■外間にいた日本軍
沖縄戦が始まる前、外間の殿(ほかまのトゥン)※1の隣には日本軍が造った防空壕(ぼうくうごう)があり、日本軍のある部隊(ぶたい)がそこに陣地(じんち)を構(かま)えていた。私はまだ幼かったので、部隊名はわからない。この壕には大砲(たいほう)があった。馬天(ばてん)の海に敵の船が入って来たときに撃(う)つという想定(そうてい)で設置されていたそうだ。
外間には標準語(ひょうじゅんご)が達者(たっしゃ)なおばさんが1、2人ほどいて、彼女たちがその壕にいた日本兵たちの話し相手になったり、部隊と地元の人たちとの間の通訳をしたりして、部隊にいろいろな手助けをしていた。当時はウチナーグチ(沖縄方言)しか話せない人(お年寄りなど)もいて、壕にいた日本兵たちと話がうまくできなかったのである。
この部隊には、水や芋(いも)、クルザーター(黒砂糖(くろざとう))、イモクジ(芋くず)などの食料を地元の人々の家から運んでいた。これらは外間の女性たち(婦人会のような感じだった)が中心になって持って行っていた。芋は民家で炊いたものを丸バーキに入れて届けており、日本兵が芋を皮ごと食べていたのを覚えている。彼らはとても腹(はら)を空かせていたのだろう。クルザーターとイモクジは貴重で、自分たちにも必要なものだったので、多くの量を部隊に持っていくことはなかった。
■防空壕と先祖代々の墓に避難
アメリカ軍の攻撃が始まってからは、家族(父方の祖父母、両親、自分)で防空壕に避難した。この防空壕は、私たち家族の土地に父が地元の友人たち2、3人と一緒に掘ったものだった。現在(2016年)そこは空き地になっている。当時、そこには大きなガジュマルの木が何本も生い茂(しげ)っていた。壕は木と木の間にあって、木の根の下に横穴が掘られていた。壕の中で立つことはできなかったので、高さは1メートル30センチぐらいだったのではないかと思う。壕内には、出入口のほかに空気穴も造られていた。
昼間は壕に避難し、アメリカ軍の攻撃がやむ夜間に家に戻って食料の調達(ちょうたつ)などをしていた。水は夜のうちに井戸で汲んで一升瓶(いっしょうびん)に詰め、それを壕内に5、6本は置いていた。壕内では時間があったので、籾殻(もみがら)のついた米が入った一升瓶を両足ではさみ、音を立てないようにしながら竹でつついて精米(せいまい)した(籾殻を取り除いた)。当時は精米所がなかったので、そうやって精米していた。
壕では火が使えなかったため、私はクルザーターとイモクジを井戸から汲んできた水で溶かしたものを、親に飲まされたことがある。火を通していないので衛生的にも良くなかったと思うが、当時はそんなことはお構いなしだった。今の子どもたちは見向きもしないだろうが、当時のことを考えると今でも贅沢(ぜいたく)は言えない。
また、戦前から戦時中にかけて、夜間には若い人やお年寄りが交代しながら集落内の夜回りをして、煙や明かりが外に漏(も)れていないかを確認していた。
この防空壕に避難した後、父は一度防衛隊(ぼうえいたい)にとられて弾運びをしたらしい。その後、自分の判断で防衛隊を抜け、家族のいる防空壕に戻って来た。
父が戻ってきてから、アメリカ軍が集落に近づいて来たため、私たちはだんだんと山の方に追い詰められ、現在のゴルフ場(守礼カントリークラブ)の下にある自分たちの門中墓(もんちゅうばか)(知念門中の墓)に避難するようになった。
■屋比久と大川での収容所生活
墓に避難していたとき、5、6人ほどのアメリカ兵が「沖縄の皆さん、戦争は終わりました。心配しないで出てきてください。飲み物も食料もあります。心配いりませんから出てきてください」と呼びかけていた。彼らは戦前にハワイへ移民した県出身者の子(二世)で、投降の呼びかけはウチナーグチだった。彼らは英語、日本語、ウチナーグチを話せる人たちだった。
呼びかけを受けて、まずは子どもたち、次にお年寄りが墓を出た。それで安全だと分かり、両親も墓を出た。私たちは墓の前に並ばされ、アメリカ兵から水や食べ物をもらった。親たちは「(その食べ物は)危ないからカム(食べる)なよ」と言っていたが、二世が食べて見せ、大丈夫だと示してくれた。それからは、お腹も空いていたのでがむしゃらに食べた。
それから私たちは屋比久(やびく)の集落に下りてきて、上ヌ毛(イーヌモー)(現在の屋比久児童公園)のすぐ後ろの平地に張られていたアメリカ軍のテントに収容(しゅうよう)された(詳細な場所は不明)。はっきりとは覚えていないが、けっこう大きなテントが3つぐらいあったように思う。私たちのように山から下りて来た人たちは、テントや屋比久集落に残っていた家に収容されていた。また、上ヌ毛の前方にはコンセット※2が2つぐらい設置されており、それらはアメリカ軍が使っていた。
その後、私たちはアメリカ軍のトラックに乗って中城(なかぐすく)まで行き、その後アメリカ軍の船に乗ってヤンバルの大川(おおかわ)(現 名護市(なごし))の収容所に移動させられた。そこで家族全員がマラリアに罹(かか)った。上からかぶれるものを全てかぶっても震えが止まらなくて大変だった。幸い、家族で亡くなる人はいなかった。
