なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

照屋キヨ(大正12年生まれ 大里・古堅)【キーワード】やんばる疎開/収容所

■並里へ疎開
昭和20年(1945)になると、「島尻は危ないから子持ちは金武に疎開した方がよい」と区長さんからの情報があった。そこで、私(21歳)は3歳の子を連れて、姉ウシ(26歳)と8歳の甥と共に2月18日にやんばるに疎開することになった。思い出の写真やきれいな着物や普段着、油味噌などの食料を持って、軍のトラックで大里の疎開先に指定されていた金武の並里(なみさと)(現 金武町)に行った。両親(共に61歳)は、古堅の後ろの山に壕を掘りそこに残った。
並里では、地域の区長さんが大里村の人々の宿を割り当ててくれた。私達の宿は区長さんの家の隣で、とても良くしてもらった。

■やんばるを北上して避難
しばらくしてアメリカ軍が嘉手納に上陸してきたため、大里村の人達は道の近くの自然壕に避難することになった。私達もしばらくその壕にいたが、壕の中には大勢の人がいて人の出入りも多く、アメリカ兵に見つかりやすいのではないかと思いその壕を出た。私達がその壕を出て2日ぐらい後に、その壕の入口に爆弾が落とされたくさんの犠牲者が出た。私達はしばらくの間、区長さんの家の壕に入れてもらった。
その頃、金武大川の隣の公民館には日本の海軍がいた。そこの兵隊さんが「ここは危ないから、もっとやんばるの奥に避難した方がよい」と教えてくれた。
私達はやんばるの奥を目指した。大勢の人が昼は繁みの中に身を隠し、夜に山道を歩いていた。道中にはアメリカ軍のビラがたくさん落とされていた。大きな川の橋は日本軍の作戦で壊されていたので、子どもを負ぶって水に濡れながら川を渡って逃げた。途中、瀬嵩(せだけ)(現 名護市)の壕に思い出の写真や着物を置いていった。

■中川での収容所生活
何日かして川田・平良(現 東村)にたどり着くと、道の近くに小さな壕があったのでそこに隠れた。その日、隠れた壕の近くで照明弾(しょうめいだん)が上がり、真昼のようになった。壕の外にアメリカ兵達がいて、そこで私達は捕虜になった。
アメリカ兵の中には日本語が分かる人がいて、「どこから来たか」と聞いたので、私は馬鹿正直に「島尻から来た」と答えた。すると「島尻には日本兵はどれぐらいいるか」と聞かれた。「そんなことは分からない」と答えたが、他にも色々聞かれた。「これからは、夜は危ないから昼に歩いて島尻に帰るように」とアメリカ兵が言ったので、私達は金武の中川まで戻った。
中川にはたくさんの捕虜がいた。南風原村(現 南風原町)や西原村(現 西原町)の人もいた。みんなで茅(かや)を刈り、共同住宅を造って住んでいた。わずかに玄米の配給(はいきゅう)があったが食料が乏しく、カズラを探してきた人がみんなに分け与えてくれていた。

■支え合って生活してきた戦後
金武にどのぐらいいたか忘れたが、大里村へ帰ると、初めは目取真(めどるま)に収容された。
父は幸い戦後も元気だった。母は残念ながら、古堅でアメリカ軍の攻撃を受けて亡くなっていた。初年兵として召集(しょうしゅう)されていた弟の真徳(20歳)も糸満の喜屋武(きゃん)までは元気だったと風の便りで聞いたが、どこで戦死したかは分からない。
戦後、治安が悪かったので芋掘り作業などを共同でしていた。たちの悪いアメリカ兵が各地に出没するので、特に若い女性は単独行動をしないようにした。だが犠牲になった話はあちこちで聞かされた。
私達が古堅に入った昭和21年(1946)6月頃、古堅はあたり一面焼け野が原で、竹がやっと少し生えてくるぐらいだった。私達は気の合う仲間と共同で家を造りあったり、芋掘りをしたりして、支え合って生活してきた。
私たちは戦後64年間、慰霊の日の前日には古堅の慰霊塔の周りの草刈りや掃除をきちんとして、慰霊の日を迎えるようにしてきた。あの戦争さえなければ親子兄弟仲良く暮らせたのに、とつくづく思う。
(仲原節子による聞き取り 2009)