なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

津波古充雄(大正14年生まれ 大里・島袋)【キーワード】本土出稼ぎ/初年兵

■高等科と青年学校
私は小学校の高等科を卒業した後、16歳から18歳くらいまでの間は青年学校に通っていた。私たちの頃までは森に上がっての演習はなく、校内で「気を付け」「前へ進め」など隊列を組んで行軍(こうぐん)の訓練をした。本土の青年学校では本物の銃が全員に渡されていたようだが、沖縄では学校に2、3丁しかなかった。
先輩たちの頃は、小学校は男子が高等科2年卒業、女子が6年卒業がほとんどだった。兵隊に行った人達が「男は兵役につくから高等科2年までは出さないといけない、本土では馬鹿にされるから」と言っていた。女子はよくできても6年までで、高等科に行く人はいなかった。私たちの頃からようやく高等科まで進んでいた。
親たちは子どもに仕事をさせたいので、本当は高等科に行かせたくなかった。私たちも16、17歳からは一人前に仕事をできたし、私は高等科は半分しか通わなかった。

■大牟田で炭鉱労働
私は昭和18年(1943)5月17日に波上祭(ナンミンサイ)を見物に行った時、三井三池炭鉱(たんこう)(現 福岡県・熊本県)への就労の手続きをするとすぐに許可された。
当時まだ18歳だったが、同級生などは長崎県佐世保(させぼ)の軍需工場に徴用(ちょうよう)で引っ張られていた。徴用の場合は強制的にそこの言うままだから、そこに行くよりは炭鉱に行った方がいいと思い、自分で手続きをした。私の親戚も炭鉱で働いていた。
また、炭鉱はたいへんな重労働なので賃金もものすごく高額で、行けばすぐ160円もらえた。普通の徴用の場合は40円前後で、当時の校長先生も80円くらいだった。沖縄でも有名でトップクラスの校長だった照屋ケンチク先生は81円だった。当時の教員の初任給は35円から40円くらいで、教頭が60円くらいだったように記憶している。炭鉱の仕事は、18歳以下は体が持たないとできなかった。そのため1年くらいは電気工業の仕事をして80円の賃金をもらっていた。19歳になってから炭鉱で働いた。採炭はとてもきつかったので労働者が不足していた。
大牟田(おおむた)(現 福岡県大牟田市)には3つの山(炭鉱)があって、私は宮浦で坑夫(こうふ)として働いた。福原の人達は熊本県の境にある山にいた。
3交代制で正味8時間は働いた。寮から通っていたが、炭鉱の現場まで行くのに2時間くらいはかかった。地下にワイヤで降ろし、さらに坑道をトラックで行くので、ゆっくり休む時間はなかった。5、6人でグループを組んでいたので一定の弁当時間もなく、水も持参し、各自手が空き次第食べていて休み時間はなかった。
私の集落からも炭鉱に行った人は多かったが、ほとんど持たなかった。私は9歳くらいの頃から水桶(みずおけ)担ぎの仕事をさせられ、16、7歳頃からはウーザーラウチ(畑の荒起こし)などの荒仕事を集落のお父さん達と一緒に一日中続けてやった。当時、荒起こしは鍬(くわ)でやっていて、スコップを使うのはフニウーラー(怠け者)な人で役に立たないと言われていたため、大里あたりではスコップは使わなかった。スコップは国場(こくば)(現 那覇市)から普及していった。私は鍛えられて頑強に出来ていて、体力があったから難儀な仕事をしても堪えられた。

■福岡で軍に入隊
私の従兄弟たちは佐世保に行っていた。当時は徴兵検査前であれば自由に沖縄に帰ることができたが、戦況が厳しくなって船がなかなか出なかったため、鹿児島県に滞在していた。その時に、すぐ隣の家に住んでいた従兄弟の津波古充ケイから「もう帰るから君のところに行きたい」と手紙が来ていたが、「来てもいい」と返事を送る間に船が出てしまった。彼は沖縄で徴兵検査を受けて兵隊として亡くなった。
私は大里村の兵事主任(へいじしゅにん)から、「海上は危険で敵の潜水艦に攻撃される恐れがある。沖縄に帰って来るまでに間に合わないから、福岡県で徴兵検査を受けるように」という手紙をもらった。私は炭鉱で約1年ほど働いたのち、20歳で徴兵検査を受けた。
私は昭和20年(1945)の正月に検査を受けて、4月10日には入隊した。私の軍隊経験は4ヵ月ばかりで、歩兵だったが戦闘の経験はない。入隊したら木で戦車の模型を造り、敵が上陸して来たら爆薬を抱えてその下に潜り込む訓練をさせられたので、「もう親の顔を見ることは出来ないんだなぁ」と思った。
私たちは福岡の市内に駐屯(ちゅうとん)していたが、入隊してから約2ヵ月ほどで福岡が空襲を受け、焼夷弾(しょういだん)などが落とされて兵舎が焼かれたため、田舎の学校にある練兵場(れんぺいじょう)に移動した。戦争はまだ終わっていなかったので、そこでは兵舎を造るための木や、炊事に使う木を倒す仕事をさせられた。初年兵は14、5人いたが、班長が私の仕事ぶりを見て薪を割る仕事や鎌(かま)を研ぐ仕事に割り当てた。私は仕事で他の人に負けることはなく、本土の人も私にはかなわなかった。他の兵隊たちは買い物や炊事の仕事などいろいろなことをさせられていた。
そこには8月15日の終戦の日までいた。隊は10月か11月に残務処理を済ませてから解散になった。

■終戦後は佐賀、大牟田へ
私は板良敷(いたらしき)(現 与那原町)出身の山城清光という友人と一緒に早く隊を離れた。ヤマモト中隊長に「君たち2人は沖縄に帰れないから、私の家の手伝いをしなさい」と言われ、佐賀県の中隊長の実家に先に行った。田舎の実家は村でもトップクラスの大富豪だった。親も良い人で、ヤマモトシゲノブと言って銅像も建てられていた。そこでは田や畑の仕事や、隣近所の手伝いなどをした。田植えなどの仕事はやり慣れていたので、2人は「仕事がよくできる」と隊長に認められていた。食べ物も豊富で白いご飯があった。家は大きかったが、中隊長が満期で帰ってきた後は4、5ヵ月、彼と一緒に寝起きを共にした。彼はとてもいい人だった。
私は中隊長の家には長くはおらず、大牟田の父の従兄弟のところに行って2、3ヵ月過ごした。軍に入隊する時、その人にお金や道具類も預けていた。
その後、台湾にいた兄が沖縄にすぐに帰れず、私のところに来ることを希望していたので、兄と一緒に別に家を借り、2人で炭鉱で働いた。兄は台湾帰りだったから早く帰ることができたが、私は以前にそこで働いた経験があったのでもう少し長くいた。福原の親戚の男性も一緒に働いていたが、炭鉱の仕事はきついので、15日ほど働いたのちに欽修寮(きんしゅうりょう)※1 に移った。

■沖縄に引き揚げる
本土にいた時に親たちの消息は分かっていて、終戦してからも送金していた。私の家族は誰一人として犠牲にならず、両親と4人の男きょうだい(兄、私、弟2人)、姉1人はみんな無事だった。すぐ下の弟は軍属(ぐんぞく)として台湾に行っていて、両親と一番下の弟、姉は有銘(あるめ)(現 東村)に疎開(そかい)していた。
炭鉱ではお金を稼げるので良かったが、戦争に負けて沖縄はどうなっているか気になり、親たちの顔も見たくて帰ってきた。その頃には、造れる人は各自で家を造っていた。配給のホンダテヤー(規格家(キカクヤー))は4、5軒くらいだったが、私たちには割り当てがなかったので、山原材を寄せ集めるなどして造っていた。当時、働き盛りの若者がいる家庭は島袋区の中で私たちだけだった。
今の教育はあまりに緩くて、厳しさが足りない。私は厳しい経験をしてきたからかもしれないが、今の子ども達は耐え忍ぶということが出来ないように見える。自分の子ども達には、「世の中に出たら仕事が大事である。耐え忍ぶ人になりなさい」と小さい時から言い聞かせてきた。
(知念昌徳による聞き取り 2009)

■脚注
※1 福岡県の春日村(現 春日市)にあった沖縄県民の引揚者寮。本書第二部収録の亀谷長榮「春日村沖縄寮の生活」の中に関連する記述がある。