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桃原美代子(旧姓島袋 昭和4年生まれ 大里・島袋)【キーワード】やんばる避難/収容所

■やんばるへ避難
昭和20年(1945)当時の私の家族は、祖母(カマ)、父(堅助)、母(カナ)、兄の堅吉(21歳)、私(17歳)、弟の堅一(15歳)、堅徳(13歳)、堅盛(9歳)、堅栄(1歳)、妹の文子(11歳)、秀子(7歳)の11人で、兄は出征(しゅっせい)していた。
父は字(あざ)の副区長と書記をしていた。その頃、小さな子どものいる家庭はやんばるの金武村(現 金武町および宜野座村)に疎開(そかい)するように役場から通知があったが、字の人たちは知らない土地に行く事を好まず疎開に応じようとしなかった。そこで父は、わが家から先に疎開してみんなに疎開を勧めるようにした。父は字の仕事があり、私は青年会員なので国の役に立つことがあるかもしれない、祖母と馬の好きな弟の堅徳も馬の世話をするためということで、4人は家に残ることにした。
4月初旬頃、母が堅一、堅盛、堅栄、文子、秀子の5人を連れてやんばるに避難することになった。食料としてイモクズ(芋の澱粉)や黒糖、豚肉の塩漬け(わらむしろで作った袋であるカマスに塩を入れて肉を詰め、それをソウメンの空き箱に入れた)、節約して残していた米なども持っていった。その頃は衣類もあまりなかったので、食料を多めに持って馬車で夜出発して行った。
母達より少し遅れて叔母の家族も避難することになった。私のいとこ達は小さくて5人もいた。私は叔母に、「小さい子ども達をやんばるまで一人では連れて行けないから、一緒についてきて欲しい」と頼まれた。そこで、やんばるまで行って叔母達を置いて帰るつもりで、借りた馬車に一緒に乗った。アメリカ軍に見つからないように夜に出かけた。しかし、やんばるまでの道が壊れてしまっていたため私は帰るに帰れず、金武でみんなと行動を共にすることになった。
私達が並里(なみさと)(現 金武町)の母達のところに着くとすぐ、アメリカ軍が上陸して来たとのことで、みんなで着替えや食料を持って集落の裏山に逃げた。そこは自然壕のような場所で、その入口のところにかたまって座っていた。夜に照明弾(しょうめいだん)があがり、そこが山深い場所であることを知った。
そこで何日か過ごしたが怖さでいっぱいだった。煙が出るとアメリカ軍に見つかるので炊事ができず、食べ物を食べた記憶はない。小さな弟妹やいとこ達は、お腹がすいて泣き疲れて寝るという繰り返しであった。

■石川の収容所へ
ある朝早く、その壕を出てみんなで歩き出した。母が決断したので理由はわからないが、たぶん島尻の家に帰るつもりだったのだと思う。どこそこに行くというあてもなく歩いた。空腹の母は小さな弟をおぶってよろよろ歩いていた。次女の妹と私は荷物を持ち、弟妹や叔母の家族も黙って母の後を付いていった。島尻の方からポンポンと激しく弾の音がしていた。父や祖母、弟は今頃どうしているだろうかと心配しながら島尻を目指して歩いていった。
日が照りつける午後の1時~2時頃、屋嘉(やか)(現 金武町)を歩いていた時に後ろからアメリカ軍のダンプカーがきて、「ドウゾ、ドウゾ」と片言の日本語で乗るように勧められた。乗って良いのかどうかこわかったが、周囲にもアメリカ軍人がたくさんいて、早く早くと急かすので仕方なく乗った。その時に私達は捕虜になり、石川(現 うるま市)という集落に連れていかれた。4月中に捕虜になっているので、やんばるに疎開や避難をした多くの人々より、戦争中の苦労はあまりしていない。
石川には、住んでいた人たちが避難していって空き家になっている家がたくさんあり井戸もあった。捕虜になった人達は空き家で生活ができた。お芋などの食べ物の配給(はいきゅう)もあり、持っていった服を着替えて洗濯することもできた。その後あちこちからたくさんの捕虜が連れてこられ、日増しに人口が増えていった。洗濯や掃除、小さい子達の世話をすることなどが私の日課であった。
しばらく経つと私は仕事を探そうとした。知り合いになった友達に相談すると、彼女は青空教室のようなところで子ども達に教えているということだった。まだ戦争も終わっていない6月頃だったので、石川は沖縄の中でも学校が始まったのが早かったと思う。
私は戦争で人が死んでいくのは見ていない。だが、殺された人を石川の近くの山の裏側に捨てにいったようだ、という話を聞いたことはある。
戦後私達は、石川から大里村の大城に送られた。長い間大城にいて、それから島袋に帰った。

■沖縄戦で犠牲になった家族と母への感謝
私の父は、家の近くの壕でアメリカ軍に殺されたそうだ。家にいた弟と祖母は島尻に逃げた。逃げる途中、糸満の大度(おおど)で祖母が亡くなったので弟は一人ぼっちになった。近くで出会った知り合いを頼って終戦まで戦場を一緒に逃げ回り、捕虜になりやんばるに送られたようだ。ところが不運にもやんばるでマラリアに罹(かか)り弟も亡くなったそうだ。どこに埋められているのか今でも場所が分からない。出征(しゅっせい)していた兄も戦死した。
戦後、母一人で私達きょうだい6人を育ててくれた。女の子は高校まで、男の子は大学まできょうだい全員を学校に出してくれた。私達は頑張る母の後ろ姿を見て、一生懸命手伝いや勉強を頑張った。私は母に感謝している。
(仲原節子による聞き取り 2008~2010頃)