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湊川孟徳(昭和8年生まれ 与那原・板良敷)【キーワード】学童疎開/一般疎開/引き揚げ

■対馬(つしま)丸と同じ船団で疎開(そかい)
私は大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身。以下、大里第一)5年生のときに、学童疎開で熊本県に行った。家族から疎開に行ったのは私だけだった。学童疎開の引率は、與那嶺眞樽(しんそん)先生と佐久本ヨシ先生だった。
疎開船に乗る前日、那覇の桟橋近くの旅館に1泊した。このとき、浮袋の代わりとして自分の背の高さほどの孟宗竹を2本くらい持つように言われた。荷物は行李(こうり)のような50センチメートル四方の箱に衣類などを入れていた。
翌日の昼頃だったか、沖に止まっていた和浦丸にはしけで乗船した。この時、姉が見送りに来てくれていた。
船では荷物を置いた後、私はいつもデッキの上にいた。ある夜、船同士が接触した ※1。船員が「誰か海に落ちたよー」と言うのが聞こえた。落ちたのは対馬丸の人だということだった。
翌朝、前日までは2隻見えていた船が1隻しか見えなかった。対馬丸がアメリカ軍の魚雷でやられたと聞いた。しかし戦争中で箝口令(かんこうれい)が敷かれていたため、対馬丸が撃沈されたことは口止めされていた。
私は船が鹿児島の港に着くと思っていたが、着いたのは長崎の港だった。長崎では沖に向かって大砲が撃ち込まれていた。アメリカ軍の潜水艦を威嚇(いかく)するためだったかもしれない。

■長崎から熊本県の日奈久へ
長崎では旅館(タイホウカンという名前だった気がする)に数日泊まった。この時、板良敷(いたらしき)から一緒に来ていた同級生のお兄さんが長崎の工場で働いていたので、港でお昼ご飯をごちそうになった。
その後、汽車で熊本県の日奈久(ひなぐ)(現 八代(やつしろ)市日奈久町)に行った。日奈久では、学校(日奈久国民学校)の校門に「国防婦人会」と書かれたタスキをかけた婦人会の方々がお迎えに来てくれていた。学校の運動場に入り、宿泊先の旅館が割り当てられた。大里第一は泉屋本店という旅館の2階に滞在することになった。1階の奥の方には與那嶺先生と、与那原国民学校の一部(与那原国民学校は泉屋本店と道向かいの支店に分宿していた)が滞在していた。
日奈久は温泉街で、宿の温泉には毎日入っていた。一、二度ほど、町内にあった西湯の温泉に入りに行ったこともある。その時は、與那嶺先生が月に一度ほどくれていた小遣いを使った。小遣いはあらかじめ両親が預けていたものだったのか、詳しいことはわからない。
泉屋本店の隣の旅館には傷痍(しょうい)軍人がたくさんいた ※2。
当時の私は軍国少年で兵隊にあこがれていた。疎開先から沖縄の姉に向けて、「僕は少年兵になりたい。志願します」と手紙を書いたことがある。沖縄までちゃんと届いたかどうかはわからない。

■お腹が空いて食事のことしか考えられなかった
以前琉球大学の先生が新聞に書いていた、学童疎開の状況を表現する「ヤーサン(ひもじい)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)」という言葉をずっと覚えている。いつも勉強は頭に入らなくて、食事のことだけしか考えられなかった。
泉屋本店では食堂が1階にあって、食事時間の前には合図の拍子木(ひょうしぎ)がカチカチカチと鳴るのを待っていた。拍子木がなると階段を走って下りた。食器は孟宗竹(もうそうちく)を切ったもので作られていて、お椀の底がへこんでいるものとそうでないものを確認するためだった。旅館の人たちは同じ量の食事をついでいたと思うが、少しでも多く入っている方を取ろうと必死だった。昼食は必ず団子汁で、それだけはおかわりができたが、他の食事は一杯だけだった。
真冬には外のごみ箱をあさった。恥ということを知っていたので、誰も見ていない時に、捨てられているミカンの皮や芋の食べ残しをポケットに入れて食べた。外に行ってごみ箱をあさって、乞食と同じだった。口をつぐんで知らないふりをして、友達にも隠していた。
一度、夜中に起きて旅館の塀を越え、昼に見つけたビワの実をとりに行ったことがあった。先生が夜中に点呼を取りに来るが、その間にそっと抜けていった。とったビワは寝床の中で食べた。
学校の授業の休み時間には畑から取った大豆を食べたことがあるが、臭くて味もなく、食べられるものじゃなかった。何でも口に入れて食べていた。

■引き取られていった学童たち
日奈久では、学童たちのほとんどが途中で親戚などに引き取られていった。私たちが学校に行っている間にいつの間にかいなくなっている人もいて、彼らを羨ましく思い、寂しく思っていた。
あるとき、大里第一の1人の男子生徒が旅館からいなくなったことがあった。4、5日行方不明になって私たちも探しに行ったが、大阪の親戚に引き取られたということだった。彼を探している時、樺太(からふと)帰りの大山さんという夫婦の家を訪ねたが、そこで少しごちそうになったこともあった。
引率の與那嶺先生も、日奈久にいる時にどこかに異動して行ってしまった。

■種山へ再疎開
空襲が激しくなり、日奈久でも時おりアメリカの飛行機が見えるようになったため、種山(たねやま)村(現 八代市東陽(とうよう)町)に二度目の疎開をした。
この頃には大里第一の学童の人数はだいぶ減っていて、佐久本先生の家族と合わせても10人いたかどうかわからない。大里第一は北谷の北玉国民学校と合同になった。
種山に移動した初日には、まだ日が暮れていない時に、山の近くにあったヤマモモを採って食べた。
種山では小浦(こうら)という集落にある福音寺(ふくおんじ)というお寺に宿泊することになった。お寺の前に川があったのを覚えている。福音寺では北玉の1つ年上の先輩に仲間外れにされ寺の片隅で1人で寝ていたが、佐久本先生がかばってくれた。

■内ノ木場分校の思い出
種山では種山国民学校の分校(内ノ木場(うちのこば)分校)に通っていた。福音寺から1キロメートルくらい歩いて通ったが、途中に水車小屋があった。学校は複式学級だった。
内ノ木場の同級生に、「何かもらえるだろう」と思って使っていない鉛筆を1本あげたことがある。するとお礼に美味しい唐芋をもらえた。

■飯野村のいとこの元へ
熊本の飯野(いいの)村(現 益城(ましき)町)には、いとこのお姉さんが子ども2人と一緒に疎開していた。日奈久にいた時に、泉屋支店にいた与那原国民学校の先生が彼女に会いに連れて行ってくれたことが一度あった。種山に行ってひと月ほど経った頃、そのお姉さんにお願いして引き取ってもらった。
福音寺を出る時、お寺からお土産のようにしてお米を1升持たされた。北玉の世話係で30歳くらいのお姉さんが、佐久本先生に言われて途中までついてきてくれた。道中、有佐(ありさ)駅近くの田んぼの中を歩いていた時に、アメリカのグラマンから空襲を受けた。防空壕がなかったため、近くの広い屋敷に勝手に入って避難すると「私たちが攻撃されるじゃないか」と家の人に怒られた。付き添ってくれていたお姉さんは妹も連れていたので、泣いて「もう帰ろう、お寺に引き返そう」と言ったが、私は腹を決めていたので「絶対に行かない、尋問(じんもん)されても行く」と言って1人で進み続けた。
有佐駅から熊本駅に行き、翌朝の電車に乗って御船(みふね)駅に行った。御船駅に行ったのは、御船のお寺に一般疎開で小橋川さんという人が来ていたのを覚えていたためだった。御船まで行く車中でも空襲に遭ったが、繋がっていた電車を離して土手の下に避難し、アメリカ軍の飛行機が見えなくなるとまたくっつけて運行していた。
御船駅に着いてからどこに行こうかと思ったが、たくさんの人に道を尋ねながら市役所に行った。すると市役所の事務員に沖縄出身の女性がいて、この人が「飯野村の隣の集落まで行く警官がいるから午後5時まで昼寝をしておきなさい」と言ってくれて、学生帽もくれた。この人のおかげで飯野村の光澤寺にいるいとこ家族の元まで行くことができたが、子どもだったので名前を聞き忘れてしまった。お礼をしないといけない、と後から感じた。

■飯野村での生活
飯野村でも学校に通った。先生は徳島コウタロウという方だった。
光澤寺では寺の前に炊事場を作っていた。食事はお米もないので朝から晩まで団子汁だった。薪取りは僕の仕事だったので、山によく取りに行った。光澤寺から2キロメートルほど離れたところに町があり、いとこのお姉さんのお使いで牛肉を買いに行ったこともある。
飯野村では人の家の甘柿をとったことも2回あった。一度目は薪取りに行く山の近くのお家の裏庭で、ここでは見つかって叱られたが口だけの注意だった。二度目は、夜にお寺の中の木に登ってとろうとした時で、懐中電灯に照らされた。そのとき私は縮こまって出て行かなかったが、私だということは知られていたらしい。お寺の人が「あんなに欲しければ昼でもとってあげたのにね」と話していたと、いとこの姉さんから聞いた。
飯野村では、沖縄に帰る前に学校の講堂で送別会が開かれた。4、5人沖縄出身の人がいて(小橋川さん、呉屋さんという人を覚えている)、そのなかに空手の演武指導をできる人がいたので空手を披露した。また20歳を超したくらいの、石垣出身の人で、1人で生活しているという方が教えてくれた「月ぬ美しゃ」を歌った。最後に飯野村の方々へ、「長い間お世話になりました」と伝えた。

■沖縄へ帰郷
沖縄には、飯野村にいた沖縄の人々と一緒に秋ごろに長崎経由で帰ってきた。那覇港では体中をDDTで消毒された。その後トラックでインヌミ屋取(ヤードゥイ)(現 沖縄市)に連れて行かれた。
インヌミ屋取に1〜3日ほどいた後、いとこの姉さんの嫁ぎ先である与原(ようばる)(現 与那原町)までトラックで送られた。与原に着いたのは昼で、私の父が迎えに来ていた。丸2年以上会っていなかったので涙が出た。
その後うちの母が、与那原の中島に住んでいた佐久本ヨシ先生の家まで、学童疎開のお礼として家で作った芋を持って行っていた。
私は大里中学校の第1期生として卒業し、知念高校に進学した。
(事務局による聞き取り 2017)

■脚注
※1 大里第一国民学校の学童たちが乗船していた和浦丸と、同じ船団だった暁空丸が接触衝突する事故があった(与那原町学童疎開史編集委員会編『与那原の学童集団疎開 第一部 体験集 ムギメシヒトツ ココフタツ』与那原町教育委員会 1995 98頁)。
※2 泉屋本店となりの金波楼という旅館には傷痍軍人が滞在していた。