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外間好子(旧姓上江洲 昭和5年生まれ 大里・嶺井)【キーワード】一般疎開

■「アンマーよー」と泣いた疎開(そかい)船
戦前、大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身)には日本軍が駐屯(ちゅうとん)していた。私の家も大きかったので兵隊の宿舎として貸し出され、5、6人の上官の兵隊たちが寝泊まりしていた。
私は姉のキクとその長男(正一)、弟(清光)たちと一緒に宮崎県の美々地(みみち)公会堂(現 延岡(のべおか)市)に疎開した。沖縄には父母と妹が残った。わが家は兵隊が駐屯するには狭いので上官が疎開の手続きをした。私は弟がまだ9、10歳くらいだったので、付き添いのような形で一緒に疎開させられた。
疎開に行ったのはちょうど対馬丸がアメリカ軍の魚雷で撃沈された時で、「頭巾(ずきん)をかぶって用意しなさい」と大変な騒ぎだった。疎開の話をするときには真っ先にこのことが思い出される。沈没の話は聞かされていなかったが、頭巾をかぶっていつでも海に飛び込む用意をするようにと言われ、私は「アンマーよー」と泣いた。
鹿児島県に上陸し、それから宮崎県に行った。宮崎では学校に行かず、高良千代子さんと一緒に電話の交換手の仕事をしていた。しばらくしてから、今度は炭鉱の工場の事務所で受付の仕事をした。

■兵庫県で女工に
やっと慣れたと思った時、今度は姉2人(光子、文子)が女工(じょこう)として働いていた兵庫県川辺(かわべ)郡の紡績(ぼうせき)工場の社長と監督が迎えに来て、私もそこで女工をすることになった。寂しい時はいつも「アンマーよー」と泣いていた。
弟は勉強ができたので地元の子ども達に勉強や宿題などを教えて、その家でご飯を食べてきたこともあった。そこの金持ちの子どもたちは自分で宿題をせずに弟にさせていた。弟は頭にカンパチができていて、「オーストラリアハゲ」と言われていた。宮崎では戦(イクサ)はなかったが、兵庫での戦は怖かった。
(知念昌徳による聞き取り 2009)