かやられた。
私たちは摩文仁の海岸から港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)あたりまで来ていた。一緒にいた人たちの名前もわからず、日に日に人数が減っていた。(アメリカ軍に)やられたのかどうかわからないが、はぐれていっていた。私と千代ちゃんも後ろを付いていったが、陸に上がったあとにこの集団とはぐれてしまった。
戦後に考えたところ、おそらくガラビ(八重瀬町新城(あらぐすく)にあるガラビガマ)だろうと思うが、(立ち寄った壕の)中は避難民がいっぱいで入れなかった。岩山なので周囲よりも高くなっていて、そこ(ガラビガマの入口付近※36)にだけ爆弾が落とされた。弾の破片もあるが、岩のかけらや木の枝など、いろんなものが降ってきて、そこにいた人たちが大けがをした。口をやられた人や、片手がブラブラした人もいて、たくさんの人がやられた。幸い、私と千代ちゃんはけがをしなかった。
そこから2人とも夢遊病のように、どこに行くともなく、ただ北へ北へとふらふら歩いた。ガラビガマの南側で(爆弾が落とされて)怖い目に遭ったので、それからはずっと北の方向へ歩いた。
次に怖い思いをしたのは、広っぱで四方八方(しほうはっぽう)から機関銃弾を浴びたときだ。場所は大里村の西原(にしはら)(現 南城市大里)だったか、どこだったかわからない。おそらくアメリカ軍が、このあたりを通る人をいっぺんにやっつけようとしていたのかもしれない。ここでもたくさんの人がやられた。しかし、運良く私も千代ちゃんも弾に当たらなかった。
ちなみに、私はここではなく、もっと南にいるときに軽いけがをしたが、自分の持っていた薬で手当てをした※37。
■大里村の西原にたどり着く
その後、私たちはまた誰かの後ろにふらふらとついて行った。気がつくと、大里村の西原まで来ていた。私たちが小さいころ、そこを西原小(ニシバルグヮー)※38と呼んでいた。自分たちがそこまで来ていると思わなかった。西原は田舎(いなか)だから緑のトンネルのようになっていて、長い道に避難民がぎっしりと座っていたが、誰もが疲れ果てていて動かなかった。
すると、私たちの近くに知らない日本兵が2人ぐらいいて、「この村は捕虜収容所(ほりょしゅうようじょ)になっている」と言った。「この村」と言われても、(収容所が開設されている様子が)見えなかった。千代ちゃんも私も同じ思いだったと思うが、日本人が捕虜になるの?と思った。当時は、「捕虜になるくらいなら舌を噛み切って死ね」と言われていたので全然信じられなかった。「日本兵もたくさん捕虜になっている」と言われ、私は我慢できなくなって「本当ですか?」と聞いたら、「本当だよ」と言われた。「(その村は)どこですか?」と聞いたら「佐敷という村だ」と言われた。「私はそこの出身です。まさか」と言うと、「君らは兵隊ではないから死ぬ必要はない。明日、自分の村へ降りていけ」と言われた。ちなみに、そのとき自分たちが西原にいることはこの兵隊さんたちから聞いて知った。
■アメリカ兵に捕らえられる
翌日、兵隊さんに「今みたいに夜間行動をしたらかえってやられるから、昼に堂々と入っていきなさい」と言われた。捕虜がいっぱいいるから、そこに紛(まぎ)れ込みなさいという意味だと思う。そのようにしたら、すぐにアメリカ軍に捕まった。西原から峰伝(みねづた)いに小谷(おこく)(現 南城市佐敷)へ降りていき、今の(のちに嫁ぐことになった)中山家の門中墓(もんちゅうばか)の裏あたり※39で捕まった。
角々に銃を持ったアメリカー(アメリカ兵)がいた。だけど、ひどいことはされなかった。アメリカ兵たちはちゃんと教育されていたのだと思う。私が彼らに捕らえられたときの様子を(仲間たちに)話したら、「私たちも(同じ)よ」と言われた。アメリカ兵は銃をすぐに下ろして手招きした。私は殺されると思いながらも、逃げたら撃たれるし、どうしようもなかった。
私たちはすぐに大きなテントに連れて行かれた。そこのテーブルには山ほどの食べ物が置いてあった。すぐにアメリカ兵が水を入れたコップとチョコレートを持ってきて、「飲みなさい、食べなさい」と渡された。私たちは怖くもあるし、敵のものを食べるものかと思って「いりません」と頭を振った。するとアメリカ兵は水を飲み、チョコレートを食べて見せた。それでも私たちは出された食べ物に触らなかった※40。
