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呉屋春子(昭和4年生まれ 大里・福原)【キーワード】日本軍の駐屯/南部避難/収容所

■日本軍の駐屯と陣地構築
昭和19年(1944)の夏頃から数万人の日本兵が沖縄に送り込まれた。日本軍はアメリカ軍の上陸に備え、住民を総動員して飛行場や陣地の構築を突貫工事(とっかんこうじ)で進めた。兵舎は不足し、学校や瓦屋(カワラヤー)の民家が収用された。母の実家にも十数人の日本兵が宿泊し、私たちと一緒に生活していた。
その中に、やんばる出身の一等兵がいた。彼は病気でそうとう衰弱し、陣地構築の作業を免除され休養していた。空腹で我慢できなくなった彼は、祖母のシンジグヮー(豚肉と豚レバー、野菜を煮込んだ汁もの)を食べてしまった。そのことが兵長に知られ、その病兵はウミチチクルサットーウタン(何度も殴る・蹴るの暴行を受けた)。立てなくなった彼に、兵長はさらにハチメーナービ(大鍋)を被せて「立て」と命令した。彼は気力をしぼり立とうとしたが立てなかった。それを見ていた兵士たちは笑っていた。本当にかわいそうだった。
私は南風原村(現 南風原町)の陸軍病院や大里村仲程付近の山で壕を掘る作業に動員された。作業内容は壕を掘って出た土を壕の外に運び出すものだった。重い土を運び出す作業は、体力のない私たちには重労働で、しかも真夏の暑い中での作業だったので本当に大変だった。

■十・十空襲と壕生活
住民も身を守るための壕を掘った。手登根(てどこん)モーはニービという硬い土質でできていて、壕には適していた。動員されない高齢者のおじぃ達がツルハシで硬い土を掘って壕を完成させた。
昭和19年10月10日に大規模な空襲があり(十・十空襲)、全島の軍事要塞、軍港や那覇市などが大きな被害を受けた。この様子を見てアメリカ軍の戦力のすごさに脅威を感じた。その後しばらく空襲はなかった。
年が明けると空襲が再開された。攻撃目標が軍事施設のない地域にまで拡大され、爆弾投下や機銃掃射で親戚からも犠牲者が出た。このように危険な状況になったので、5月中旬まで終日、防空壕で生活するようになった。
壕も爆弾やカンポウ ※1が直撃すると地震のように揺れ、頭上から土が落下し、崩壊しないか心配だった。カンポウの直撃で家族全員が犠牲になった壕もあった。壕も絶対安全な場所ではなかった。

■壕を出て南部へ避難
5月中旬頃、アメリカ軍が上与那原(うえよなばる)まで接近し、小銃の発射音が聞こえてきた。危険が迫ってきたので家族と一緒に大城を経由し、玉城村(現 南城市)の親慶原(おやけばる)にあるガマに避難した。
そのガマに行く途中で大城を過ぎた頃、カンポウの破片で母が臀部(でんぶ)をけがした。家族で初めてのけが人だった。大量出血して着物が血で染まり心配したが、幸い命だけは助かった。以後、母は杖をついて避難した。戦場を逃げ回るのに母は大変苦労し、母の荷物を分担したみんなも負担が過重になった。母の傷はアンダマースを塗り続けていると、だんだんよくなり、捕虜になる直前には自力で歩けるようになるほど回復した。
季節は雨期だった。親慶原の自然壕も危険になり、濡れながら安全な場所を求めて前川ガンガラーに行った。だがそこは先客でいっぱいになっていて、海上から艦砲弾が撃ち込まれる危険な場所でもあった。それで入るのをあきらめ、具志頭村安里(現 八重瀬町)、新垣(あらかき)、真栄平(まえひら)(現 糸満市)へと避難した。

■人間としての感覚が麻痺する
どの集落だったかわからないが、民家で休憩をしようと訪ねると、「君たちを入れるとアメリカ軍から攻撃される」といって家主から断られた。他に休める民家はないかと集落中を探し回ったが、見当たらないので最初の民家に行ってみると、カンポウが直撃して一家全滅していた。犠牲者の肉片が屋敷内の木に付着していた。
新垣・真栄平(アラカチ・メーデーラ)集落一帯にはアメリカ軍に追われた多くの住民が押し寄せていた。アメリカ軍の猛攻を受け、その多くが犠牲になった。畑・原野にはたくさんの死体が散乱し、腐乱したものもあり、ハエが群がり、ウジが湧いて膨れ悪臭を放っていた。私たちは死体を避け、あるいは踏んで逃げ回った。
さらに、頭に大きな荷物を抱え、背中に子どもをおんぶしたままうつ伏せになった母子の死体や、亡くなった母親のお乳を吸う赤ちゃんなどのかわいそうな場面に遭遇したが、助けることが出来なかった。また、岩のそばで顔半分が破片で切り取られ、倒れずに座ったままの姿勢で死んでいる日本兵の無残な姿もあった。この一帯はまさにこの世の地獄で、そんな死体を見ても「怖い」という感情はなかった。
また、顔と足を負傷して顔面を包帯で巻き、他の兵士に片方の体を支えられ、もう片方は杖(つえ)をついて島尻に撤退する日本兵に会った。彼はものが見えないし、どこを通っているか知らなかったのだろう。「大里集落」はどこかと聞いたが誰も返事しなかった。無視された兵士は怒り、杖(つえ)を振り回して殴ろうとしたので私たちはびっくりして逃げた。兵士を怒らせた一因は、誰に聞かれたかわからなかったために返事をしなかった私たちにもあった。負傷兵も戦争の犠牲者であり親切にすべきだったが、戦場ではそれができなかった。
どこを負傷したのか歩行ができず、雨でぬかるんだ道をチビスンチャーして(おしりを引きずって)撤退する兵士も見た。こんな兵士を見ても、人間としての感覚が麻痺し、他人のことを思いやることができなくなっていた。

■祖父の死と捕虜
場所は不明だが、一緒に避難していた祖父が破片で腕をけがした。高齢の祖父はそれまでは歩いていたが、けがをしてからは歩けず、親族が交代でモッコで担いで避難した。数日するとウジが湧き、傷口にはウジがいっぱい群がっていた。
私たちは危険な新垣から真壁(まかべ)(現 糸満市)に移動した。この集落の前は平坦な畑で身を隠す場所がなかったので、畑に掘られた穴に隠れていた。捕虜になる2、3日前の夕方には、アメリカ軍が戦車を先頭に、兵士が自動小銃を乱射しながら近くまで接近してきた。私たちは夢中で逃げて助かった。アメリカ軍は定刻になったので、短時間だけ攻撃して引き揚げて行った。もしそれが昼間だったら何時間も攻撃を受け、多くが犠牲になっただろう。けがをして破傷風(はしょうふう)になっていた祖父もこの地で亡くなった。
その頃から食べ物もなく、サトウキビをかじって飢えをしのいでいた。親慶原(おやけばる)の壕を出てからは野宿が続き、睡眠や食事も十分に取ったことがなく、体力も衰弱していた。どうにか気力だけで生きていた。
真夏で汗をかく上に、キビを食べるので喉が渇いた。誰かが水を汲(く)みに行かなければならないが、母は率先して水汲みに行き、子どもたちに飲ませた。自分は犠牲になってもいいという母性本能がそうさせたのだろう。水汲みは命がけの行為だった。アメリカ軍は水汲みに来る者を狙って攻撃し、たくさんの犠牲者が出た。また、水には犠牲者のウジが浮いていたり、包帯を洗ったりしていたので不潔だったが、がまんできずに飲んだ。
真壁の前の畑から逃げ出したあと、小波蔵(こはぐら)(現 糸満市)を過ぎ、喜屋武(現 糸満市)に行く道路の右側にある松林の中に逃げ込んだ。そこに集まったのは親戚の3家族で、その中に15歳以上の娘たちが数人いた。
6月19日になると、アメリカ軍の戦車が摩文仁(まぶに)岳(現 糸満市)に向けて砲撃し轟音(ごうおん)を響かせながら、糸満街道を通過した。ところが私たちが隠れていた一帯は静まり返っていた。アメリカ軍が接近してきていたことはわかっていたが、なぜ攻撃をしないのかわからなかった。しかしアメリカ軍は接近し、私達を包囲していたのである。
その様子から、今日は捕虜になると大人や娘たちは気づいていたのだろう。娘たちは、「捕虜になると辱(はずかし)めを受けて殺される」と日本軍から聞かされていたので、自決用として手りゅう弾1個をもらい所持していた。若い娘たちは手りゅう弾による自決を考えていた。それに気づいた親たちが自決させないよう、手りゅう弾を捨てるように説得していたところをアメリカ兵に取り囲まれて捕虜になった。

■野嵩と古知屋での収容所生活
捕虜になって糸満街道に出ると、街道周辺から捕虜となった住民が集まってきた。こんなにたくさんの住民が生きていたのかとびっくりした。
私たちは徒歩で真壁村名城(なしろ)(現 糸満市)を経由して糸満まで行き、そこから車で豊見城村伊良波(いらは)(現 豊見城市)の収容所に運ばれた。そこでアメリカ軍の携帯用食料の配給(はいきゅう)を受けた。
翌日は車で宜野湾村野嵩(のだけ)(現 宜野湾市)に護送され約1ヵ月生活した。そこでは消失をまぬがれた民家に泊まり、食べ物は米や缶詰などが配給された。
私たちは軍作業(アメリカ兵の軍服の洗濯)に動員された。食料はどうにか満たされたが、生地がほしかった。そこでアメリカ兵に「ハンカチをくれ」と要求すると、「トモロー」と言う。「ウリヒャー、トマリン(泊まりなさい)と言っている」と勘違いし、明日からは要求しないでおこうと話し合った。ところが翌日になるとハンカチをくれたので、その生地(きじ)でパンツを縫った。
野嵩は一時的な収容所で、さらにやんばるの古知屋(こちや)収容所(現 宜野座村)に移された。そこにはたくさんの避難小屋が造られ、避難民たちが収容されていた。小屋の屋根と壁は山原竹で出来ていて、床はなく、草の葉を敷いて寝た。私たちも茅葺(かやぶき)小屋を造る竹刈り作業に動員され、収容されてくる避難民用の小屋を男性たちが造った。
米や缶詰などの配給はあったが、野菜などが不足していた。おばさんたち2人はカンダバーを他人の畑から取ろうとして、CPに見つかり捕まった。仮刑務所に1日留置されたが、翌日は監視員がいなかったので逃げ帰ってきた。

■戦後生活の始まり
11月には玉城村船越(ふなこし)を経由して大里村大城に移り、団体で芋掘り作業に従事した。その頃までは収容所に近い地域にアメリカ軍が駐屯していて、アメリカ兵が芋掘り中の女性を襲う事件が多発した。また、芋掘り中の女性が襲われ、助けようとしたCPが武装したアメリカ兵に殺害される事件も発生した。さらに、女性を求めて夜間の収容所にアメリカ兵が出没することもあり、住民は夜警団(やけいだん)を組織して警戒し、アメリカ兵が来ると住民に知らせて女性を逃がした。真っ暗闇の中を逃げるので、知人のおばーは転んで手を骨折した。
アメリカ軍が引き揚げ、安全になった頃に私たちは福原に帰ることを許された。家屋は全部消失し、畑は踏み荒らされ、爆弾やカンポウで出来た穴に水が溜まっていた。農作物も焼かれ、収穫できるものはなかった。このような状態から戦後の生活は始まった。
(呉屋勝正による聞き取り 2009頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。