■第2次の学童疎開(そかい)で湯浦(ゆのうら)へ
私は大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身。以下、大里第一)の高等科1年生の時、第2次の学童疎開に参加した(大里第一からは学童疎開が2次にわたって実施された)。当時の人たちは「跡継ぎがいなくなったら大変だ」という思いで子どもたちを疎開に行かせていた。私は三男だが、長男は海軍兵としてガダルカナル島で、次男は現地召集(しょうしゅう)で沖縄戦で亡くなっている。
疎開の引率教員は金城正榮先生だった。第2次は第1次で行かなかった人たちを集めて行ったような覚えがあるが、自分がなぜ第1次で行かなかったのかは覚えていない。
第2次の疎開船の出発は9月だった。那覇港まで急いで行ったが、旅館に泊まった覚えはない。疎開船には小さな船で近くまで行き、梯子で上った記憶がある。疎開船は輸送船を改造したもので、船倉はカイコ棚のようになっていた。船酔いをしたし、乗り心地は最悪だった。船には他の学校も何校か乗っていた。
船は瀬底島と本部町の間で、台風のため一週間ほど閉じ込められた。その時に親から引き取られて行った子もいたと思う。
その後船は鹿児島に着き、そこから熊本県の湯浦(現 芦北(あしきた)町)に行った。
■湯浦から第1次の日奈久(ひなぐ)に移動
私は湯浦には1、2ヵ月ほどしかおらず、第1次の学童たちがいた日奈久(現 八代(やつしろ)市日奈久町)へ移動した。湯浦で学校に通った思い出はなく、旅館で乾布摩擦(かんぷまさつ)をしたことは覚えている。
私は第1次の学童たちの中に友達がたくさんいたため、日奈久へ移動することを希望した。なぜ移動が許可されたのかは覚えていない。弟が第1次で日奈久にいた仲尾次嗣清という子も一緒に湯浦から日奈久へ移動した。日奈久では引率の與那嶺眞樽(しんそん)先生が受け付けてくれた。そこから第1次の学童と一緒の生活が始まった。
■日奈久での疎開生活
大里第一が宿泊していた泉屋本店と、道向かいにあった泉屋の支店には与那原国民学校(現在の与那原小学校の前身)の学童たちも泊まっていた。泉屋本店の隣の旅館には傷痍(しょうい)軍人がたくさんいた ※1。日奈久の学校では垣花先生 ※2という人に教わった覚えがある。また、学童たちは沖縄からの出発時にはいい服を着てズックも履いていたが、それがなくなってきてからはかかとが地面につくような草履をはいていた。学童たちは冬服を持ってきておらず、冬も半ズボンで過ごしていたと思う。
日奈久での思い出は食べ物のことで、とても苦労した。寒いので温泉にしょっちゅう入っていたが(温泉にはいつでも入れた)、入ったらお腹が減った。宮平キョウセイ先生という方が高学年の疎開児童を集め、駅の上の方で開墾(かいこん)作業をしたこともあった。
八代に軍需(ぐんじゅ)産業の工場があったため米軍機が爆撃しに来た時には、日奈久の裏山に避難させられた。裏山には小さなミカンの木が生えていて座ったままで食べることができたので腹いっぱい食べたが、引率の先生は地元の人に文句を言われていた。ミカンを食べたかどうかは爪が黄色くなっているかどうかでわかったので、子どもたちは先生に確認されていた。
また、日奈久の国民学校では地元の子どもたちが午前中、沖縄の子どもたちが午後というような2部授業をしていたが、午前に授業を受けた日奈久の子が机の中に芋や柿、ミカンなどの食べ物を入れてくれていたこともあった。子どもは純真な心を持っているし、日奈久の人たちも沖縄の疎開学童が食べ物に困っていることをわかっていた。寒い時に木の葉などを集めて芋を焼き、沖縄の人に食べさせてくれたこともあった。
■学童疎開を離れて宮崎県へ
疎開学童たちの中には、日奈久で高等科2年を卒業したのちに満蒙(まんもう)開拓団のようなものに行ったり、一般疎開で本土に来た親戚に引き取られていったりした学童たちもいた。
私も宮崎県に一般疎開で来ていた親戚に引き取られた。日奈久からは、おばさんが迎えに来ていた仲尾次嗣清・シコウ兄弟と一緒に出て(私の親戚は迎えに来なかった)、途中で別れて宮崎県の野尻村(のじりむら)大字紙屋(かみや)(現 小林市)に行った。
私は紙屋国民学校に通った。担任の先生は、「これを持って行きなさい」といって芋などいろんな食べ物を持たせてくれた。そこでは芋をサイコロ型に小さく刻んでお米と一緒に炊いた芋ご飯を食べていた。宮崎にいる時には話す言葉も現地の言葉になっていた。
■沖縄に帰郷
宮崎から沖縄へは、1946年(昭和21)のおそらく暖かい頃に帰ってきた。DDTを体にかけられた。
GMC(アメリカ軍の大型トラック)で与那原まで送られ、エーガー(親川)のあたりで降ろされた。与那原は警察署前から板良敷、当添あたりまで見通せるくらい、建物も何もなくなっていた。軍事物資の集積所になっていたことが印象に残っている。
(事務局による聞き取り 2017)
■脚注
※1 泉屋本店となりの金波楼という旅館には傷痍軍人が滞在していた。
※2 同じく日奈久に学童疎開で来ていた伊波国民学校(現在のうるま市立伊波小学校)の引率教員の垣花得禄先生の可能性がある。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015762 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 354-356 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里市外-与那原町 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |