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高良千代子(昭和4年生まれ 大里・嶺井)【キーワード】一般疎開/引き揚げ

■陣地構築と日本軍の駐屯
私は昭和19年(1944)3月に国民学校の高等科を卒業した後、陸軍の兵隊と一緒になって西原区あたりの壕掘りをしていた。兵隊が掘った土や石を小さなざるに入れて、手渡しで外に運ぶ仕事だった。8月に疎開(そかい)するまで、いつも朝から晩まで壕掘りをしていた。やったことはない仕事で疲れたが、その時は若かったせいか、兵隊と一緒の作業は楽しかった。これ以前、私の兄や年上の男性たちは青年学校に通って訓練を受けていたが、この頃には青年学校はあっても毎日壕掘りだった。
そうこうしているうちに、学校や嶺井の大きな民家に兵隊たちが入りこんできた。祖父母が住んでいた家では、家の一番座、二番座に将校(しょうこう)たちが入り、祖父母は片隅で生活していた。

■命がけの疎開
疎開は村から50人という割り当てがあったが希望する人が少なく、結局集落の区長や婦人会長などの役職者の家族から行くことになった。私の兄嫁が婦人会長をしていた関係で私も行くことが決まった。私は年齢的に疎開できなかったが、嫁いだ姉が4ヵ月になる乳飲み子を抱え、兄の子どもたち4人も行くので、どうしても1人は付き添いが必要だということで許可された。沖縄に留まっていたら生きていなかったかもしれない、と思う。私が行ったことで子どもたちも何事もなく無事だった。
行く時には一家族あたりマータク(泰山竹)を必ず6本は持ち込むように指示があり、持たないと船に乗れなかった。1本ずつ自分のそばに置いておくように言われたので、「これは何をするんですか」と聞くと「もし船がやられたらこれにつかまりなさい」ということだった。父はどこから取ってきたのかわからないが6本束ねて持たせてくれた。私はこれだけでは足りないと思ったが、浮袋も一家族に1個配られていた。「いざという時には自分のことだけ考えなさい、後のことは考えなくてもよい」と言われた。疎開も命がけだった。
疎開船で鹿児島県に着くまでは一週間もかかった。護衛付きの船団を組んで行ったが、私たちの船団の先を航行していた対馬丸がアメリカ軍の攻撃で沈められた。皆にはそのことを知らせないまま航行し、停泊したので「もう鹿児島に着いたのか」と思ったが、船は沖縄の本部港(現 本部町)に引き返していた。何かあったのかと不思議に思って船員に聞いたが誰も教えてくれなかった。本部港では1泊した。
姉の4ヵ月の乳飲み子にミルクを飲ませるのにも、船からお湯をもらうことはできなかった。仕方なく機関の蒸気からしたたる水滴をコップにためてミルクを作っていた。取られるといけないので見張りをしながら水滴をためていたが、それでも足りない時には船長室まで行った。「すみません、赤ちゃんが泣いていますがミルクを作るお湯がないので、一杯だけでもお湯を下さい」と頼むと、「あぁそうか」と分けてくれた。鹿児島に着いた時には安堵(あんど)した。

■疎開先の美々地へ
疎開先の宮崎の美々地(みみち)(現 延岡(のべおか)市)では公民館が宿舎として割り当てられた。ちゃんちゃんこなどの衣類を沖縄からたくさん持って行くことはできず、疎開先にはあるだろうと思っていたが何もなかった。茶碗もないので竹筒をよく使っていた。節のところから切って磨くと綺麗なお茶碗になった。水は山からきれいな水をホースで引いていたので水道代もいらなかった。私たちが住んでいたのは山の上の方で、大きな杉が茂って青空も見えないくらいだった。よくそんなところから学校に通ったものだと思った。車もなくてとてもへんぴなところだった。疎開地では、飛行機は飛んでいたが空襲はなかった。
地元の人たちがとても親切で、特にナカシマという区長さんは自分の畑を貸してくれ、「開墾(かいこん)出来たら芋なども植えられるから」と、小作料(こさくりょう)も取らずに使わせてくれた。姉は農業をしていたので、子ども達を家に置いていつも畑に行き芋を作り、おかげで不自由なく生活できた。この区長さんのことが忘れられず、達者なうちは何度か訪ねて行き交流も続いていた。

■槇峰鉱山で電話交換手
私もどうしても働かなければならず、区長に働き口がないか聞くと、三菱の槇峰(まきみね)鉱業所という大きな会社を紹介してくれた。山の奥に鉱山があり、その会社の人事課で「どんな仕事でもいいから給料の高いところがいいです」と言うと、「じゃあ電話交換手はどうですか」と提案された。電話交換手という仕事自体見たことも聞いたこともなかったので、どういう風にやるのか聞くと現場に案内してくれた。どうにかできるのでは、と思い始めると楽しい仕事だった。
この仕事は免許がなければ一人前として扱われず給料も安いので、延岡市で3ヵ月の講習を受けてようやく免許が取れた。3交代の仕事だったので給料も高く、夜勤は男性がしていた。しかし終戦が近づくにしたがって男性は兵役に取られることが多くなり、女性も夜勤をしなければならなくなった。夜勤手当は大きかった。
戦時中、空襲警報や警戒警報はみな交換台に通報が来ていたので、交換台はそれを社長に報告しなければならなかった。また方々への連絡や、テーブルのそばにある空襲警報と警戒警報のボタンを押して鳴らす作業もしていた。延岡は都市なので、そこでの空襲はすぐに交換台に通報が来ていた。会社はとても高い山の崖下の谷間にあった。1番坑から12番坑まであり、空襲警報が発令されると私たちも坑内に入った。坑内では24時間、ケーブルカーで石炭を運んでいた。ガスランプを点けてトロッコに乗り、私たちも何回か途中まで行ったがとても怖かった。この会社には昭和19年から21年まで勤めたが、戦時中の約1年間は大変だった。従業員は約1,000人いて、社宅も500か600戸ほどあり、社長の奥さんなどは裕福な生活をしていた。

■優しかった地元の人たち
私が働いたことで生活もそんなに苦しくはなかった。配給(はいきゅう)の食料だけでは足りないので、買い出しや芋を育てて補っていた。休みには田植えの手伝いをしてお米をもらうこともあった。買い出しには、小さい子どもを抱えている上に勝手もわからないので、友達が「自分の母親に連絡しておくから」と地図を描き、所定の場所に行くように手配してくれた。そこに行くとお母さんが待っていて、「あなたはそこにいなさい」と言って買ってきてくれた。そこでは本当に友達や地元の人たちに支えられた。今でも友人の1人とは交流を続けている。当時の自分もよくやったと思う。
終戦は宮崎で迎えた。天皇陛下の玉音(ぎょくおん)放送も聞いたが、ラジオを聴いてもシーンとして誰一人言葉を発する人はいなかった。「まさか」という感じだった。

■帰りを待ち望んでいた両親
「沖縄は全滅してアメリカー(アメリカ軍)だけしかいない」といろいろなデマも飛んでいた。「他人の話だけではわからないし、もし誰もいなかったらまた戻って来るから」と、昭和21年(1946)の11月に沖縄に帰ってきた。友達は帰したがらずに、「あなた1人でもいなさい」と言ってくれた。
船は久場崎(くばさき)(現 中城村)に着き、そこに2日ほどいて、大里村古堅(ふるげん)の役場まで送られた。私の親たちは私たちの帰りを待ち、そこにいつも通っていたらしい。
父たちが収容所から嶺井(みねい)に帰ってきた当時、家屋は何もなく公民館だけが焼け残っていたようだ。父が与那原からもらってきたアメリカ軍の鉄板と、近くの山で刈った茅(かや)で家を造って家族で住んでいた。当時はアメリカ軍の穴あきの細長い鉄板 ※1がたくさんあった。
軍で働いていた父がアメリカ兵から直接もらったり、配給品として支給されたりした缶詰や卵の黄身などがたくさんあった。「沖縄はこんなにご馳走があるねー」と言うと、親たちは「自分たちは食べないであなた方の分として残してあったんだよ」と言っていた。ヒラヤーチーにして食べるととても美味しかった。
疎開先では苦労したが、その時の苦労した体験が今の生活を支えていると思う。あの当時に比べたら今の生活はなんでもない。どんな苦労でも生き抜いてこられたと思う。

■槇峰鉱山の朝鮮人労働者たち ※2
疎開当時の友人から聞いた話によると、戦後に鉱山が廃鉱になった時は大変だったそうだ。鉱山には朝鮮人が多かったようだが、その人たちが敗戦になってから暴れだしたという。朝鮮人たちは塀で囲われた、まるで収容所のようなところに入れられていたそうだ。坑内(こうない)では危ないところに送り込まれていた。社宅でも差別があり、風呂も一般人のところには朝鮮人は入れなかった。「朝鮮人は奴隷扱いされていた」という話があるが、本当にそうだった。「みどり隊」と呼ばれ、逃げないように高い塀で囲われて監視付きで、いつもけが人が多かった。廃鉱になっても給料は出ないし、社宅もなくなりそこから出て行かざるを得なくなるし、行く当てもないまま方々に散らばっていったのだと友人は話していた。
(知念昌徳・比嘉京子による聞き取り 2009)

■脚注
※1 アメリカ軍のPSPマット(滑走路施設用穴あき鋼板)
※2 槇峰鉱山には中国人殉難者慰霊碑があり、鉱山にいた中国人は250人、うち77人が過酷な労働や食料不足で死亡し、終戦後帰国できたのは173人だったことが明らかになっている。朝鮮人については明らかになっていない。