大川に長く滞在したのち、自分たちの村に帰れることになった。大川からはアメリカ軍のトラックに乗って帰ってきた。トラックが外間に着くと、外間の人たちは現在の国道331号のところで降ろされた。
■戦後の生活
子どもたちは、二世から「(お菓子をもらいたいときには)『ください』ではわからないから『ギブミー』と言いなさい」と習い、アメリカ兵を見つけると手を出して「チューインガムギブミー、チョコレートギブミー」と言うようになった。また、のちに青年たちがふざけて「ありがとうテンキューノーサーベイ(ノーサーベイは「余計なことをするな」という意味で使っていた)」と、ヤマトグチ(日本語)と英語をマンチャーヒンチャー(まぜこぜ)にした言葉をつくり、子ども達に教えていた。子どもたちはそれを家やいろいろな場面で使っていた。
上ヌ毛の前方にあったコンセットは、アメリカ軍が引き揚げたあとに、大人たちが現在の佐敷(さしき)小学校があるところまで運んだ。長い道のりを何度も休みながら運んだ。道中の何ヶ所かで、おばさんたちが一斗缶に入れて汲んできた飲み水を用意していた。そうやって運んだコンセットを、しばらく学校で利用した※3。
ものがない時代だったので、学校では、セメントが入っていたアメリカ軍の袋を先生たちが切り分け、私たちはそれをノート代わりにして使っていた。鉛筆(えんぴつ)はアメリカ軍からの配給(はいきゅう)があったが、本数が足りないので、1本を半分に折ったものが先生から配られた(1本を2人で分けた)。また、ハワイにいた沖縄出身者たちから鉛筆や食料なども送られてきた※4。彼らにはお世話になった。
大人たちは、ヤンバルから運んできた木材を使って茅葺(かやぶ)きの掘っ立て小屋(ほったてごや)を造っていた。しかし、それらは台風が来るたびに吹き飛ばされてしまった。家や学校を建て直すために茅はあちこちで頻繁(ひんぱん)に刈(か)られたので、伸びる暇(ひま)がなく不足していた。そのため、アメリカ軍がヤンバルから運んできた竹を茅の代わりに使っていた。ヤンバルの農家とアメリカ軍の協力のおかげで、家を建てることができた。それから少しすると、グシチャー(ススキ)やマカヤー(チガヤ)が伸びてきたので、それらを山に取りに行き、屋根や薪(たきぎ)として使っていた。私も、友達5、6人で「リッカ、リッカ(行こう、行こう)」と鎌(かま)を持って取りに行くのを日課としていた。
また、親慶原(おやけばる)にあったアメリカ軍施設では地元の若い人たち(男性も女性もいた)が働いていた。夕方には、彼らが茅葺(かやぶ)きの公民館で「私は今日何々を盗んできたよ」と、自分の「戦果(センカ)」の自慢話をしていた。当時は「戦果」をあげるのが当たり前になっていた。今でも忘れられないのは、親慶原のアメリカ軍施設に放置されていた開封済みのドラム缶を大人たちが家まで転がしてきて、それを籾殻(もみがら)入れに使ったり、茅葺きをするときの台として使ったりしていたことだ。ドラム缶を見ると、今でもそのことを思い出す。当時のドラム缶は、現在のものよりも厚(あつ)くて丈夫だった。
(2016年 井口学による聞き取り 構成:山内優希)
■脚注
※1 国道331号沿いの外間毛(フカマモー)にある殿。外間(フカマ)ムラの創設者、外間子(フカマシー)の屋敷跡といわれている。(南城市教育委員会編『南城市の御嶽』南城市教育委員会 2018 45頁)
※2 アメリカ軍の組み立て式かまぼこ型兵舎のことで、その形からマルヤーとも呼ばれた。戦後の沖縄では、アメリカ軍部隊の移動に伴い民間に払い下げられ、学校、病院、役所などに利用された。
※3 1948年(昭和23)8月20日に屋比久分教場にあった丸型コンセット6棟を、村民総出で佐敷小学校に移築し、18教室を造成した(佐敷小学校創立百周年記念事業期成会 記念誌編集委員会『佐敷小学校百周年記念誌』佐敷小学校創立百周年記念事業期成会 1983 121頁参照)。
※4 例えば、1949年には戦前ハワイに移民していた屋比久孟吉(佐敷村仲伊保出身)らによって、乳用山羊が届けられた。1949年6月、屋比久氏は佐敷村を訪れている(佐敷村『佐敷村誌』佐敷村 1964 27頁)。
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|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015798 |
| 資料群 | 『なんじょう歴史文化保存継承事業年報』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課『なんじょう歴史文化保存継承事業 年報』南城市教育委員会文化課(2025) |
| ページ | 4-6 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政子ども学校 |
| 場所 | 佐敷 |
| 発行年月日 | 2026/02/27 |
| 公開日 | 2026/05/22 |