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銘苅清子(昭和5年生まれ 大里・福原)【キーワード】南部避難/収容所

■壕掘り作業への動員
1944年(昭和19)7月にサイパンの日本軍が玉砕(ぎょくさい)した。アメリカ軍の沖縄上陸が確実な状況になり、沖縄に数万人の軍隊が派遣された。
日本軍はさっそく飛行場建設や陣地構築に取り掛かり、しかも短期間で仕上げなければならなかった。働ける住民はこれらの工事に総動員された。
私は西原飛行場建設、南風原村(現 南風原町)黄金森(こがねもり)の陸軍病院の壕や旧農薬工場の南側の山、南風原村山川の北側の山、大里村嶺井の田原ヤードゥイの北側の丘、大里城跡の西側(シガイと呼んでいた)の岩山などで壕掘り作業に動員された。シガイの壕掘りではダイナマイトで爆破していた。

■空襲と壕生活
その年の10月に沖縄では初めての大規模な空襲があった。その後しばらく空襲はなかったが、翌年の1月頃から再開された。
空襲があると、自宅から近い祖父母の壕に避難した。その壕は低い丘に掘られていて、土質も軟らかく貧弱で、爆弾や艦砲射撃の破壊力に耐えられるものではなかった。
3月23日は卒業式だったが、朝から黒い飛行機が爆音をとどろかせて飛んで行った。それが米軍機とわかり、みんな防空壕へ避難した。また、アメリカ軍は具志頭村(現 八重瀬町)の港川(みなとがわ)方面に上陸するかのように激しい艦砲射撃をした。
毎日空襲があり、呉屋門中(もんちゅう)から立て続けに犠牲者が出た。集落のある家の西側の畑に爆弾が落とされ、その爆風で別の家の家屋が倒壊し、自宅にいたおじーが亡くなった。またある家のおじーは屋敷内にいたときに機銃掃射を受けて亡くなった。さらにカンポウ ※1が別の家の防空壕に直撃し、そのせいで入口が密封されてその家族からも犠牲者が出た。
このようなことがあったので、私たちは祖父の貧弱な壕から別の家のより頑丈な壕に移った。この壕には門中の3家族十数人が入り、島尻に避難するまで共同生活をした。
日中は壕で生活していたが、夕方にはアメリカ軍が攻撃を止めるので、その時間を利用して私といとこの敏子は芋掘りをし、母は食事の準備をした。しばらくするとアメリカ軍は再び攻撃を始めるので、壕に入った。壕生活をしていた間は食事には不自由しなかった。
壕内は湿気があって蒸し暑く、蚤(のみ)も発生して不潔だった。それでも生きるために我慢して生活していた。

■大城・真栄平へ避難
5月19日の午後、逃げてきた日本兵が、現在の嶺井団地近くまでアメリカ軍が来ているといって私たちの壕に来た。そして、すぐ南部方面へ逃げるように告げた。
私たちはさっそく荷物をまとめ、私たち家族と祖父母、いとこたち計8人で分担して持ち、地理に詳しい祖父の案内で大里村大城の東側の山(しめ山)に向けて夕方に出発した。私たちが壕を出る時には小銃の発射音が聞こえてきた。アメリカ軍はそれほどに近くまで進出してきていた。
しめ山には茅葺(かやぶき)の小屋があり、荷物を置いて休んでいると近くにカンポウが落ちて破裂し、破片が飛び散った。幸い全員無事だった。それから山奥に進み、岩陰に隠れて4、5日間過ごした。食事は持参してきた食べ物を食べていた。
そこも危険になると、田んぼ道を取って玉城村(現南城市)愛地(あいち)を通り、前川(まえかわ)の南側にある自然洞窟(前川ガンガラー)に行った。愛地に行く途中には艦砲弾が近くの田んぼに落ちたが、不発で助かった。その時は怖くて頭が真っ白になった。
前川ガンガラーは大きくて縦穴式で、出入りにははしごを利用していた。洞窟内には2段にした棚が取り付けられ、そこでは負傷して痛さでうんうん唸っていた日本軍の兵士を収容していた。残りの場所には先に避難していた住民がうずくまって座っていたため、私たちが入る余地はなかった。海にも近く、港川沖に停泊していたアメリカ軍の軍艦から艦砲弾が撃ち込まれる危険地帯でもあった。
私たちは避難場所を探してこの洞窟の裏に回ると、そこには墓や岩陰があってすでに避難民がひそんでいた。私たちは誰も使っていない岩陰に隠れて生活した。
その頃、防衛隊としてシガイの壕で働いていた伯父(父の兄)が、私たちと一緒に避難させた娘と妻を心配して会いに来た。彼はわざわざ遠方から危険を冒して私たちを励ましに来てくれた。また、知り合いの家族にも会った。私の父は満州(まんしゅう)に派兵され、わが家では働き手がなくて食料を手に入れることができなかった。同情した彼らは掘ってきた芋でウムニー(芋煮)を作って私たちにも分けてくれた。本当にありがたいと思った。

