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呉屋文子(昭和3年生まれ 大里・福原)【キーワード】女子青年団/陣地構築/南部避難/収容所

■女子青年団員として陣地構築に動員
私は南風原村慶原(けばる)(現 南風原町)の出身だが、戦争前は母の実家のある東風平村友寄(ともよせ)(現 八重瀬町)に住んでいた。小学校を卒業した後は、2年間補習科で学んで技術を身に着けた。それから青年学校に入って、私たち女子青年団員は裁縫を習い、男子たちは竹やり訓練などをしていた。
昭和19年(1944)7月にアメリカ軍がサイパンに上陸し、日本軍は玉砕(ぎょくさい)した。次は沖縄に上陸することが必至の状況となった。政府はアメリカ軍の上陸に備えて沖縄に守備軍を配備し、住民を総動員して飛行場、陣地、防空壕の建設を進めていった。
私たち女子青年団員も村から割り当てられて、小禄飛行場(現 那覇市)の建設や、南風原村津嘉山(つかざん)(現 南風原町)集落の北東側にあった第三十二軍司令部壕、ひめゆり学徒隊が働いた黄金森(こがねもり)(現 南風原町)にある陸軍病院の壕、東風平村ブルソージ(具志頭村新城集落の北側の山)で防空壕を掘る作業に動員された。
壕掘りでは、壕から出る土をカシガー(カマス。わらむしろで作った袋)に入れ、それを2人で運ぶ力仕事をさせられた。これを一日中続けたので大変疲れた。司令部壕や陸軍病院の壕までは自宅から約4キロメートルの距離があったが、歩いて通っていた。動員は10~15日ごとに交代し、動員がない間は家業の農業を手伝った。
小禄飛行場までは相当の距離があり、場所もわからないので、集落単位に集まってリーダーの誘導で歩いて行った。往復するのに時間がかかるためか、飛行場近くに建設された仮の宿舎に宿泊しながら飛行場建設に従事した。私たちに課された作業は草むしりだった。私たちは我慢して作業を続けたが、男子の中には重労働に耐え切れず逃げた人もいたようだ。
飛行場は砂地で、海岸から吹き上げる風が強かった。昼食は芋弁当(芋とわずかな米を混ぜて炊いたもの)が支給されて飛行場内で食べた。弁当箱を開けると、風に吹き飛ばされた砂が弁当箱に入り、砂が混ざった弁当を食べなければならなかった。唯一の楽しみである弁当がこんな有様だった。
動員は昭和19年の十・十空襲(10月10日)まで行われた。この空襲で沖縄島の飛行場、陣地港湾施設、船舶や那覇市が大きな被害を受けた。飛行場は重要な攻撃目標の1つで、空襲があれば攻撃され、多くの作業員が犠牲になる危険があった。そのためか、空襲後は私たち女子青年団員の動員は中止になり、私は家業を手伝った。
翌年になると頻繁に空襲があり、自分の壕に入って生活した。

■南部へ避難したが引き返す
昭和20年(1945)5月の中旬頃、アメリカ軍が上与那原(うえよなばる)(現 与那原町)まで進撃してきた。父は馬、馬車と共に日本軍に徴用(ちょうよう)されて弾薬や軍の食料を運搬していたが、馬と馬車を捨てて、暗くなってから逃げ帰って来た。そして「すぐ避難するから」と家族に告げた。
私たち家族5人(両親と子ども3人)は着替えと少量の食料を持参して、その日の夜に兼城村阿波根(あはごん)(現 糸満市)にあるチカジクガマ(別名サキタリガマ)という、大きな自然洞窟に避難した。そのガマには日本軍も一時入っていたが、すでに島尻方面に撤退した後で、住民だけが残っていた。
この一帯も安全ということで避難したが、昼間は上空をアメリカ軍の戦闘機が飛び交い、またトンボに似た偵察機が住民や兵隊の動向を観察して旋回(せんかい)し、軍艦に連絡して海から艦砲弾を撃ち込ませていた。ここも前線に近く危険になっていた。
「ここにいると殺される」と思い、1泊して夜間に友寄(現八重瀬町)に戻った。昼間よりも安全な夜間を利用しての避難だったが、前線に近い地域では夜間でも艦砲弾が撃ち込まれるので、夜間だから安全ということではなかった。
友寄に戻る道中は、原野や畑で野宿しながら進んだので2日間かかった。暗い中でキビ畑を通り、夜間でもカンポウ ※1が撃ち込まれるため隠れながら進むので時間がかかった。私たちが逃げた反対方向(前線に近い地域)では赤い火の玉(艦船から撃ち込まれた砲弾)が飛び交い、また照明弾(しょうめいだん)がボンボン打ち上げられ、夜でも真昼のように明るくなった。私たちは前線から遠ざかる方(アメリカ軍が占領した地域)に逃げたので、全員無事で友寄に帰ることができた。
食料は持っていなかったので、2日間はキビをかじって飢えをしのいだ。

■アメリカ兵の説得で捕虜に
南風原村山川(現 南風原町)には兵站(へいたん)部隊(食料や軍需品を補給・輸送する部隊)が配備されていて、その壕が現在の南部商業高校の北側の山に造られていた。集落の近くにあったこの壕のことを親戚のおじさんが知っていたため、友寄に戻ってからはこの壕に入った。
その頃、戦場は島尻南端に移り、日本軍や住民は島尻地域に撤退(てったい)・避難していた。私たちが隠れていた壕はアメリカ軍が占領した地域にあって、壕には日本兵も住民もいなかった。この壕に私たち家族5人、親戚のおじさん、仲間からはぐれたおじさん達と一緒に長い間隠れて生活していた。
壕には米、粉味噌、塩などの食料が保管され、捕虜になるまで飢えることはなかった。しかし水はなかったので、水は男性たちが近くの艦砲穴(カンポーアナ)から夜間に汲んできた。こうして戦争中でもわりと恵まれた生活ができた。
沖縄戦が終わったあと、アメリカ軍は先に捕虜になった兵士や住民を使って壕に隠れている兵士・住民を救出した。おそらくその頃、私たちが壕に潜んでいることをアメリカ軍は気づいていたのかはっきりわからないが、ある日壕の入口にアメリカ製の缶詰が置かれていた。アメリカ軍は「住民が潜んでいれば、飢えているので缶詰を取るはずだ」とそれを置き、住民の存在の有無を調べたのだろう。父はアメリカ軍の意図を知り、みんなに「缶詰を取るな」と指示し、誰も取らずにそのまま置いてあった。
ところが夜に水を汲んで壕に戻ると、日系2世の通訳とアメリカ兵の2人が壕の入口で待っていた。彼らは父に「おじさん、もう戦争は終わったよ」と言った。父が「私をだまして殺すつもりだろう」と言うと、彼らは「住民は収容所で楽しく暮らしている」と説明した。それでも私たちが信用しないので、彼らは「明日収容所に連れて行って見せる、明日の朝迎えに来るからそのまま壕で待っていてほしい」と言って帰っていった。
彼らは約束通り翌朝迎えに来て、父を玉城村(現 南城市)にできていた百名(ひゃくな)収容所に連れて行った。父は、戦争が終わり住民が収容所で生活していることを確認して帰ってきて、私たちは捕虜になった。

■収容所生活と戦後の苦労
私たちは車に乗せられて、昼の12時頃に百名収容所に着いた。収容所では男女別々に分けられた。男性たちがどうなるか心配したが、彼らは軍に協力したか、どんな協力をしたかなどの尋問(じんもん)を受けた後に解放された。そして家族一緒に収容所生活を送ることができたが、テント小屋で雑魚寝(ざこね)をする窮屈な生活だった。
私たちが捕虜になったのは、日時ははっきりしないが、沖縄戦が終わってずいぶん経ってからだったようだ。具志頭村(現 八重瀬町)、東風平村、玉城村などで捕虜になった住民は百名収容所に収容された。捕虜になった時期が早い住民はやんばるの収容所に送られていた。しかし私たちは、戦争も終わっていたためやんばるに送られることはなく、自宅に近い百名収容所、船越収容所、大城収容所と移転し、各収容所でわりと長く暮らした。
私たちが収容された頃には、収容所もある程度秩序立って落ち着いていた。どの収容所でも配給(はいきゅう)はあったが不十分だったので、男性たちが掘ってきた芋を本部に集め、それから家族の人数に応じて配分し、不足分を補っていた。
玉城村の船越収容所に移動してからは、瓦葺(かわらぶき)の民家で4、5世帯が一緒に共同生活をした。船越(ふなこし)には民家も残っていたが、足りない分はテント小屋を設営して避難民を収容していた。大城の収容所ではテント小屋で過ごした。
戦争が終わってアメリカ軍が引き揚げ、安全になった昭和21年(1946)3月頃に福原に帰って来た。家屋は焼失し、畑は戦車に踏み荒らされ、爆弾や艦砲弾によってできた穴に水が溜まって、作物は焼かれていた。戦後は家造りや畑にできた爆弾・艦砲穴の埋め立て、戦車で踏み荒らされた畑の耕作と作物の植え付けなどの重労働で苦労した。私たちにとっては、戦争中よりも戦後の生活が苦しかった。
(呉屋勝正による聞き取り 2009頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。