その後、ジープに乗せられて、新里ビラ(坂)を登ったところにできていた軍政府のところに連れて行かれた。軍政府は大きなテントを張って設置されていた。アメリカ軍からの尋問(じんもん)はとても簡単なもので、「どこから来たか」「そのあたりはどういう状態だったか」などと聞かれた。私は殺されてもいいと思って、「野戦病院の看護婦をしていた」と言った。すると、「軍医は何人いたか」「衛生兵は(何人か)」と聞かれた。私がいたところは軍医さん1人、看護婦さん3人、衛生兵3人だったので、それを答えた。他にもいろんなことを聞かれたが、全然わからない内容だった。私に尋問をしていたのはアメリカ兵の通訳で日本語ができる人だったが、その人からは全然咎(とが)められず、すぐに釈放(しゃくほう)された。尋問は30分もかからなかったと思う。
二世(日系二世のアメリカ兵)の人で名前を忘れられない人たちがいる。比嘉さんという人と大久保さんという人だった。大久保さんは「見よ東海の空あけて~」(から歌い出す)と、「愛国行進曲」という)軍歌を歌っていた。怖くもあるし嫌だなと思ったけど、「私たちはこの村の出身なんです」と言うと、比嘉さんが「そうか、じゃあ家族がいるかどうか探してみよう」と言って、親切に村に入っていった。私たちは、本当は捕虜収容所に連れて行かれる予定だったかもしれない。しかし、私と千代ちゃんは収容所に入ることはなく、その日のうちに家族に引き取られた。
■新里での生活
今考えると奇遇(きぐう)だと思うのだが、新里に行くとアメリカ軍の憲兵隊(けんぺいたい)※41がいた。彼らは、炊事や洗濯ができる若い女の人がいる世帯を10軒ぐらい残し、他の人たちはみんなヤンバルの収容所に送っていた。残された10軒ぐらいの人々の中には新里以外の字の人たちも含まれていて、みんな川沿いで暮らしていた。その中に私の家族もいた。時期は6月の下旬か7月の頭あたりだと思う※42。
若い女性が私しかいない私の家族がなぜ新里に残ることができたかというと、当時、私の父方のおじ(父の姉の夫)は山城といい、(新里の)区長をしていた※43。私の家族は、病弱の父と身重の母、高齢のおば2人だった。(おじは)そんな家族が(ヤンバルに行ったら)危ないと思ったのか、みんな山城家の家族であると偽った。それで私の家族も新里に残ることができた。もし私の家族がヤンバルに送られていたら、あそこでみんな亡くなっていたかもしれない。私はこのおじさんが亡くなるまで、ずっと感謝の気持ちでいっぱいだった。
当時は1軒の家に3、4世帯が入って生活していた。千代ちゃんの家族も、字佐敷の人たちだけれど新里にいた。千代ちゃんのお父さんは村の議員だったのだが、それが理由で新里に残れたのかどうかはわからない。
一週間は家にいたが、衛生兵と比嘉さんたちが来て「診療所で働きなさい」と言われた。理由は野戦病院にいたからではないかと思う。診療所は新里に開設されていた。衛生兵はみんなアメリカ兵だった。診療所は、戦争で受けた傷の手当てではなく、戦争中の不潔や栄養失調、おできを治す場所だった。今はおできがある子はいないと思うが、当時は大人も子どももニーブッター(おでき)がいっぱいあった。
診療所での仕事はかさぶたを消毒して薬を塗るだけだったので、これなら私にもできると思った。アメリカの薬は素晴らしくて、薬を塗って2、3日もしたらすぐに治った。あんなにいい薬があるんだと思ってびっくりした。
私が診療所に来るまでは、私より年上の大里村出身の女性2人が手伝っていたそうだ。衛生兵たちからは、「前のお姉さんたちよりあなたたちがいい」と言われた。前のお姉さんたちにはそういう(手当ての)経験がまったくなかったようだ。私はそこで3ヶ月くらい働いた。給料は現物給付で、お金はもらえなかったが、アメリカ製の毛布やアメリカ軍の敷布団をもらった。
今では住宅が建っているが、新里には小さなウマイー(馬場)があった。そこには金網が張られて大勢の日本兵が収容されていた。(私たちに佐敷に行くように勧めた)知らない兵隊さんが言った通りだった。この人たちは、後に屋嘉(やか)収容所※44に連れて行かれたのではないか。
■アメリカ軍に対する気持ちの変化
アメリカ軍に対する気持ちは、捕虜になったときをきっかけにだいぶ変わった。誰に聞いてもそうだったが、アメリカ軍が沖縄の人たちを捕虜にするときの態度はとても親切だった。夜に(収容所まで)女性を漁(あさ)りに来るアメリカ兵もいたが、捕虜にするときだけは(民間人を)虐待(ぎゃくたい)せず、食べ物をくれるなどしてみんな優しかった。