■南部をさまよい逃げる
アメリカ軍が近くまで来たので具志頭村新城(あらぐすく)に移動し、夜に到着した。さらに夜通し歩いて具志頭集落、そして真栄平(まえひら)(現 糸満市)に避難した。
その途中、祖母と弟(次男)が家族からはぐれた。この一帯は、「真栄平方向が安全」と向かう避難民、「具志頭方向が安全」と向かう避難民で混雑していた。人の顔も見えないような真っ暗な夜間、混雑した中で母は大声で子の名を呼び、真栄平方面から来る避難民に「男の子を連れたおばーを見なかったか」と尋ね歩いた。幸い「具志頭集落の石垣のそばで立っていた」という情報を得て探すことができ、ほっとした。その教訓を活かし、アメリカ軍の攻撃で何度も危険な目に遭いながら、家族は捕虜になるまで一緒に行動した。
また、弟(長男)は前川ガンガラー近くの岩陰に隠れていた時に発熱していた。日本軍の兵士が解熱薬をくれたので熱は下がったが、弟は病弱で歩けず、私が背負って真栄平まで避難した。弟は国民学校4年生で体は大きい方だったので、彼を背負って避難するのは私にはたいへんな負担だった。雨期だったので毎日大雨で、弟にオーバーを被せて泥道を歩いたが、ぬかるみに足を取られて転んだ。起き上がるのにやっとで、体と顔には泥が付いたがふき取ることもできず、そのままの姿で真栄平にたどり着いた。そこで親戚の3家族にも会い、以前にウムニーを分けて下さった知人家族とは別れた。
真栄平では民家のガジュマルの木の下で休息を取った。それから新垣(あらかき)(現 糸満市)まで行ったが、アメリカ軍の攻撃が激しく、再び真栄平に戻った。戻ってみると、私たちが休んだ民家に艦砲弾が落下して多くの犠牲者が出ていた。その中に、母親が亡くなっているのにお乳を探している赤ちゃんがいた。また、犠牲者の肉片が樹木に張り付くなど、戦争の悲惨さを見た。
そこが危険なので、隠れる場所がないか集落内を探した。隠れられる場所はなく、私たちは集落内の大きなガジュマルの木の下に隠れていた。その時、目の前の瓦屋根(かわらやね)の家に爆弾が落ちて破裂し、その家に隠れていた多くの住民が犠牲になった。私たちの方にも破片が飛んできたがみな無事だった。本当に運が良かった。
集落内は危険なので、集落の北側の山に避難した。集落内を通って行ったが、散乱している死体を見ないようにして歩いた。この山で避難民は、木の下や土手、岩陰など、無防備に等しいところに隠れていた。そのため艦砲射撃や砲撃を受けると多くの犠牲者が出た。そこで親戚のおじーが爆弾の破片で肘をけがした。ここで約一週間滞在していた。
その頃、アメリカ軍の攻撃を逃れた住民は島尻の南端に追い詰められていた。今考えると非常識だが、私といとこの敏子はこの避難民の様子を見に行った。その途中、2人の至近距離でカンポウが炸裂(さくれつ)した。弾き飛ばされた石が敏子の頭に当たって少し傷を負った。私は無事だった。敏子が軽い傷で済んだのは幸いだった。
アメリカ軍が接近してきたので小波蔵(こはぐら)(現 糸満市)に避難したが、そこは攻撃が激しくて真壁(まかべ)(現 糸満市)のキビ畑に逃げ込んだ。米は少し持っていたが食事も作れず、毎日キビを食べて過ごしていた。飲み水はいとこの嫁と母が汲(く)んできた。水汲み場は死体が散乱し、水は死体で汚れていたが、喉が渇くので我慢して飲んだ。

