■沖縄戦前夜の生活
嶺井集落は、大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身)に土地を取られて貧しい生活をしていた。
昭和19年(1944)頃、家や学校に兵隊が駐屯(ちゅうとん)するようになると、子どもたちは学校には行けなくなった。学校では兵隊がシンメーナービー(大鍋)でご飯を炊いていた。周りの目を盗んでおこげを食べていたが美味しかった。私の家にも将校くらいの階級の兵隊が滞在していた。
■学童疎開(そかい)を反対されて一般疎開へ
戦争が始まると「女、子どもは足手まといになる」ということで国が疎開をさせた。
国民学校4年生の時、担任の先生から「学童疎開に行く人はいないか」と呼びかけがあった。私は冒険心が強く、県外に行きたくて手を挙げた。親の印鑑を盗用し、同意書を偽造して学童疎開を申請しようとしたが、親にばれてしまい、一般疎開(家族疎開)で宮崎県に行くことになった。
嶺井からは、約50人が家族疎開をした。私の家族は、父、母、長男、長女(菊)、次女(光子)、三女(文子)、四女(好子)、私(清光)、五女(千代子)の9人家族だが、長女(菊)とその娘、息子、四女(好子)、私の5人で疎開した。
■宮崎での疎開生活
昭和19年8月19日に、那覇港から貨物船に乗った。船の中では給食があったが、みんな船酔いしていた。船の中で対馬(つしま)丸が撃沈されたことを知ったが、「これは秘密だから」と聞いた。鹿児島市内のお寺で2日ほど滞在した。
その後宮崎に向かい、北方村字美々地(みみち)(現 延岡(のべおか)市)にある公会堂(公民館のような建物)で生活した。疎開先は二手に分かれ、友人の城間セイエイさん(故人)は高鍋(たかなべ)町に割り当てられていた。
疎開先での生活で今思うのは、トイレが1つしかなかったため、我々子どもは平気だったが、姉や女性たちは大変だっただろうなということだ。お風呂も無かったので、隣の集落のご近所さんにお風呂を借りていた。そこの区長の対応がとても丁寧で良かった。
学校は、2学期に入ってから美々地国民学校に通った。公会堂は山の上の方にあり、学校は下にあったので、登ったり下ったりするのが大変だった。学校までの距離は、嶺井から大里中学校くらいまでの約3キロ程度だったと思う。足腰の運動に相当なった。学校では運動会もあり、地元の子どもたちとも仲良く一緒に帰るなどしていた。通学路には大きな池があり、夏場にはそこで泳いだり遊んだりしていた。
山には梨や柿の木があり、地元の人たちはこれを売って商売しているわけでは無かったので、自由に取って食べていた。
■姉のいた兵庫県へ
アメリカ軍が空襲を始めた頃(昭和19年の12月か20年の1月だったと思う)、三女の姉が兵庫県で働いていたため、姉を頼って兵庫県へ移った。
当時の沖縄の女性の中には、小学校を卒業すると県外に出稼ぎに行く人もいて、姉は兵庫県の多田紡績(ぼうせき)工場で働いていた。姉から「こっちにおいで」と言われ、長女も工場で働いた。私たちは社宅(一軒家)に住み、私は多田国民学校に通った。
昭和20年(1945)頃、本土でも空襲が始まり、神戸付近は空襲警報が鳴って機銃掃射で殺される人もいた。8月15日の玉音(ぎょくおん)放送を兵庫県で聞いて終戦を迎えた。戦争が終わると姉達が勤めていた工場が全焼し(理由は分からない)、また宮崎県に戻った。
■再び宮崎で生活
私たちは、親戚がいた宮崎県都於郡(とのこおり)の岩崎(現 西都市)に呼ばれて移り住んだ。ここの人たちが建ててくれたのか、一軒家で生活した。友人(城間セイエイ)が疎開していた高鍋に一度遊びに行った記憶がある。
私は都於郡国民学校に5年生で編入した。学校は本校と500メートル先にある分校に分かれており、私は分校に通っていた。
担任の先生は授業が終わるといつも問題(宿題)を出して生徒たちを帰らせていたが、私ともう1人いた沖縄から来た生徒(非常に温厚な人だった)はすぐに答えを出して帰っていたので、他の生徒から「あんたたちはカンニングしているんじゃないの」と疑われ、ケガするまでけんかをした。このことがきっかけで、家族には「学校へ行く」と言い、竹林にかばんを隠してバスの後ろにぶら下がり、宮崎市内を非行少年のように学校へ行かないでブラブラしていた。
■ヤミ商売
岩崎には嶺井出身の若者(20歳前後)が5、6人いて、当時は仕事がないのでヤミ商売をしていた。その人たちから「あんた、山学校ばかりしていないでうちの仲間に入れ」と誘われた。芋やお米などのヤミ物資を買い、大阪の梅田まで売りに行った。午前3、4時頃、広瀬駅(現佐土原(さどわら)駅)の線路脇にヤミ物資を隠しておき、私が最初に汽車に乗り窓を開けて、兄貴連中が外から投げ込む米や芋を受け取った。大阪の梅田までは丸1日かかるので鼻の中が真っ黒になっていた。大阪では通行人に「買った、買った」と声をかけて売り、良い収入になった。りんごやみかんも売った。
途中で広島を通る時にまざまざと原爆の焼け跡を見た。建物がほとんどなく、その光景が今でも頭にこびりついている。当時は梅田駅も空襲でやられ焼野原だった。梅田駅にいた私と同年代くらいの子どもたちは、今思えば戦争孤児(こじ)だったのかもしれない。
■沖縄へ帰郷
昭和21年(1946)頃、嶺井出身の約20人(5家族ほど)の人たちと鹿児島から船に乗り、沖縄に帰ってきた。高鍋にいた人たちとは別だった。
久場崎(くばさき)港(現 中城村)に着き、インヌミ屋取(ヤードゥイ)(現 沖縄市高原)のとても大きな収容所に行った。そこではアメリカ軍が監視していて、DDTをかけたり身元確認をしたりしていた。働いている人の中には沖縄の人たちもいた。
収容所に2、3日滞在した後、嶺井に帰ってきた。両親が迎えてくれ、家で作ってくれたジューシーを食べた。
■一生懸命働いた戦後
キビの手入れ等を手伝うために、中学高校時代は相当働いた。
私は昭和9年(1934)生なので新制の中学校にも行くことになった。その後知念高校に進んだが、入学当時の校舎は現在の琉球ゴルフ倶楽部あたりの親慶原(おやけばる)にあった。2年生になると与那原に校舎が移り、私達は勉強はせず、毎日校舎建設の仕事ばかりしていた。校長の屋良朝苗先生(元沖縄県知事)が、「あなた達は勉強はしなかったけれど、建築技術は他の生徒よりも磨かれ、勤労精神を培った」とお褒めの言葉を下さったことを覚えている。
わが家では長男が戦死したため遺族年金が入ってくるので、母が「高校で終わらないで大学まで行ってよ」と言ってくれた。私は兄貴の恩給(おんきゅう)で大学まで行くことができた。
嶺井から3人が琉球大学に受かった時は、集落を挙げてお祝いをしてくれた。
(事務局による聞き取り 2016)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015761 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 350-353 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-嶺井 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |