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大城善輝(昭和9年生まれ 大里・福原)【キーワード】玉城村へ避難/収容所

■障がいを抱えながらも家族を支えた父母
私の家族は父母、姉、兄、私、妹の6人だった。戦争の時は姉が15歳、兄が13歳、私が11歳、妹が5歳で、家計は父の稼ぎで支えられていた。
父は南風原村兼城(現 南風原町)の出身だった。若い頃に落馬事故で大けがをして片足を切断し、農業などの肉体労働ができなくなった。それで理髪師の免許を取り、親戚の紹介で福原に移り住んで理髪店を営んでいた。片足がないので杖(つえ)を用いていたが、散髪の時には杖を使えないので、お客さんが肘をかけるところに片足を置いていた。不自然な姿勢で散髪するので大変苦労したと思う。母もリウマチの持病があり、足は丈夫だったが手が自由に使えず、家事などは姉が手伝っていた。
父は日本兵の散髪もしていた。姉と兄は壕掘りに動員されていたが、どこに行っていたのかはわからない。私は子どもだったので動員されなかった。

■福原から見た十・十空襲
昭和19年(1944)10月10日に空襲があった。最初は日本の飛行機だと思っていたが、攻撃されて初めて、米軍機による空襲だとわかった。空襲は朝から行われたが、私たちが住んでいる地域は攻撃を受けなかった。それで学校に行ったが、危険だということで下校させられた。
福原は空襲されないので、私は集落内の森の大きな松の木に登り、与那原や西原飛行場が攻撃される様子を見ていた。米軍機は南方側から私の頭上を通り、急降下して与那原や西原飛行場に焼夷弾(しょういだん)を投下して急上昇した。空襲では、4機編隊を組んだ無数の戦闘機が繰り返し焼夷弾を投下し、攻撃目標を徹底的に破壊していた。アメリカ軍の攻撃のすごさを見て脅威を感じた。

■不自由で不潔な壕生活
昭和20年(1945)に入ると空襲がまた始まり、その回数も増えた。しかも陣地のない農村までが攻撃を受けて被害が出るようになった。
空襲があると、私たちは爆弾投下や機銃掃射による攻撃を受けるので危険となり、自宅の南側にある森に掘った防空壕に入るようになった。私が住んでいた1班からは空襲の犠牲者は出なかったが、他の班からは犠牲者が出た。その頃から、アメリカ軍が近くまで進撃してきた5月中旬までは壕生活をしなければならなかった。
壕内は狭い上に蒸し暑く、風通しが悪くて、不潔で蚤(のみ)も発生した。私たちは危険な空襲から身を守るため、不自由で不潔な壕生活を我慢しなければならなかった。

■爆風で兄が亡くなる
わが家はアメリカ軍が与那原一帯に進撃してきた時に島尻に避難した。避難には生活必需品を持って行かなければならないが、家族で荷物を運べたのは姉だけで、もちろん兄と私も持てるだけ持ったが、わずかしか持って行けなかった。母は妹の手を引いて避難した。
私たちは徒歩で大城集落の東側の「しめ山」に避難した。しばらくすると食料がなくなった。仕方がないので、母、姉、兄が自宅にウムクジ、砂糖、米などの食料を取りに戻った。自宅に戻ることは戦場に接近することなので非常に危険だった。
あとわずかで自宅というところで、3人の近くでカンポウが炸裂(さくれつ)した ※1。兄は子どもで地面に身を伏せなかったため、爆風で吹き飛ばされて即死した。体に傷はなかったという。母も上腕を破片でけがし、肉ははぎ取られ骨が見えるほどの重傷を負った。姉だけは地面に身を伏せ無傷だった。
知人の男性が兄を自宅近くの畑に葬って下さり、母の傷の救急治療もしてくれた。その後、母と姉は食料を持って戻ってきた。母は父が持っていた消毒液で治療して傷がだんだん良くなり、化膿したり破傷風(はしょうふう)になったりせずに済んだ。

■治療できず父が亡くなる
しめ山も危険になったので、玉城村(現 南城市)船越(ふなこし)の北側の山にあるガマ(自然洞窟)に避難した。ここには飲み水はなく、民家のそばにあった井戸から汲んで来て飲んだ。
ここでもアメリカ軍の接近でカンポウなどの攻撃が激しくなり、危険になってきた。足の不自由な父や小さな子どもを抱えて南部方面に避難することは困難だったし、家族みんな、「死ぬときは一緒に死のう」といつも考えていた。また、これから戦場になる島尻に避難すれば安全というわけではなく、どこにいても死ぬときは死ぬ。そこで、運を天に任せて現地に留まることにした。
ある日、父がタバコを吸いにガマから外に出た。その時カンポウが近くで爆発し、壕入口をふさいでいた木材が爆風で吹き飛ばされ、父の胸に当たった。傷はなかったが、重傷で話すことができなかった。父の胸は大きく膨れ上がり、4、5日後に亡くなった。父が打撲で苦しんでも家族はどうすることもできなかった。ただ見守ることしかできない。こんなに残酷なことはない。平和な時代であれば治療して治せるのに、戦争の時は治療ができず死を待つばかりである。これが戦争の実態である。
父は、話ができないので早く逃げるように手で合図した。「死ぬときは一緒に死のう」と誓い合ってはいたが、短期間に父と兄を失うと避難したくなるし、また父もそれを勧めた。母は今後どうすべきか迷った。ここも攻撃が激しくなり、生き残るために避難したかったが、地理に詳しくなくどこに避難してよいかわからなかった。また、けがをした母と子ども達で激戦地を逃げ回ることは無理だと判断し、現地にとどまざるを得なかった。

■収容所での生活
このガマには2家族10人が隠れていた。父が亡くなった数日後、日系2世のアメリカ兵が日本語で「何もしないから壕から出てきなさい」と投降を呼びかけてきた。私たちは壕から出て捕虜になった。
私たちが収容所に向かう時、今の船越小学校あたりから島尻方面に向けて、裸になったアメリカ兵たちが激しい砲撃をしているのを見た。時期的には6月初旬頃だったと思う。私たちは早く捕虜になったので家族4人が生き延びることができた。もし激戦地の島尻に逃げていたら犠牲者が増えていたかもしれない。
捕虜になって玉城村中山まで歩かされた。初めは公民館、それから民家に収容されて戦後の生活を始めた。ここでは配給(はいきゅう)があり、ひもじい思いをしたことはなかったと思う。中山には前方に田んぼがあり、姉たちは米作りをさせられていた。
私たちはその後、中山から大里村大城に移動し、そこで長い間生活した。大城の集落前にウマイー(馬場(ばば))があり、そこに学校ができた。私たちは「勉強させるから」と集められた。ところが学校とはいうものの、ただ広場があるだけで校舎や教材教具があるわけではない。教師のような人はいたが、勉強どころではなかった。どんな授業を受けたか全く記憶にない。退屈していた子ども達を広場に集めて遊ばせていたのではないか。
当時、婦女子は芋掘りに動員されたが、婦女子がアメリカ兵に襲われる事件が多発した。大城の私たちの自宅は道のそばで、集落から少し離れたところにあった。母子家庭で自宅に帰ることは危険だったし、父を失って生活のめども立たないので、おばさんが住んでいた当間に移動して助けてもらった。私は大里南小学校に通い、卒業するまで当間で暮らしていた。

■遺族の思い
私は沖縄戦で父と2つ上の兄を失った。母は愛する夫と子どもを目の前で失った。その悲しみや辛さは言葉では言い表せないし、同様な体験をした遺族でないとその気持ちを理解するのは不可能だ。母は悲しみをこらえて子ども達を育ててきた。
一度しかない人生を幸せに送りたい。これはすべての人の願いである。この願いを奪うのが戦争である。母も戦争さえなければ幸せな人生を送れたのである。私も戦後は働き手である父を失ったために生活が苦しく、一家を支えるために働かねばならなかった。中学校教育もまともに受けることが出来なかった。戦争は人間の命を奪い、遺族を悲しませ、不幸にすると同時に生活苦で遺族の人生を狂わすものである。
戦争体験者であり遺族である私たちの思いは、「二度と戦争を起こしてはならない」ということである。そのことが、私たちが体験した戦争の苦しみや悲しみを、戦争を知らない世代(子や孫)に経験させない唯一の道だからである。
(呉屋勝正による聞き取り 2009頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。