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與那嶺盛昭(昭和3年生まれ 大里・古堅)【キーワード】陣地構築/勤労奉仕/鉄血勤皇隊/南部避難/収容所

■沖縄戦前夜の古堅
私が第一大里尋常高等小学校(現在の大里北小学校の前身)に通っていた頃は中国との戦争 ※1 に勝っていた時期だった。南京陥落(なんきんかんらく)、漢口(かんこう)陥落、重慶(じゅうけい)陥落などの連絡が那覇から村長を通して各区長に来た晩には、お祝いの提灯(ちょうちん)行列が行われた。赤い提灯にろうそくを灯して持ち、歌を歌いながら集落内を歩き回った。この当時、男性たちは徴兵(ちょうへい)で戦争に行っていたので、提灯行列には婦人会や私たちのような未成年が主に参加していた。
戦前は古堅でも、在郷(ざいごう)軍人会や婦人会が出征(しゅっせい)兵士の見送りなどの活動を行っていた。婦人会の女性たちは、白いエプロンにタスキをかけていた。出征する人がいる時には集落のみんなで見送りをした。「〇〇様 祈武運長久(ぶうんちょうきゅう)」というような内容が書かれたのぼりや小さな日の丸を持って銅鑼鐘(どらがね)を叩き、古堅から軽便(ケービン)鉄道の与那原駅まで歩いて行って、そこからは家族だけで集合場所の桟橋(さんばし)まで見送りをしたという。私は学生だったので見送りに行ったことはないが、両親は参加していた。見送りの際には「勝ってくるぞと 勇ましく」という歌詞の歌が歌われていた。
婦人会の女性たちは、真ん中に「武運長久」と書かれた布に赤い糸を通す「千人針(せんにんばり)」も作っていた。

■開戦の年に一中に入学
私は小学校を卒業後、昭和16年(1941)に首里の沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校の前身。以下、一中(いっちゅう))に入学した。一中へは徒歩で通学していた。当時のバスは小型で一般の人を優先させていたので、体の弱い学生でないとバスには乗れなかった。現在の南風原町の宮城、大名(おおな)、那覇市首里の大角座(ウフカクザ)を通り、1時間半歩いて通った。入学の年の12月8日に真珠湾(しんじゅわん)攻撃があり、アメリカとの戦争が始まった。
一中卒業後の進路の第一希望は陸軍士官(しかん)学校、第二希望は海軍兵学校に入ることだった。海軍兵学校が一番花形のエリートで、沖縄から1年に1人入れるかどうかだった。
私が小学5、6年生の頃、海軍兵学校に入学した大里村福原出身の照屋セイチョウさんという人が、夏休みに帰省した際に学校で講演したのをよく覚えている。彼は体は大きくないが頭がシャープな人で、制服で軍帽をかぶり、小さな短剣を身に着けていた。
一中の3年生になった頃からは、3~5年生の中から、特攻隊の養成所である予科練(よかれん)に行く学生もいた。死ぬのが怖いという思いはなく、男に生まれたのだから国のために死ぬこと、「天皇陛下万歳」と言うことは当然だった。
昭和18年か19年には、熊本県出身の篠原中尉(ちゅうい)が教官として一中に赴任してきた。彼は甲種幹部候補生(こうしゅかんぶこうほせい)となり沖縄に配属されてきたらしい。当時25、6歳で若く、非常に活発で優秀な人だった。

■勤労奉仕(きんろうほうし)で陣地構築
一中3年生の頃からは授業が週3日ほどに減り、勤労奉仕に動員されるようになった。読谷飛行場の建設では、軍から「学校から何十人学生を出しなさい」という命令があり、2クラスほど一緒に約2週間、泊まり込みで作業した。嘉手納駅までは軽便鉄道で行き、そこからは迎えに来た軍のトラックに乗って、宿泊先の読谷山(ユンタンザ)国民学校まで行った。作業はモッコに土を入れて運び、大きい広っぱに飛行場を造るというもので大変だった。食事は芋とご飯を混ぜたもの(芋が多くてご飯はまばらにしか入っていなかった)とフーチバー汁だった。豚にあげるような食事だったが、戦時中なので仕方がなく、腹が満たされればいいという思いで食べていた。
その後那覇飛行場の作業にも行ったが、そこへは弁当を持って軽便鉄道で通っていた。大里駅から16銭(せん)で列車に乗り(与那原駅から乗ったら18銭だった)、明治橋(現 那覇市。当時は砂利の橋で、北明治橋、南明治橋があった)を歩き、ガジャンビラを通って飛行場に行った。そこでは飛行機を隠す掩体壕(えんたいごう)を造った。当時の物価は、そば5銭、映画が10銭ほどだったので、汽車賃の16銭というのは大きかった。そのため帰りの那覇駅では、その隣の古波蔵(こはぐら)駅までの切符(2銭か3銭ほどだった)を買って乗り、大里駅のカーブで列車がゆっくり進むときに飛び降りて、すぐにススキの中に隠れた。戦後、この作業には軍から給料が出ていたが行政がそれをせしめていたと聞いた。自分で汽車賃を払い、弁当を持って奉仕作業をしていたということになるので頭にきた。
那覇飛行場の次は、現在の東町(那覇市)の向こうにある桟橋での作業だった。ガソリンの入ったドラム缶を宜野湾あたりまで隠しに行った。また、南方からの輸送船から降ろされたボーキサイト(飛行機の材料になるジュラルミンの原料)を移動する作業もした。桟橋には20人ほど、朝鮮から来た軍属(ぐんぞく)の男性たちがいた。彼らは20代後半くらいで、皆体格がよく一生懸命作業していたが、日本の兵隊に監督され、だらだらした人はすぐ鞭(むち)で殴られていた。その時の有名な朝鮮人の合言葉は、「朝鮮朝鮮ばかすな」、「天皇陛下一つ」だった。生半可(なまはんか)な日本語ではあったが、天皇陛下の下の同じ臣民(しんみん)なのになぜ馬鹿にするのか、ということだった。朝鮮人は牛、馬のようにひどい扱いを受けていた。

■昼勤・夜勤で第三十二軍司令部壕を構築
昭和19年(1944)から沖縄に配備された第三十二軍の牛島満(うしじまみつる)司令官と長 勇(ちょういさむ)参謀長は、護衛(ごえい)の兵隊さんと一緒に中城御殿(なかぐすくウドゥン)に宿泊していた。現在の沖縄県立芸術大学の方に第三十二軍の事務所があったので、朝、彼らが龍潭(りゅうたん)を通り、十字路を曲がって事務所に行く時に、月に1、2度、登校時に行き合った。彼らが来る時には道に並んで敬礼をした。牛島司令官は、大柄の長参謀長と並ぶと小柄に見えたが、非常に威厳があった。黒いひげを生やし長いブーツを履いて日本刀を持っていたが、私たちを見ると「おはよう」と非常にニコニコしていた。
昭和19年の1学期までは授業が行われていたと思うが、2学期からは学校の校舎に兵隊が入っていたためまったく授業ができず、壕掘りの日々だった。一中生は第三十二軍司令部の壕を半年ほどかけて掘ったが非常に大変な作業だった。A班・B班に分かれ、A班は現在の園比屋武御嶽(そのひゃんウタキ)のコンクリートの入口側から、私がいたB班は現在の沖縄県立芸術大学(首里金城キャンパス)の駐車場から下りていった場所から、兵隊さんと一緒に昼勤、夜勤で掘っていた。両側から壕を掘り進め、お互いにだんだん近づいてくると、つるはしのゴンゴンという音が聞こえ、貫通した時にはみんなで万歳した。いまは石垣で閉じられているが、現在の一中健児之塔の裏に小さな壕があり、そこが宿泊壕として使われていた。

■ナカガワ中隊の駐屯
古堅には暁(あかつき)部隊のナカガワ中隊(主に壕掘りをしていた)が2、30人ほど駐屯していた。彼らは、集落の中でも瓦葺(かわらぶき)の大きな家数軒にいた。大里村長をした嶺井定之さんの実家にはナカガワ隊長が宿泊していた。公民館は当時茅葺(かやぶき)だったので、そこには駐屯していなかった。
私の家も赤瓦屋(アカガワラヤー)で大きかったため、上の6畳の部屋を事務所として貸していて、10人ほどの兵隊が出入りしていた。その中に奈良県出身の伍長(ごちょう)と、三重県出身のカタヤマさんという兵士がいたことを覚えている。カタヤマさんは非常に丁重な言葉遣いをする人で、一度私たちのところに来ておしゃべりをしたことがある。
兵隊さんたちは24、5歳と若く非常に親切な方々で、住民ともよく交流していた。部隊の食事は軍から提供されていたが、婦人会では毎週共同作業でゆし豆腐やおしるこを作り、部隊に差し入れしていた。うちの母は自分の家の豆腐を作る際も、家にいた兵隊さんたちにゆし豆腐やおからをあげていた。演芸会の際には集落にいる生徒も呼ばれて一緒にお酒などを汲んでいた。

■通学中に十・十空襲を目撃
昭和19年(1944)10月10日の朝8時前後だったか、登校中に大角座でアメリカの飛行機を見た。初めは日本の飛行機だと思い、「こんなに早く演習するんだな」と思っていた。近づいてみるとアメリカの星のマークが見えたので米軍機だとわかった。それから空襲が始まったが、首里への空爆はまだだったので、とりあえず学校まで行った。校舎の2階から、那覇港がボンボン空爆されているのが見えた。先生方から「空襲が始まったから家に帰れ」と言われ、古堅の自宅に帰った。
この十・十空襲の際、日本軍の攻撃により墜落した米軍機からパラシュートで識名(現那覇市)付近に降りてきたアメリカのパイロットが、日本兵に捕獲されたという話ものちに聞いた。このアメリカ兵は、以前の県立博物館があった、首里の琉球王朝時代の大きな住宅に監禁されていたらしい。

■箝口令(かんこうれい)が敷かれていた列車爆発事故
昭和19年12月11日に神里(かみざと)(現 南風原町)付近で県営鉄道の列車が爆発 ※2 したことは、当日帰宅してから聞いた。軍が使用していた列車が爆発したため箝口令が敷かれていて、ラジオなどでもまったく報じられなかった。母が入っていた婦人会やあちこちからの風の便りで、「稲嶺方面で爆発があったよ」「死者も出たよ」という情報が入ってきた。

■葬式のような卒業式
昭和20年(1945)3月23日頃にアメリカ軍の空襲や艦砲射撃(かんぽうしゃげき)が始まり、27日の夜、4年生と5年生の卒業式が行われた(4年生は繰り上げ卒業させられた)。日中は空襲や艦砲射撃が激しく、また本来の会場である講堂には兵隊が入り込んでいたため、夜間に現在の養秀(ようしゅう)会館の下の、弓道場のある広場の方でローソクを灯して開催された。まるで葬式のような卒業式だったと思う。本当なら生徒が300~400人ほどいたはずだが、この時は、昼勤・夜勤の壕掘りのため養秀寮(一中の寄宿舎(きしゅくしゃ))にいた生徒と、首里あたりの生徒の約100人のみが出席した。卒業式には藤野校長(非常に軍国主義の校長だった)と、県の職員と軍の偉い人たちが2、3人ずつ来ていた。

■遺書を書く
卒業式の翌日、軍服と靴などを支給され、鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)の部隊に配属された。「どこどこの部隊に配置が決まったから」という指令があった。部隊に配置される前には教官や担当の先生が来て、両親あてに遺書を書かされた。「『もう勤皇隊行きますから』と書きなさい」と言われ紙切れに書いて、本当に戦争に行くような感じで、毛髪と爪と一緒に封筒に入れた。

■発熱のため帰宅
部隊に配属される前、首里城の下の第三十二軍司令部壕を昼勤、夜勤で交代しながら掘っていた。私はその疲れと食べ物の不足(当時の食事は芋と米の混ぜご飯だった)のため、卒業式の翌々日頃に熱を出してしまい、養秀寮で寝ていた。そこに篠原教官が巡回に来たので、飛び起きて「すみません。頭が痛く、熱が出てもう作業できません」と伝えたところ、教官から「そうか、家に帰って静養しなさい。2週間くらいして治ったら部隊に戻ってきなさい」と言われた。
帰宅途中、現在の一中健児之塔の裏にあった小さな壕で与那原出身の阿嘉正行(まさゆき)くんという同級生がうずくまっていた。彼も風邪をひいて熱が出て、声が出なくなっていた。教官にお願いして許可を得て、2人で一緒に帰ることになった。学校を出て当蔵(とうのくら)を通り、大角座で彼と別れた。現在の沖縄県立南部医療センター・こども医療センターの近辺に阿嘉くんの母や親せきがいるだろうとのことだった。そこで「じゃあ元気でね」と別れたきり、彼がどこに行ったかわからない。私は大角座から坂道を降り、新川(現南風原町)のナゲーラ壕のところの道(新道)(ミーミチ)を通って大里に帰った。

■勤皇隊に戻ることを止められる
わが家では姉(戸子(ふさこ))、妹(和子(かずこ))、弟(正秀(まさひで))が宮崎県へ一般疎開し、母と末の弟は金武(きん)に行っていた。金武までは、荷馬車を持っていた父が送ったらしい。父は家に豚や山羊がいるので戻ってきたが、金武から泡瀬(あわせ)(現 沖縄市)に行く途中の橋が壊れていて馬車が通れなかったため、馬だけ連れて帰ってきていた。次兄(大正11年生)はもともと佐世保(させぼ)(長崎県)の軍需工場に行っていたが、昭和19年に沖縄に帰ってきて徴兵検査を受け、防衛隊に召集(しょうしゅう)されていた。
帰宅後、私の熱はすぐに下がった。勤皇隊に戻ろうとしたが、父に「部隊はどこに行っているかわからん」と止められた。古堅のミーミンメーをする広場の裏の山手に造っていた立派な壕に親戚たちが入っていたので、空襲がある時は父とそこに行った。夜には家で炊事や家畜の世話をしていた。

■真境名のお墓へ避難
壕には約2週間ほどいたと思うが、与那原あたりでも空襲が激しくなってきた頃に、「もうここにはいられない」ということで親戚たちと一緒に真境名(まじきな)に行った。真境名に行くとうちのおじいの友達がいて、彼が「むこうの墓が空いているはずだ」と言って案内してくれた墓(真境名集落の裏の畑のそばにあった)に、その主のおばあさんがいた。彼女が「ワッタータンメー ナマ ンマンカイチョーンドー(うちのおじいさんの骨がまだ洗骨(せんこつ)※3 せずに墓の中にある)」と言ったので、うちの父たちが「私たちが立派に片づけますよ」と言った。父、おじ、私、いとこらと一緒に墓から棺箱(かんばこ)を出し(亡くなって5、6年以上は経っていたようで箱もぼろぼろになっていた)、水を汲んできて立派に洗骨してお墓に納め、私たちも墓の中に避難した。ここには4月中旬ごろに来て、海軍記念日の5月27日まではいた。

■玉城村へ避難
海軍記念日の頃ぐらいから自動小銃の音がピューンピューンと聞こえてきたので、真境名の墓を出て、現在の養鶏場がある長堂あたりを通って玉城村(現 南城市)の喜良原(きらばる)に行った。この時、爆弾の破片が飛んできて跳ね返り、私のふくらはぎに当たった。幸い骨まで届かず、父がタオルをちぎって止血してくれて、かすり傷で助かった。
喜良原では砂糖小屋の薪置き場に一晩ぐらいいて雨をしのぎ、その後山原山(ヤンバルヤマー)へ行った。当時の山原山には竹がこんもりと生えていたので飛行機から身を隠せると思い、1日か2日ほどいた。しかし雨が降るため、そこから山手の方に行ったところに空いている民家を見つけ、そこに移動した。

■親慶原から新里まで弾運び
この時、竹やりを持った日本兵が「若い連中はいないか」と来て、私といとこ(彼は私と同年生まれだが、12月生まれなので防衛隊への召集をまぬがれていた。同年生でも1~3月生まれの人は防衛隊に召集された)に「君たち来なさい、兵隊に奉仕作業をしなさい」と言って強制的に引っ張って行った。現在のチャーリーレストラン(親慶原(おやけばる))の向かいあたりにある壕に連れて行かれ、そこにあった砲弾を佐敷村(現 南城市)の新里あたりまで運ぶ作業を一晩させられた。砲弾は重くて大変で、向こうの海にはアメリカの軍艦がいっぱいいた。

■三叉路での口論と置き去りにされた女の子
弾運びを終え、新里坂(ビラ)を上って、父たちのいる山原山に戻った。雨が降っていたし、飛行機も来なかったのでそこに3日ほど滞在した。その後山を下りて三叉路で、左に行くか右に行くかで口論になった。父とおじは、知念半島が非戦闘地区になっているという情報をどこからか得ていたようで、左(玉城村百名(ひゃくな)方面)に向かった方が良いと言った。だが私といとこは、知念半島はアメリカ軍が来てすぐに殺されると思っていたので、右(現在の八重瀬町の具志頭(ぐしちゃん)方面)に行くことを主張した。結局父たちは私たちに負けて、みんなで具志頭方面に向かうことになった。ここが運命の分かれ目だった。
この三叉路で今でも頭に残っているのは、3歳くらいの女の子が置き去りにされて、そばの石をつかんで泣いていたことだ。私たちも逃げるのに精いっぱいだったから、一緒に連れて行くことができなかった。このことが1番印象に残っている。

■泥道のなか安里まで避難
それから玉城村堀川(ほりかわ)を通って具志頭村港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)へ行った。港川に行く橋が壊されていたので、幅50センチメートルほどの板橋をゆっくりゆっくり歩いて渡った。ずっと歩き通しで長毛(ながもう)、字具志頭、現在の三叉路がある道を行き、安里(現 八重瀬町)で1泊した。安里には避難民がいっぱいいて民家の母屋(おもや)には入れず、牛小屋に泊まった。
この頃は飛行機があまり来なかったため昼に移動していたが、雨が降っていたため具志頭から安里までの道は泥んこ道で大変だった。中南部からも具志頭に向かって避難する人々がたくさんいて、負傷した日本兵も5、6人いたが、松葉杖がないので、棒をつかんでゆっくり歩いていた。具志頭の三叉路の樋川には水が湧いていて、ここで初めて日本兵が死んでいるのを見た。水を飲みに来ていたのだと思う。
牛小屋に泊まった翌日の昼頃、出発前におばさん達がご飯を炊いて、おかずはないが味噌を持っていたので味噌おにぎりを作って食べようとしていた時、牛小屋のわずか2、3メートルそばにカンポウ ※4 がボーンと落ちた。牛小屋の壁は土と石を混ぜて作られていたので、その土砂や石ころが全部飛んできて、ご飯を炊いた釜もみんなゴミだらけになった。おじさんの頭や私にも石ころが当たったが、牛小屋の壁のおかげで助かった。

■いとこの兄と今生の別れ
その後いとこの兄(糸満の国民学校で教員をしていた)が、糸満出身の妻の家のおじいおばあを探すということで1人で出て行ってしまった。父たちが「今から行っても探せないよ、行かない方が良いよ」と止めたが、「見つからなかったらすぐ帰って来るから」と言い、貴重品の入ったかばんだけを持ち、着替えの入ったリュックサックは置いて出て行ってしまった。彼の家族は大分県に疎開(そかい)していて単身だったので、糸満に残したおじいおばあが気になっていたのだと思う。彼はその後行方不明になってしまった。

■摩文仁(まぶに)で同級生と再会
その後私たちは、現在の沖縄少年院・沖縄女子学園(糸満市真栄平(まえひら))のところの十字路から真壁(まかべ)・新垣(あらかき)方面に行こうとしたが、その方向から沖縄の人たちが逃げてきて「向こうも弾が激しいから行けないよー」と言うので、後戻りして摩文仁に向かった。現在の平和祈念公園の向かいの摩文仁集落の裏の松林に行き、3日ほどいた。6月の15日頃になっていたかと思う。
この時、水がないので現在の平和祈念公園の上の方にある森の下にあった共同池で水を汲んで炊事や洗濯をした。どぶ水で、ご飯を炊いたら赤い土が残っていた。よくも下痢をしなかったものだと思う。
2日目に水を汲みに行った際、工業鉄血勤皇隊 ※5 に動員されていた大里村出身の同級生2人が私を待っていた。彼らは同級生から、私がここにいるのを聞いていたようだった。彼らは部隊と一緒だったので軍服を着ていた(私は学生服を着ていた)。「元気か?」と言葉を交わし、水を汲んだのち、「じゃあ元気でねー」と言って別れた。彼らとはそこで別れたきりになった。

■ギーザバンタでおじと日本兵が亡くなる
6月17日頃だったと思うが、10機ほどのグラマン機が、第三十二軍の牛島司令官がいた摩文仁の丘陵をボンボン攻撃した。それまでそこは木がたくさん生えてこんもりとしていたが、午前中ではげ山になってしまった。牛島司令官はのちに自決し、勤皇隊の学徒たちも大勢ここで亡くなっている。それを見て、私たちも現在の沖縄平和祈念堂の向こうからギーザバンタ(現八重瀬町)に下りて行った。
この頃からは後ろからも海からも弾が飛んでくるので大変だった。ギーザバンタに下りるとアメリカ軍の戦車も来て、火炎放射器(かえんほうしゃき)で壕を焼いていた。
6月19日か20日頃、洞穴に避難しようとし、私と父、おじでアダンの根っこを鎌(かま)で刈ったりして掃除していた時に若い日本兵が2人来て、「ここは軍が使うからあんたたちは出ていけ」と言った。おじが鎌を持ちながら怒って「今頃何を言うか!日本の兵隊が使う?そんな馬鹿な話!あんたたちはあっち行きなさい!」と言った。親と子のような年齢差でもあったから兵隊たちはしぶしぶ帰ったのだが、彼らはその後近辺でご飯を炊いていて、その煙がアメリカ軍に見つかり、艦砲弾が1発飛んで来た。アメリカ軍の艦船はすぐ近くにあった。この艦砲弾は岩に当たり、その破片がおじの頭に当たって、おじは即死してしまった。
おじが亡くなった後、そこからギーザバンタの波打ち際に一番近いところに移動した。波打ち際にはサンゴ礁がたくさんあるので、隠れるところが多かった。ここで2人の日本兵に出会った。1人は佐川上等兵という方で、一晩私たちの壕に来て、「福島県出身で満州から支那(しな)に行き、そこから沖縄に来たんですよ」と身の上話をしていた。そして「おじさんたちは沖縄の方だから、戦争終わったら元気で帰れるはずだから、できたらうちの家内に今日のことなどを伝言してくれ」と言い、印鑑と写真、万年筆などをすべて父に託した。その晩、佐川上等兵は斬り込みに行ったが、「港川方面は満潮で渡れなかった」と言って、泳いでずぶ濡れになってまた私たちのところに帰ってきた。彼は疲れて寝転んでいたところ、艦砲弾が1発飛んできてバーンとやられてしまった。私たちは彼をちょっとしたくぼみに仮埋葬(まいそう)し、「戦争が終わったら迎えに来るからね」とそこを離れた。佐川さんが亡くなったのは22日のことで、翌日の23日、私たちは捕虜になった。

■収容所に入り込んで捕虜になる
捕虜になる4、5日前から、アメリカ軍の船から日系2世の兵士がスピーカーで、「もう戦(イクサ)も終わりました、港川にたくさん沖縄の人が集まっているから、港川に来てください」と日本語で呼びかけていた。でも私たちはそれを信用せず、崖っぷちを上って行って安里あたりに行った。ススキの中をネズミが行くようにゆっくりゆっくり進んで行くと、前方でアメリカ兵が半裸体でテントを建てているのが見えた。アメリカ兵は気づいていたかもしれないが何もせず、私たちは「このまま行けば大里に戻れるかもしれない」と思ってまたゆっくりススキの中を進み、丘を登って下りると避難民5、60人ぐらいが捕虜になって集められていた。私たちはそこに偶然入り込んで捕虜になった。
そこでおばさんたち、おじさんたちと父、私といとこはばらばらに離されて尋問(じんもん)が始まった。私といとこが軍人じゃないかということでだいぶ尋問された。アメリカ兵3、4人が自動小銃をかまえ、通訳兵(あとから県系2世だと聞いた)から「学校はどこだった?一中だったら2年生からみんな勤皇隊だろう?なんで勤皇隊に行かなかった?」とたくさん質問された。この時はとんち勝負で、「私は3年生で、肋膜(ろくまく)を患って勤皇隊に行かなかった」と嘘をつき、「後でばれるとやられるよ?」と追及されたが、うそをつき通した。その時かばんの中に卒業証書(日系2世は漢字を読めなかったと思う)、写真(家族や兄の写真をまとめて持っていた)、バリカンを持っていたが、詳細には検査されなかった。その後、「CIVILIAN(民間人)」、名前、学校名、「STUDENT(学生)」と書かれた札を身分証明書のようにして首からかけられた。
尋問のあと家族と一緒になり、その日のうちに具志頭集落の仮収容所まで歩かされた。そこに着くとすぐ、持っていた卒業証書を破って石垣の方に捨てた。今となっては子どもだな、馬鹿だなと思うが、当時は「これがあると勤皇隊に入っていたことがばれる」と思い、破り捨てた。
この仮収容所ではアメリカ兵に「Come on, come on!」と呼ばれ、衛生兵の手伝いをさせられた。南部からトロッコに乗せられてきた負傷者をトロッコから降ろして運ぶ作業を手伝った。運ばれてきた人たちのけがの箇所には虫が湧いていたし、頭はシラミでいっぱいだったので、頭から足までDDTで消毒していた。また、亡くなった人を担架で運び、穴を掘って作った仮埋葬所に埋める作業もした。1日で5、6人運んだと思う。

■下田と百名の収容所へ
翌日の24日、具志頭から港川、玉城村當山(とうやま)を通って百名の収容所まで歩かされた。百名収容所にはすぐには入れなかったが、父の親戚が下田(しもだ)にいたので、班長に「親戚だからお願いできませんか」と掛け合い、そこに入ることができた。民家は残っていたが避難民でいっぱいだったので入れず、茅(かや)で作った仮小屋に入った。
7月頃、16歳以上の男性に兵隊だったかどうかを問う尋問が再び行われた。現在の百名小学校がある場所は当時畑だったが、そこを有刺鉄線(ゆうしてっせん)で囲んでテントを張り、その中に2週間ほど収容された。
この時も幸い一中の先生がいて、「彼はうちの学校の生徒だが勤皇隊じゃないよ」と言ってくれて助かった。ここで兵隊や防衛隊、勤皇隊だと判明した人は、PWとして屋嘉(やか)(現 金武町)やハワイの捕虜収容所に送られた。
百名にいた時は水が悪くて下痢をし、家族からの差し入れを受け取ることはできたが面会はできなかった。そこを2週間ほどで出てからようやく生活らしい生活ができた。
百名には大きな病院もあった。百名で治療できない患者はコザ(現 沖縄市)に送られていた。

■知念高校や小学校の設立
下田にいた時、昔の学校の先生方が集まって知念高校の設立会議が始まった。ちょうど親慶原(おやけばる)の方にアメリカの兵舎だった建物(鉄筋造りだった)が残っていたので、そこを校舎として使っていた。
私のいとこは戦前に一中の教員をしており、その後この知念高校で働いていた。だが糖尿病を患っており、百名の病院では治療できなくてコザの病院に転院し、そこで亡くなってしまった。
百名、知念村(現 南城市)の志喜屋(しきや)、山里(やまざと)、具志堅(ぐしけん)、知念など避難民がたくさんいた集落では、子どもたちも多いため学校を作ることになった。下田にも学校ができ、先生が足りなかったため代用教員になることを頼まれた。軍作業に行くよりは教員をした方がいいと思い引き受けた。

■工業の学校を出て大里村で復興作業
下田で代用教員をしたのち、玉城村船越(ふなこし)の区事務所で働いた。そこで役所から推薦されて、具志川村田場(たば)(現 うるま市)に出来ていた工業の専門学校に行った。そこでアメリカのテント宿舎に滞在しながら半年ほど学んだ後、大里村に帰ったが、古堅には入域規制があってまだ入れなかったので大城に滞在していた。
大城にいた頃は、目取真(めどるま)にできた小学校の手伝いをした。金武の中川(なかがわ)の収容所にいた母と末の弟も大城に帰ってきて、家族が再会できた。大城では赤いヘルメットをかぶったCP(巡査)が数十人の避難民を朝から引率して、当間(とうま)や古堅などに野菜を取りに行き、晩に帰って来ていた。
入ることのできなかった大里の各集落がどのようにして開放されていったのかは覚えていないが、古堅にはだいぶ落ち着いてから帰ってきた。
家が焼けていたので、初めは牛小屋のような茅葺(かやぶき)の掘立(ほったて)小屋を作り、雨漏りをしなければいいという思いで住んでいた。かまどがなかったので、石を3つ置いた上に鍋を置いていた。マッチもなく、母は朽ちた木を木炭代わりにしていた。明るいうちに火をおこして炊事をしたら、一晩中火を残して翌日も使えるようにしていた。カンテラ(携帯用の石油ランプ)や石油もなく、機械用のモービル油を使って天ぷらを作ったこともあった。のちに家族が多い家庭から優先的に、トゥーバイフォー(2×4)の規格家(キカクヤー)が配給された。
大里北小学校を造ったのも私たちだが、材料がないためやんばるまで買いに行った。当時は銀行がなかったため、PTAが集めた数百円分のB円を管理するよう校長に言われ、集まったB円を風呂敷に包み、自宅の豆を入れる甕(かめ)に入れて保管した。お金の出し入れがあるたびに「いつ、何百円」と管理しないといけないため大変だった。また、同僚の女性の先生は、ハワイ帰りの2世で英語が堪能(たんのう)だった。トラックを借りて那覇の久茂地(くもじ)の物資集積所に行ったときは、彼女がアメリカ軍と交渉してトラックいっぱいの物資を無償でもらってきてくれた。彼女は学校のために相当がんばってくれた。
1番困ったのはお米の配給だった。農家でない家にはお米の配給がたくさんあったが、私たちのように農業をしている家には、芋があるからといってお米の配給が少なかった。
(事務局による聞き取り 2017)

■脚注
※1 日中戦争(1937~45年)
※2 山部隊(第二十四師団)の兵士と弾薬、女学生や中学生らを含む民間人を乗せた列車が爆発した事故。列車に積んでいたガソリンのドラム缶に機関室からの火の粉が引火したのが爆発の原因で、その後、列車に搭載していた弾薬や、事故現場周辺に集積されていた球部隊の弾薬にも引火し、あたり一面が火の海になったという。兵士、学生、県営鉄道職員数人が亡くなり、負傷者も多数という大惨事になった。
※3 遺体を洞窟や墓の中に置き、数年後残った遺骨を厨子(甕)に納める沖縄の伝統的な葬法。
※4 沖縄戦体験者の語りの中で、アメリカ軍による空襲や艦砲射撃が「カンポウ」と表現されることがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。
※5 沖縄県立工業学校(現在の沖縄県立沖縄工業高等学校の前身)の学徒で編成された鉄血勤皇隊。