診療所にはカーターさんとガンターさんという人、(もう1人を含めて)3人くらいの衛生兵がいたが、とてもいい兵隊さんたちだった。アメリカー(アメリカ軍)ってこんなにいい人ばかりいるね、と思った。それから、二世の大久保さんや比嘉さんとも、新里にいる間はいつも話をしていた。この人たちに対しての敵愾心(てきがいしん)は消えていた。ただ、なんでこういう国と戦争したのかな、と思った。
■新里から百名へ移る
いつだったかはっきりと覚えていないが、新里に来て3ヶ月くらい経ったころ、憲兵隊が百名(ひゃくな)(現 南城市玉城)に移ることになった。新里にいた民間人は憲兵隊の手伝いなどのために新里に残っていたので、同じように百名に移った。私も、自分の家族と山城家と一緒に移動した。百名では大きなテントの中にみんな一緒に住んでいたが、私たちだけは小さな掘っ立て小屋のようなところに住んだ。
新里で働いていた診療所がどこに移ってしまったのかわからないが、百名に行ってからは診療所の仕事がなくなったため、家の中でミジクマー(水汲み)をした。ひめゆり学徒隊だった仲里正子(なかざとまさこ)さんと一緒に、仲村渠樋川(なかんだかりヒージャー)※45から毎日、何十人分かの水をドラム缶に入れて運んだ。この水は百名に住んでいる人たちの生活用水だった。なぜかわからないがドラム缶風呂が流行って、みんなこれが楽しみだった。仲里正子さんとは、あの時代に何ヶ月か一緒に暮らした仲だから、今でもきょうだいのような付き合いがある。
■志喜屋初等学校ができる
志喜屋(しきや)(現 南城市知念)に小学校ができた(志喜屋初等学校)※46が、先生がいない。男性の先生は戦地に行って戦死された方が多いし、女性の先生もそれぞれの出身地に帰っていたからだ。そのため、「女学校、中等学校を出た人はいませんか?」と、校長に任命された人が(先生になれる人を)あちこち探しまわっていた。
私のところにも誘いが来たが、最初は断った。私は女学生時代に全く勉強していなかったから、小学校の先生なんてとんでもないと思ったからだ。だから私は、「先生はできません」とお断りしたが、その後2回も誘いに来られた。
3回目に来た人は私の知り合いの校長先生で、佐久本嗣善(さくもとしぜん)先生だった(ちなみに、これが縁だったのかどうかわからないが、私が結婚したときにはこの先生が仲人(なこうど)をしてくれた)。このとき、嗣善先生に「まずは学校を見に来てくれ」と言われた。見に行くぐらいならいいだろうと思い行ってみると、私と同じ女学生のような先生(私はもともと三つ編みにしていた髪の毛をシラミのせいで切っていたが、それと同じような髪型をしていた)が、木の下で15、16人の子どもと遊んでいた。校舎もない、教具もない、本もない、何もない。いるのは子どもだけだった。それが学校だった。
(この光景を見て)私は、これならできるとピンときた。当時は畑、山、道、すべてが工事現場のように掘り起こされている状態だった。戦争が終わり、村でも道でも、とにかくどこか手を付けないと復興できなかった。そのために大人たちが作業に参加していたが、子どもを家に残しておくのは心配だろう、だから子どもたちを預かる必要があると思った。何もなくても、かけ算九九はできる。これなら私にもできると思い、先生を引き受けることにした。
このころ、アメリカ軍から粉卵や粉ミルクの配給があって、それをお湯で溶かしたものがお昼ご飯だった。他に何も食べるものはなかったが、それでも子どもたちを預かって、「今日は2の段」、「明日は3の段」と、かけ算九九を教えた。子どもたちもこれを楽しみにしていた。また、「自分の名前の書き方を覚えよう」と、地べたに木の枝で字を書いたりもした。これが沖縄の学校の始まりだった。もちろん、これは正式な教育ではなかったと思う。あくまでも大人を働きやすくするために、子どもを預かっていたのだと思っている。
私自身、戦争が終わってからは、(先生を引き受けるまで)家で何もせず水汲みばかりしていた。戦争に負けた悔しさもあり、毎日ふさぎ込んでいた。これからどうなっていくのか、将来のことも心配ばかりしていたが、先生として3ヶ月くらい子どもと遊んで、とても楽しかった。
■文教学校へ
その後、文教学校ができた※47。文教学校の一期生は師範学校の生徒のみで、学校を卒業していなかった人が入学した。二期生からは、残りの師範学校の生徒と各女学校からの生徒も入学することができた。
私は二期生として文教学校に入学した。志喜屋初等学校で子どもたちと遊んだ経験から、先生になろうと思った。あの経験がなかったら先生になっていなかったと思うので、やってよかったと思っている。
(文教学校の入学)試験場は百名で、筆記試験だった。なんとか私も合格することができた。文教学校は具志川(現 うるま市)にあったがバスがなかったため、向こう(具志川方向)に行く人の車に手を上げて乗せてもらう拾い乗りで通った。あのころは(知らない人の車に乗ることは)全然怖くなかったが、1人だと怖かった。そのため、同じ二期生でひめゆり※48出身のウエザト(ウエサト)トシコさん※49と、あと1人の子と3人くらいで一緒に行動していた。
私が通っていたころの文教学校の修学期間はたった4ヶ月だった。文教学校を修了してからは新里に戻った。このころには自分の村に帰ることができていた。
その後、首里城跡に琉球大学ができた。文教学校では正式な教師の資格が取れなかったので、琉大の「単位坂」をせっせと登って教員資格を取った※50。琉大には当時、文部省から毎年夏に指導教官が来て指導していた。
■伝えるために生かされている
その後、私は49歳のときに教員を辞めた。私の夫は師範学校の卒業生で教員をしていたが、なぜかわからないが県庁に入り、その後、入国管理局の国家公務員になった。当時の入国管理事務所長は、みんな東京から来た人だった。夫は年配だったからか次長をしていたが、沖縄の人は次長から上にはいけなかった。
沖縄が本土復帰した2年目に、夫に転勤命令が来た。夫は元々「沖縄も本土復帰したんだから、他の県みたいに転勤があるはずだ。僕は行くよ。自分のポスト(次長)は後輩に譲(ゆず)る」と言っていた。そのころ(夫が)体調を崩していたこともあり、私は49歳で教員を辞めて夫について行った。
最初の転勤先は奇(く)しくも広島で、その次は長崎だった。どちらの県でも、原爆の被災者の人たちが原爆の恐ろしさを語り伝えていた。私は教員だったころ、自分が学徒隊であったことをまったく話してこなかった。(広島・長崎での体験から、)私たちも白梅学徒隊の記録を書くことにした。白梅は記録を書くのが一番遅かった。白梅学徒隊だったみんなも「思い出したくない」と言って初めは断っていたが、私は熱心にくどいた。その後、「私が原稿を書くから、みんなで間違いがないか(確認する形にしよう)」と呼びかけ、それに応じた7、8人くらいで編集委員会を置いた。私は毎晩、夜中までワープロを叩いて原稿を作った。その原稿をみんなで校正して、沖縄戦から戦後50年目にやっと本を出した。みんなで確認したという強みがあった。
また、広島・長崎のように沖縄戦のことを伝えていかないと、若い人たちが「お国のため」と言われて戦争に応じるのではないか、絶対に若い人たちに私たちと同じような道を歩ませてはならないと思い、語り部の活動も始めた。
最近、マスコミで活動の様子が報じられるので、それを見た教え子たちから「(これまで)学徒隊の話を全然しなかったよね」と言われたが、50年間話すことができなかった。私は自分や白梅学徒隊の体験を伝えるために生かされていると思っている。
(2017年 事務局による聞き取り 構成:山内優希、若梅会)
■脚注
※1 現在の那覇市松山(現 松山公園付近)にあった。同校から動員された生徒たちのことを戦後「白梅学徒隊」と呼んでいる(公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和記念財団立 ひめゆり平和祈念資料館編集・発行『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』2011[第2版]144,145頁 参考)。
※2 現在の那覇市安里にあった。同じ敷地内に沖縄県女子師範学校があり、両校合わせた通称は「女師・一高女」である。この2校から動員された生徒たちのことを戦後「ひめゆり学徒隊」と呼んでいる(前掲『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』132,133頁 参考)。
※3 『佐敷町史 戦争』では「小学校からの同級生の嶺井千代さん」と証言している(佐敷町史編集委員会編『佐敷町史 戦争』(佐敷町役場 1999 260頁)。
※4 現在の那覇市首里桃原町にあった。同校から動員された生徒たちのことを戦後「瑞泉学徒隊」と呼んでいる。なお、この学校名は1943年に改称されたもので、それ以前は「沖縄県立女子工芸学校」という名称だった。そのため、当時の中等学校生には「工芸学校」という名称の方がなじみ深い(前掲『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』158頁 参考)。
※5 馬車ムッチャー(馬車持ち)が那覇への往復途中で休憩した宿のこと。
※6 現在の那覇市首里当蔵町(現 沖縄県立芸術大学)にあった。同校から動員された生徒たちのことを戦後「師範鉄血勤皇隊」と呼んでいる(前掲『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』36頁 参考)。
※7 同じ佐敷村出身の本永(旧姓嶺井)千代氏のことだと思われる(白梅同窓会編集・発行『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』1995 304頁)。
※8 戦前から戦後にかけて映画館で上映されていた、時事的な話題を扱った短編の記録映画のこと。テレビの普及に伴い衰退した。(国立国会図書館リサーチ・ナビ「ニュース映画」参考 https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/avmaterials/post_602011)。
※9 1940年公開の日本映画。瀬戸内海・長島の国立らい病療養所における患者救済の記録を女医・小川正子が綴った体験記をもとに、八木保太郎が脚色、豊田四郎が監督で映画化した。(映画ナタリー 作品情報「小島の春」 https://natalie.mu/eiga/film/137140 参考)
※10 ここで言う「女子青年団」は、沖縄戦で救護班や炊事班などの要員として日本軍に動員された女性たちのことを指していると思われる。
※11 ここで言う「上の学校」とは、旧制中等学校(中学校、高等女学校、実業学校)や師範学校のことだと考えられる。
※12 「上原(イーバル)」という地名が市内に複数あるため場所は明確ではない。ただし、1944年(昭和19)7月から12月まで知念村内で第九師団歩兵第十九連隊第一大隊(通称 武部隊)が陣地構築を行っており、その内の1カ所が知念村久手堅の上原である。久手堅の上原では戦車障害物の壕が構築された(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』534頁 参考)。
※13 陣地構築作業への学徒の動員については、中山さんが二高女4年生だった1944年(昭和19)から本格的に始まったと語られることが多い。しかし、その前年にも陣地構築への学徒の動員が行われていた可能性は否定できないため、ここでは中山さんの語りをそのまま記載した。
※14 飛来したアメリカ軍機の数は次の通り。第1次空襲は午前7時から午前8時20分にかけて約240機、第2次空襲は午前9時20分頃から10時15分頃にかけて約210機、第3次空襲は午前11時45分頃から午後0時30分にかけて約120機、第4次空襲は午後0時40分頃から午後1時40分頃にかけて約110機、第5次空襲は午後2時45分から午後3時45分にかけて約160機(沖縄県教育庁文化財課史料編集班『沖縄県史 各論編 第六巻 沖縄戦』沖縄県教育委員会 2017 173,174頁 参考)。
※15 1944年(昭和19)8月23日、那覇港から長崎へ航海中にアメリカ潜水艦の攻撃を受け撃沈した貨物船。県外へ疎開するために乗船していた784人の学童を含む1,484人(氏名判別者数)が犠牲となった(公益財団法人対馬丸記念会 ホームページ「対馬丸事件について」参考https://www.tsushimamaru.or.jp/tsushimamaru.php)。なお、南城市出身の遭難者は12人いることが確認された(前掲『南城市の沖縄戦 資料編』201頁 参考)。
※16 佐敷町史編集委員会編『佐敷町史 戦争』(佐敷町役場 1999)掲載の中山きく「白梅学徒看護隊から無事生還して」(258~261頁)より補足。
※17 若梅会による中山さんへの聞き取り
※18 前掲「白梅学徒看護隊から無事生還して」より補足
※19 山部隊とは、日本軍の第二十四師団とその隷下にある部隊を示す呼称。
※20 前掲「白梅学徒看護隊から無事生還して」より補足
※21 「ゆりちゃん」は平良百合子氏のことだと考えられる。同様のエピソードが前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(59頁)に掲載されている。
※22 看護教育の場所は東風平国民学校で、現在は八重瀬町立東風平中学校が建つ。
※23 国場駅には、引率の金城宏吉先生と與那覇政男先生が待っていた(前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』58頁)。
※24 現在の那覇市久茂地にあった。同校から動員された生徒たちのことを戦後「積徳学徒隊」と呼んでいる。なお、この学校名は1943年に改称されたもので、それ以前は「沖縄家政高等女学校」という名称だった。そのため、当時の中等学校生には「家政女学校」という名称の方がなじみ深い(前掲『ひめゆり平和祈念資料館 資料集4「沖縄戦の全学徒隊」』166頁 参考)。
※25 軍人が集団で居住する場所や、兵士が駐屯する仮舎を指す。
※26 中山さんによる班長(笠島由次郎(かさじまよしじろう)衛生伍長)のエピソードは、前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(73頁)に掲載されている。
※27 同様のエピソードが前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(68、69頁)に掲載されている。
※28 前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(81頁)には、3月24日に第二十四師団第一野戦病院への正式入隊の手続きが取られたと記されている。
※29 白梅同窓会編『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』クリエイティブ21 2000
※30 前掲『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』によると、除隊者の人数は入隊翌日の3月25日に3人、3月27日に7人となっている(前掲『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』89頁、90頁)。
※31 前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(82頁、235頁)
※32 この手術場壕は「上(うえ)の壕」とも呼ばれた(前掲『平和のへの道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』110、111頁)。
※33 前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(122頁)には、手術場壕の入口には擬装小屋が設置されており、生存の見込みのない負傷者は、軍医の指示でそこに放置されたと記されている。
※34 前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』(120~123頁)によると、日中はアメリカ軍の爆撃や艦砲射撃が激しかったため負傷者の搬入が難しく、砲撃が止む午後6~7時の時間帯に重傷者が運ばれてきて、夕方から夜中にかけて手術が行われた。手術のない日中は「患者の食事の世話、大・小便の始末、包帯交換の手伝いがあり、他に、タンポン綿作り、ガーゼたたみ、包帯巻きなどと休む間もなかった」という。
※35 山第一野戦病院の新城分院では、1945年6月3日に病院を閉鎖する際に、動けない負傷兵約500人に対し青酸カリを与え、青酸カリで死にきれない患者には注射もしくは銃で撃つという「処置」が行われた。新城分院で「処置」された負傷兵の人数は500人とも言われている。東風平分院でも、重症患者への青酸カリの注射が行われた(前掲『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』129頁、138頁)。
※36 若梅会による中山さんへの聞き取り
※37 前掲「白梅学徒看護隊から無事生還して」では、けがの状態について、「険しい崖をよじ登った時、私はひざ頭を岩にぶっつけてけがをした」、「私は傷めた傷が悪化して歩行困難になっていた」と語られている。
※38 前掲「白梅学徒看護隊から無事生還して」では、「大里村大里(通称西原小・佐敷町の一望できる小高い所)」とある。
※39 前掲「白梅学徒看護隊から無事生還して」では、米軍に捕らえられた場所について、「新里(現 南城市佐敷新里)の一歩手前の真謝原(俗称アカバタキー)に近づいた時、米兵と遭遇し捕虜となった」と語られている。
※40 中山家の門中墓や墓庭は広く、そこにアメリカ軍の物資が置かれていた。ここで語られている水やチョコレートのやり取りはこの墓庭で行われた。(若梅会による中山さんへの聞き取り)
※41 MP(Military Police)のこと。アメリカ軍の警察組織で、日本軍の憲兵に相当する。軍隊内の秩序の維持や収容所の管理などを行ったが、必ずしも沖縄住民の味方であったわけではなかった。
※42 1945年7月9日付のアメリカ軍の資料“Resettlement: Chinen evacuation:”Watkins staff meeting notes 9 July(ワトキンス文書刊行委員会編『沖縄戦後初期占領資料 第82巻 —PAPERS OF JAMES T. WATKINS IV』緑林堂書店 1994 132頁)には、知念半島の収容所(佐敷村内の収容所を含む)からヤンバルへの民間人の立ち退きは7月12日に始まる見込みだと記されている。
※43 『字誌新里』に掲載されている中山さんの証言には「山城太郎さん(東新屋敷)」や「勢理客十助さん(新仲勢理客)」たちの計らいで新里に居残ったとある(佐敷町字新里字誌・編集委員会編『字誌新里』佐敷町字新里区 2000 689頁)。同書90頁の「歴代区長略歴表」によると山城太郎さんが区長に在任したのは1939年4月から1941年3月であり、「1945年6月から1946年6月までの間は戦争のため空白」とされている。
※44 現在の金武町屋嘉にアメリカ軍が設置し、日本兵を収容していた屋嘉捕虜収容所のこと。
※45 南城市玉城字仲村渠にある共同用水施設。大正年代に石造りの貯水槽、石畳道、赤瓦の共同風呂が整備された。1995年、国指定重要文化財。
※46 『知念市誌』によると、志喜屋初等学校は1945年7月24日に授業開始。同年11月末時点の職員名簿には、中山さんのことだと思われる「津波きく子」という名前が確認できる(『知念市誌』は『南城市の沖縄戦 資料編』専門委員会編『南城市の沖縄戦 資料編』[第二版 2021]に翻刻が収録されている)。
※47 沖縄文教学校。1946年1月10日、沖縄本島中部の前原地区(旧・美里、具志川、勝連、与那城の各村を指す。現 うるま市)田場に教員養成機関として開校。1950年5月の琉球大学開校にともない吸収された(川平成雄、松田賀孝、新木順子『戦後沖縄生活史事典 1945-1972』吉川弘文館 2022 93~97頁参考)。
※48 沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の2校の愛称
※49 『沖縄文教学校関係資料[複製本]』(沖縄県立図書館所蔵 2012)の「第二期 卒業生 百九名」の名簿中に「上里俊子」という名前がある。この名簿中には「津波きく」の名前も確認できる。また、文教学校卒業時の中山さんへの寄せ書き(若梅会所蔵)の中に「TOShiKO UESATO」というサインがある。
※50 文教学校で取得した資格は補助教員のようなものだったため、琉球大学に通い正式な教員資格を取得したという(若梅会による中山さんへの聞き取り)。
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015799 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2025) |
| ページ | 7-29 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 佐敷 |
| 発行年月日 | 2026/02/27 |
| 公開日 | 2026/05/22 |