■首里の沖縄県立工業学校まで歩いて通学
私は尋常高等小学校を卒業後、首里にあった沖縄県立工業学校(現在の沖縄県立沖縄工業高等学校の前身)に3年間通った。その時代は泥道だったが、宮城や大名(おおな)(現 南風原町)の坂道を通り、雨の日も風の日も、天気が悪い時にはマントをかぶって歩いて通学した。佐敷や与那原の学生たちも徒歩で通学していた。
■名古屋の陸軍造兵廠で弾薬づくり
工業学校を卒業後、工業学校の卒業生4人(私と、本部・小禄・佐敷の出身者だった)が抜擢され、強制的に名古屋の陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)※1へ派遣された。大阪などの他の軍需(ぐんじゅ)工場に派遣された生徒もいた。派遣先は初め知らされておらず、船に乗る前に名古屋に行くと告げられた。名古屋に着いて連れて行かれた場所が、兵器を造る造兵廠だったのでびっくりした。ここには各県から工業関係の学校を卒業した人たちが集まっていた。4年ほど働いたと思う。
ここでは弾薬づくりに従事した。製作する弾薬にも種類があり、男女によってその担当が分かれていた。私は砲弾の製造過程のなかで機械操作を担った。田舎から来ていた女学生がもんぺや鉢巻(はちま)き姿で製造後の弾薬を紙で拭いているのを見た時は、「本当に大変だな」と思った。
当時の食事は玄米が当たり前だったが、この造兵廠の待遇はよく、3食白米が出た。月給も通常より高く、三菱重工の人よりも高かった。待遇を良くしたら徴用(ちょうよう)の人員を確保できるというのが国の作戦だった。宿舎は軍が手配して、個人の民家を借りていた。
沖縄から来た私たちに対しては、「遠いところからよく来た」という同情や協力心があった。
ここでは空襲はなかったが、壕は造られていた。
■沖縄戦では防衛隊に召集
徴兵検査では乙種(おつしゅ)合格で徴兵されなかった。名古屋から帰ったあと、沖縄戦では防衛隊に召集(しょうしゅう)された。
配備先は港川(みなとがわ)で、小隊長は稲田少尉(しょうい)、分隊長が玉井伍長(ごちょう)だった。私は背が小さいので、稲田少尉にはとてもかわいがられた。
防衛隊では、特攻艇(とっこうてい)を壕から出し入れする訓練を毎日させられていた。弾薬や食料の運搬もした。弾薬は壕から壕へ運んで行った。
戦争中は負けると知らず、「勝つ、勝つ」と思っていた。
■生きて帰ってこなかった特攻隊員たち
この特攻艇に乗るのは訓練を受けていた兵隊たちで、防衛隊員が乗ることはなかった。兵隊たちはみな若く、20代前半くらいだった。特攻は、後方に爆弾を積んだ小さな特攻船に1人で乗り込み、アメリカ軍の大きな軍艦の手前まで行って爆弾をはじくというものだったが、生きて帰れない。一度丘の上で見ていたが、軍艦にたどり着く前にやられていた。見ていて可哀想だった。
彼らが自分の家族だったら引き留めたいくらいの気持ちだった。死にに行く訓練を受けて、船に乗って爆弾を積んで行くんだから。昨日今日まで共に話をした仲間がやられるわけだから、戦争というものはやってはいけない。
■アメリカ軍を前にしてよく生き残れたと思う
港川の海にはアメリカ軍の軍艦が30隻ほどいて、艦砲射撃がすごく、私は壕にこもっていた。戦闘が激しくなってから防衛隊は解散したが、自分がどうやって避難し、どこで捕虜になったのかよく覚えていない。ただ強制的にではなく、自分から壕を出て捕虜になったのは覚えている。自分自身、アメリカ軍を前にしてよく逃げることができた、生き残れたなと思う。頑張る力はなかったし、一発撃つと百発返してくるほどのアメリカ軍の武器には抵抗できなかった。戦争というのは怖いから無い方がいい。
捕虜になったあとは、新里の集落前の広場で2、3ヵ月収容された。そこは兵隊だった男性しかいない捕虜収容所だった。殺されるのか、あるいはハワイに行くのかと思って、戦々恐々で毎日を過ごした。それから次にどこかへ行き(やんばるではなかった)、古堅(ふるげん)に戻ったと思う。
戦争中、古堅にいた家族は、初めは前もって掘っていた各家庭の壕に入っていたと思う。家族とは捕虜になってから再会した。
現在でも戦争の夢を見て、それから目が覚めて、自分が生きているのに気付くことがある。
■戦後は大里村役場で集落再建
終戦後は大里村役場の職員が半分いなくなってしまっていたため、仲程(なかほど)に出来ていた役場に勤めることになった。この頃には、人々は各地の収容所から各集落に帰っていたが、家がないのでキャンプのような生活をしていた。
役場で工務課長になった私の仕事は各集落に仮小屋を建てることであった。新里にあった製材所から材木を運び、各集落にいた大工に仮小屋を造らせた。「初めはこの集落から造る、次はこの集落」ということはなく、各集落平均に、困っている家庭を優先した。家族が多い家庭、子どもの多い家庭を厳正に選んで優先的に材木を配ったが、「あの家をひいきして!」「あそこに先に配ってから!」などと言われて大変だった。よくもこんな仕事を引き受けてしまった、辞めようとも思ったが、辞めることはできなかった。あの時のことを思い出すと気が動転しそうになる。
その後、那覇市役所の試験を受けて合格し、転職した。
(事務局による聞き取り 2015、井口学による聞き取り 2016)
■脚注
※1 旧日本陸軍の機関で、兵器・軍需品などの考案設計、製造修理、検査を行なった。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015749 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 296-298 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-古堅 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |