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上原富(旧姓新里 大正10年生まれ 大里・古堅)【キーワード】陣地構築/南部避難/収容所

■陣地構築や炊事で軍を手伝う
昭和19年(1944)頃は、父、義母、妹(三女)、弟(三男)、私(長女)の5人が古堅(ふるげん)で一緒に生活していた。長兄は県の獣医、次兄は高嶺(たかみね)(現 糸満市)の巡査をしていた。妹(次女)は高嶺の人と結婚して子どもが1人いた。
私は23歳で字の青年会の副会長をしていたので、西原飛行場の整備作業や、南風原村(現 南風原町)の陸軍病院の壕掘りの時の土運び、古堅の裏山の壕掘りや、壕掘りの兵隊さん達の炊事の手伝いなどもしていた。

■沖縄戦の始まりと南部への避難
昭和20年(1945)、集落の人々が自分達の壕に避難した後に、アメリカ軍によって古堅のほとんどの家が焼かれた。
ある日、上与那原(うえよなばる)の親戚のおじいさんと娘さんが急いで私達の壕に逃げて来た。「アメリカ軍は上与那原まで来ている」とのことであった。そこで、私達家族5人も親戚の方達と一緒に具志頭村(現 八重瀬町)に避難することにした。急いで荷物(砂糖一斗缶、米、味噌、豚脂、着替え、毛布、消毒用の石油等)をまとめて夜出発した。
避難途中、場所はどこだか分からないが、カンポウ ※1 が落とされて道が壊れ、たくさんの人が死んで転がっていた。私はびっくりして、肩に担いでいた荷物を落としてしまった。暗くて恐くて、「後ろからアメリカの兵隊が来る」と聞き、落とした荷物を拾う勇気もなくそのまま岩陰に隠れた。私の荷物に家族の食料が入っていたので、私達の食べ物のほとんどが無くなった。
具志頭村では、私と妹と親戚の娘さんの3人を日本兵の炊事係として使ってもらえたので、家族にもご飯が与えられた。だが10日ほど経った頃、軍が移動することになったので私達は軍から離れた。
その後、具志頭で親戚のおじいさんと娘さん、私の3人で芋掘りに行ったが、芋を掘ろうとしたら弾が飛んできた。娘さんと私は伏せの姿勢をしたが、おじいさんは伏せを知らず立ったままだったので、弾に当たって亡くなった。近くに穴を掘って葬った(戦後に探したが遺骨は見つからなかった)。

■頭のない赤ちゃんを抱いていたお母さん
そこから高嶺の駐在所の巡査をしていた次兄を訪ねたが、兄はいなかった。そこで近くの山羊小屋に一晩泊まった。
その後、真壁(まかべ)・新垣(あらかき)・真栄平(まえひら)(現 糸満市)へ夜になると移動し、昼は岩陰や木の下に身を潜めていた。照明弾が上がると頭から毛布を被って火の粉をはらった。
忘れられないのは、新垣で私達がいた隣の家に爆弾が落ち、たくさんの人が爆風で吹き飛ばされて亡くなったことである。頭のない赤ちゃんを抱いていたお母さんは可哀想だった。
真栄里(まえざと)(現 糸満市)を夜歩いていた時、妹の知り合いの兵隊さんに会った。食べ物を持っていない私達にウムクジ(さつまいもの澱粉)と黒糖を分けてくれ、岩陰に一晩泊めてくれた。喜屋武に行く前に束辺名(つかへな)(現 糸満市)という所に行くように教えられた。
束辺名でも岩陰や山羊小屋など転々と泊まる所を変えた。食べ物がないので燃え残りのサトウキビを拾い、その苦い汁を吸って飢えをしのいだ。

■後方を確認しながら捕虜になる
古堅から出て、5月の末頃までに喜屋武(きゃん)岬(現 糸満市)の海岸まで行った。岬の周辺の海はアメリカ軍の軍艦にびっしり囲まれていて、もう逃げるところがなかった。アメリカ軍は、私達がアダンの繁みに隠れているのを低空飛行で上から見ていたが弾は落とさなかった。もはや今日までの命だと思った。その時、「結婚していたら、子どもができてやんばるに疎開をして命は助かっていただろう」と思い、結婚しなかった事を一瞬後悔した。
近くにいた古堅の友達が、「昼に手を挙げて出たら撃たれないらしいから手を挙げてここを出よう」と誘った。恐かったが友達に勇気づけられて、皆でアダンの繁みから出ることを決めた。その頃は、捕虜になろうとしたら日本軍の兵隊さんに後ろから撃たれるので、後方を確認してアダンの繁みから手を挙げて出た。
糸満まで歩いて行き、そこから豊見城村の伊良波(いらは)(現 豊見城市)に集められ、けがをしている人と健康な人を分けて収容された。そこではアメリカ軍が缶詰やお菓子などを投げ与えていた。皆飢えていたので、大人も子どももそれらを奪い合って食べた。
翌日、アメリカ軍のトラックで宜野座村のスーキカンナ(惣慶・漢那)に連れて行かれた。そこにはテントがあるだけで、木の枝を折って下に敷き、その上に寝るという生活が10日ぐらい続いた。1日に1人米2合と少しの豆の配給(はいきゅう)があり、お粥にして3食食べるのがやっとだった。ヨモギやカズラなどもほとんどなかった。スーキカンナでは、親戚の子がマラリアでなくなった。
その後、久志(くし)村(現 名護市)で次兄に会った。久志村の知り合いの家の炊事場に10人ぐらいで入って寝ることが出来た時にはほっと安心した。久志村には3ヵ月ぐらいいた。

■戦争はもうこりごりだ
久志村からはトラックで大里村の目取真(めどるま)に送られた。そこには10日ぐらいいて、その後、大城に移動して長くいた。大城ではカズラもたくさんあって、カズラの葉をウブシーにして腹一杯食べた。とても美味しいと感じた。
古堅には昭和21年(1946)の7月か8月頃に帰った。みんなの共同で家造りや集落の整備に取り組んだ。トウガンやカボチャ、サツマイモなどが自然に生えて実をつけていたので、共同で収穫して分け合った。
わが家では、長兄がどこで戦死したか分からない。結婚した妹も、壕の中で赤ちゃんが泣いたので皆に迷惑がかからないように子どもを抱き、姑と一緒に壕から出たところを弾に撃たれて亡くなったようだ。古堅はどの家庭にも1、2人戦死者がいる。戦争はもうこりごりである。
(仲原節子による聞き取り 2008~2010頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、アメリカ軍による空襲や艦砲射撃が「カンポウ」と表現されることがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。