■沖縄戦以前の様子
■呉屋善孝 私の知る範囲での概要をまずお話しさせていただきます。
「南京陥落(なんきんかんらく)」(昭和12年12月)以降、急速に戦時色が濃くなってきたように感じますね。学校などでも音楽の時間には軍歌などが増え、体育の時間には敬礼(けいれい)や行進を行うような内容が増えていきました。
昭和19年(1944)には武(たけ)部隊が島尻全域に入ってきましたが、その第二十二連隊である谷隊が大里地区には駐屯(ちゅうとん)しました。大里北部の島袋、古堅(ふるげん)あたりの担当は中原中尉(ちゅうい)の指揮下で、学校や大きな民家まで多くの建物が軍部の使用するところとなりました。軍作業は学年、年齢によって分けられていましたね。
私は当時、国民学校高等科の1年生だったのですが、島袋、当間、仲程などあちこちで陣地構築などを行いました。飛行場造りなども行われました。老人、婦人も皆、動員されていました。
福原に軍隊が駐屯し始めたのは昭和19年の12月頃です。第二十四師団…第九師団…この師団の二等兵は皆、沖縄の人間でしたよ。
■出征兵士の見送りなど
■呉屋 出征兵士の見送りについては(軽便(ケービン)鉄道の)大里駅まで行きましたね。大里駅は現在の県道沿いの給油所(JA)の向こうにありました。出征兵士の無事を祈って千人針(せんにんばり)なども盛んに作られました。
■戦況の拡大
■呉屋 昭和20年(1945)に入ると大里全域に軍隊が駐屯するようになりました。大里の北校区(北部)にはまず第九師団が、次に第六十二師団が駐屯し、さらに入れ替わりがありました。当間から平川にかけては砲兵隊が陣取(じんど)っていましたね。
■沖縄戦当時の日常
■呉屋 とにかく3ヵ月間、飲まず食わずのような状態でしたからね。苦しかったですよ。2ヵ月間はずっと艦砲射撃ですよ。補給路を断つために前線ではなく後方支援を狙ったんでしょう。戦(イクサ)というものは遠くの戦場で行われるものだと思っていたので本当にびっくりしました。
■収容所生活
■呉屋 やがてアメリカ軍により収容され、北部まで送られたんですが、それからの生活もまた大変なものでした。床もないような小屋に生活をしておりました。主に缶詰めが支給されたんですが、とても足りなくてひもじい思いをしていました。食べられそうなものは何でも食べましたよ。それでもたくさんの方が栄養失調で亡くなりました。
■十・十空襲(1944年10月10日)
■大城善輝 当時、国民学校4年生でした。十・十空襲のときには、自分の家の屋根の上から見渡していました。あちこちで火の手が上がっているのが見えました。与那覇(よなは)(現 南風原町)や与那原の上を飛行機が低空飛行で爆撃しているのも見えました。
■呉屋 十・十空襲はまあ、はじめての戦争体験というようなものですからね。まあ、勝ち(のニュース)ばかり教えられてきたわけですからね。その日もたくさんの飛行機が空いっぱいに編隊を組んで飛んできたので「今日は日本軍の飛行機がいっぱいだな」と言っておりましたら、その編隊が那覇、嘉手納あたりで急降下してゆくんですね。やがて煙が上がっていったんです。当時はまだ避難壕なども掘っておりませんでしたから、いそいで近くのくぼ地というか穴グヮーにみんな隠れました。そしておびえていたんですが、空の飛行機をみたら見慣れた日の丸ではなくて星のマークがあって「ああ、これはアメリカの飛行機じゃないか」ということで、やっと空襲だとわかったというわけです。まあ、那覇などの飛行場や軍事施設があるようなところが被害を受けましたね。飛行機はこのあたりの田舎には爆弾は落としませんでした。与那覇はほとんど、焼けてしまいましたね。
それからその翌日だったと思いますが、うちの避難民が与那原にいたものですから、与那原に行ったんですね。そうしたら津堅(つけん)方面(北東)から飛行機がたくさん編隊を組んでやってくるんですね。あわてて護岸の影にかくれたんですが、よくみたら、日の丸を付けた零戦なんですね。それが那覇方面に向かっていくんです。それで「なんだ、日本軍じゃないか・・・?」というわけで。
まあ、そういうわけで那覇などはたいへんだったわけですが、こちらは特に被害もなく、避難壕を造るというようなこともこの頃から始まったと思います。
■軍作業
■銘苅清子 当時は男たちは皆、召集(しょうしゅう)、防衛隊。女たちも何をやるにも共同作業でした。私は母がボロボロジューシーの炊き出しなどをしていたのをよく憶えています。当時、私が6年生、弟が3年生、その下が8歳でした。私は高等科2年で卒業したら、すぐに西原飛行場で働くようになりました。朝5時に起きだして、夜遅くまでずっと働きました。たいへん苦しい生活でした。
■食料調達
■銘苅春光 食料の調達にはだいぶ苦労しました。これは今だから話ができますが、芋に細工をして重量を増やして、それを兵隊さんのところへもっていってお米と交換したんですよ。芋の端を切って、割り箸で穴を開けてそこに油ミソを詰め込んだわけです。とにかく兵隊さん最優先の食料事情でしたから、民間の人達は食料調達で必死でした。
■食料の供出(きょうしゅつ)
■銘苅清子 芋などを供出しておりました。供出の量はそれぞれの家の収穫量などによって決まっていました。
■出征(しゅっせい)兵士の見送り