■親戚の勇気ある行動で捕虜に
ある日の夕方、びゅうびゅうと小銃の発射音がするので後ろを振り返ると、100メートルくらい離れたところにアメリカ兵が1列に並んで、私たちの方に銃を向けて立っていた。私は大声で「アメリカ兵が来ている」とみんなに知らせ、急いで家族の写真とお米を持って逃げた。
私たちを目がけてアメリカ兵は小銃を乱射した。祖母は額に命中して即死したが、その他の家族は無事でよかった。私は逃げる時に死体を埋めた土の上を踏み、めまいを起こして倒れた。みんなは近くの林に隠れ、私が卒倒したのを見ていた。親戚の女性が助けに来てくれて命拾いした。その時に家族の写真と米を失くしてしまった。
アメリカ軍が真壁まで進出してきたので、小波蔵を通って名城ビーチが見える松林の中に行き、そこで親戚の4家族15人で潜んでいた。いつの間にか、アメリカ兵が私たちに銃を向けて立っていた。それに気づいた私たちは恐怖心で体が震えた。その時、親戚の女性がアメリカ軍に両手をあげて近づき命乞いをした。みんなでそれをまねて手をあげ、捕虜になった。彼女の勇気ある行動が私たちを救った。彼女は命の恩人だと家族に話している。
私たちが捕虜になったのは島尻に避難して約1ヵ月後だった。その間、雨に濡れ、野宿をし、水や食べ物にも事欠き、体は衰弱した。さらにアメリカ軍の激しい攻撃を受けながら逃げ回り、何度も死の恐怖にさらされた。「捕虜になると殺される」という恐怖や、「生きたい」という強い思いが衰弱した体に鞭(むち)を打ち、島尻の南端まで逃げ、捕虜となり生き残ることとなった。

■収容所生活
捕虜になった私たちは、着の身着のままで糸満まで歩かされた。そこから豊見城村伊良波(いらは)(現 豊見城市)の仮収容所まで車で運ばれた。
翌日、宜野湾村野嵩(のだけ)(現 宜野湾市)の収容所に送られて約1ヵ月を過ごした。そこでは戦災を免れた民家に収容され、食事は配給(はいきゅう)があった。
私たちはアメリカ軍の軍服の洗濯に従事させられた。着の身着のままで生活していたので生地がほしくて、軍服のポケットからハンカチを失敬することもあった。
野嵩からは古知屋(こちや)収容所(現 宜野座村)に移動させられた。そこは山の上を整地していて、茅葺(かやぶき)小屋がたくさん建設されていた。この小屋は壁と屋根を山原竹で仕上げていて床はなく、草を敷いて寝た。
食事は配給(はいきゅう)があったが野菜はなくて、地元の住民の畑から母と親戚のおばさんがカンダバーを失敬しているところをCPに見つかり、一晩収容された。翌日、見張りがいないので逃げ帰って来た。
女性たちは山原竹を採る作業を割り当てられた。刈る鎌(かま)などはないので手で折った。それをアメリカ兵が運搬して屋根葺(ふ)きに使った。作業に従事した私たちには、弁当として大きな「おにぎり」が配給された。茅葺小屋造りは男性たちがやっていた。古知屋収容所では約4、5ヵ月生活したと思う。
その後玉城村船越(ふなこし)と、大里村大城にある収容所に移動した。アメリカ軍が引き揚げて安全になった頃に故郷に帰った。
(呉屋勝正による聞き取り 2009頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。