■銘苅清子 当初は軽便鉄道の与那原駅まで親戚一同で見送りに行っていたのを憶えております。大里駅で見送るようになったのはそのあとの時期だったと思います。大里駅は今の嶺井団地入り口のところにありました。やがて昭和18年(1943)だったと思いますが、おじが現役の初年兵として召集されたときにはもう、見送りは禁止されていました。
■国防婦人会
■津波古登美子 国防婦人会の会長さんは白い割烹着(かっぽうぎ)、タスキ掛けでした。出征兵士の見送りのときには中心となって集落のみんなといっしょに与那原駅まで行ったのをよく憶えていますよ。
それと、「南京陥落(なんきんかんらく)」(昭和12年12月)のときには「ちょうちん行列」があって、大人も子どもも参加してとても賑やかでした。集落の中心を練(ね)り歩きました。そういった行事でも婦人会が中心となって活動していました。
また、婦人会は班ごとに出征兵士の留守宅の手伝いも行いました。私は芋洗いや掃除などを手伝っていました。
■青年団~戦闘体験
■銘苅春光 私は当時、青年団員で活動しておりました。村内の防空壕掘りをはじめ、南風原村(現 南風原町)の陸軍病院の壕掘りもやりました。あちこちの飛行場造りにもでかけました。那覇(小禄)、読谷、西原村(現 西原町)などです。どこも数十日ほどでした。私は青年団の中心になっておりました。
私の場合は昭和19年に徴兵検査を受けて、昭和20年になってから兵隊に行きました。同級生数名と一緒に出征しました。斥候(せっこう)13回、斬り込み(白兵戦(はくへいせん)、突撃)も3回位行いました。一緒に出征した仲間で生き残ったのは私だけです。
あのころの日本の教育は「生きて帰って来い」じゃなくて、「死んで来い」という命令でしたから。まあ、アメリカの道具をみたら、日本の道具は幼稚園生が持つようなオモチャグヮーにしか見えなかったですよ。だから竹やりというのが出てきたんですが。まあ、(アメリカ軍側は)機関銃と、目に見えない艦砲と。ですから、やはり教育の差というのか、そういうものを痛感しましたね。
それから戦後は捕虜となって、昭和20年8月に小禄に行って、屋嘉(やか)(現 金武町)に行って。屋嘉に行ったら「ハワイに3千名は送ったよ」ということで係から話があったんだけど…まあ、そういう感じでした。
■戦闘体験、被害状況
■大城善輝 お父さんが戦争協力をしたのもはっきり憶えています。私の父は「断髪屋(ダンパチヤー)(理容業)」をしていた関係で、従軍しておりました。あちこちを移動し、結局、最後は船越(ふなこし)まで日本軍と行動を共にして壕で亡くなりました。
母、兄、姉らは避難していたんですが、もう食べるものが何もないものですから、食料をとりに家に帰ったら、出てきたところを艦砲射撃に遭ってけがをしました。お母さんは肉がはぎとられてしまったのですが、なんとか治して生き延びました。このことが記憶によく残っています。
■避難状況
■銘苅清子ほか 福原から本土(九州)への集団疎開(そかい)というようなものはありませんでしたね。アメリカ軍上陸のちょっと前、2月の末くらいだったと思います。やんばるへの疎開が始まりましたね。
■呉屋善孝ほか ほとんどがやんばるへ疎開したんじゃないでしょうか。南部へ逃げたという人は数名いたかどうかという感じじゃないかな。
■呉屋善孝 そうですね。ところが十・十空襲や、アメリカ軍の海からの艦砲射撃が始まってびっくりして、それから沖縄上陸(昭和20年4月1日)直前になって、急いでということでやんばる方面へ避難するという感じでしたね。
■呉屋文子 私は沖縄戦の頃には出身である友寄(ともよせ)(現 八重瀬町)におりました。父は防衛隊で、家には女ばかりでした。
やがて父が逃げてきて一緒に阿波根(あはごん)(現 糸満市)へ移動しました。しかしそこは大変な激戦地で引き返して、友寄の日本軍の壕に入れてもらいました。この壕は今の沖縄県立南部商業高校がある高台にあって、20名位がそこに隠れていました。幸い、そこには米もミソも十分にあって、水だけは父が闇にまぎれて近くの水場に汲(く)みに行っていました。そのまま終戦も知らずにそこで避難生活を送っていたものですから幸いだったと思います。けが人、死人もひとりも見なかったので、そういう意味では戦(イクサ)の経験も苦労もなかったというべきかもしれません。
■桃原喜永 私は、父が召集を受けたものですから叔母さんの家に避難していました。おばあちゃんの頭のシラミを取るのが日課でしたが、おばあちゃんは一向に頭を洗おうとしないのです。それで、いくら取ってもきりがありませんでした。
やがておばの家も危ないということで、避難することにしました。糸満へ向かうつもりでしたが、大雨で道が水でいっぱいになっていました。それで、どうせなら生まれシマ(故郷)で死のうということで、戻ってきました。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015758 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 340-344 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-福原 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |