なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

饒平名千代子(旧姓上原 昭和7年生まれ 大里・古堅)【キーワード】日本軍の駐屯/学童疎開/引き揚げ

■子どもたちに戦争の被害と寂しさを伝えたい
私は1944年(昭和19)、大里第一国民学校(現在の大里北小学校の前身。以下、大里第一)6年生の時に学童疎開(そかい)に行った。疎開中は毎日日記を書いていて、沖縄に帰ってきてからも自分の生活の日記を書いていたが、日記がどんどん積もっていってとても多くなり、戦争も終わったのでみんな捨ててしまった。しかし終戦から48年が経った頃、あとの子どもたちに戦争の被害と寂しさを伝えたいと思い、学童疎開の回顧録(かいころく)を書いた ※1。
疎開中、私たちはいつもお腹を空かして「チャー ヤーサンドー(とてもお腹が空いてるよ)」と話していた。またヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)、毎日こんな話ばかりしていた。疎開から帰る時は、行く時から体重も増えず痩せて、みんな小さいままで帰ってきた。

■兵隊のすすめで疎開を呼びかけた父
疎開に行った1944年当時、私の家族は両親と父方の祖母、私(長女)、2歳下の弟の隆(次男)、4歳下の弟の章(三男)、9歳下の妹(次女)だった。疎開中に13歳下の妹(三女)が生まれた。両親は農業をしていた。
当時、古堅(ふるげん)にはたくさんの兵隊が駐屯(ちゅうとん)していた。区長をしていた父は、一人暮らしのおばあさんや親せきのおばあさんの家を回り、空いている部屋を借りて兵隊を入れたり、食料を集めたりして兵隊の世話ばかりしていた。トラックもないので、馬車を持っている人たちに、那覇の港から軍の資材を運ばせてもいた。
疎開に行くことは、わが家に泊まっていたとても優しい兵隊さんから勧められた。「今度の戦(イクサ)は全然勝てないから、みんなヤマトの方に疎開させなさい」と。それで父は走り回り、みんなに「疎開に行かせて」と言いまわったため、古堅から多くの人が学童疎開や一般疎開に行くようになった。
大里第一では、第1次と第2次の計2回に分けて学童疎開が行われた。第1次は対馬丸(つしままる)と同じ船団で早めに行き(疎開先は熊本県の日奈久(ひなぐ)だった)、私は第2次で熊本県の湯浦(ゆのうら)と内野(うちの)(ともに現 芦北(あしきた)町)へ行った。
対馬丸が撃沈されたことは、当時箝口令(かんこうれい)が敷かれていて秘密にされていたものの、第2次の出発前には噂で聞こえてきていた。そのため、与那原あたりの人たちの多くが子どもを学童疎開に行かせるのをやめていた。そうしたことがあり、第2次では古堅のきょうだい連れが多かった。
私は弟2人と一緒に学童疎開に行くことになった。本当なら学童疎開は3年生からしか行けなかったが、父が「生きるも死ぬもきょうだいは一緒だ」という考えで、母が校長先生(親戚だった)に2年生の章も参加できるようお願いして行けることになった。章は早生まれなので本当に体の小さな2年生で、「汽車に乗れる、船に乗れる」と言って大喜びだった。次男の隆は、私の兄(長男)が亡くなっていたため祖母から長男として大事にされていたこともあり、「自分は行かない」と言って祖母にしがみついていた。私は2人の弟の世話をするのが負担で「行きたくない」と言ったが、父に「あんたが行かなかったら誰がこの2人の世話をするか」と怒られ、我慢して行った。

■本部港で停泊
出発の時は親たちも那覇港まで見送りに来ていた ※2。だが子どもたちが乗船した後も親たちには出港の時間が知らされず、夕方になって「今日は出発しませんからもう帰ってください」と親たちは帰された。翌日の朝早く、親たちが来る前に船は出発し、親たちは淋しい思いで帰ったそうだ。
船の船底には兵隊さんたちが大勢乗っていた。学童疎開の子どもたちは、起きている時も寝ている時も頭から浮袋(胸側と背中側に四角い浮袋がついていた)をかぶり、1日中甲板(かんぱん)にシートを敷いて過ごしていた。
出港後、船は暴風のためなかなか九州まで行けず、本部(もとぶ)町の港に停泊することになった。その間、誰かが「水や食料がないから那覇港まで補給しに戻るよ」と言ったので、みんなで「那覇に着いたら逃げようね」と話し、それが引率の金城正榮(せいえい)先生の耳に入って叱られたこともあった。

■面会に間に合わなかった父
本部での停泊中、那覇港を出て一週間ほど経つのに到着の電報がないと親たちが心配するだろうということで、金城先生が船の下を航行していたクリ船のおじさんに手紙を紐でつるして渡し、本部の警察署長さんに届けてもらった。その数日後、学童の親たちが与那原の宮城バスを借り切って、本部港まで子どもたちに会いに来た。本来なら親たちが船に乗ることはできないが、金城先生が一生懸命お願いして船長さんと兵隊さんから許しをもらい、船に乗って子どもたちに会うことができた。
ところが、うちの父は1人だけバスに乗らず、自信があったのか自転車で本部まで向かったようだ(父は大阪に住んでいた時に毎日自転車に乗っていたらしい)。しかし昔の自転車なのでチューブも硬く、途中でパンクしてしまった。本部に着く頃には他の親たちはもう帰っていて、父は船に乗ることができなかった。岩の下で、翌日船が出るのを見送って帰ってきたようだ。父は親が会いに行けない子どもたちのお砂糖や油みそなどのお土産をいっぱい持たされ、自分と子ども3人の弁当も持ってきていたようだが、のちに母は、「弁当も腐らせて帰ってきたよ」と話していた。
私たちきょうだい3人は、父が会いに来ないので甲板で泣いていた。

■疎開先の湯浦へ
その後鹿児島へ着き、疎開先の熊本県の湯浦へ向かった。湯浦では男子が松田屋、女子がその向かいの本湯(ほんゆ)という温泉旅館に泊まることになった。本湯には天草(あまくさ)(熊本県)あたりからおばあさんたちが湯治(とうじ)に来ていた。部屋も障子(しょうじ)で2人、3人、4人に区切られ、私たちもそこに入れられていた。
私は先生に「きょうだいは同じ旅館にしてください」と頼んだが認められなかったのでとても困った。学童は学校のそばの川で自分たちで洗濯をしていたが、弟たちは「お姉さんたちのところに行くと何と言われているかわからない」と言って洗濯物を持ってこないし、旅館まで取りに行くと怒られた。「同じ旅館のお兄さんたちに怒られるんじゃないかと怖い」ということだった(当時は6年生だけでなく高等科1、2年生も一緒だった)。
旅館では、竹を切って作った大きなお椀にご飯を、小さなお椀にお汁を入れて食事を出されていた。旅館のおばさん達はご飯を秤(はかり)ではかってよそっていたようだが、男子の旅館では、上級生がお腹を空かせていたため下級生から少しずつご飯を取っていたらしい。当時、下級生たちは「お兄さん達に怒られる」といって黙っていたが、沖縄に帰ってきてから誰かがこのことを話した。そのお兄さんのお母さんはとても苦しんで、米を持って謝って回っていた。うちの母は「こんなことをしないで」と声をかけていた。
湯浦には大里第一を含め沖縄から学童疎開で何校か来ていたので、湯浦国民学校では沖縄の学童と地元の学童を午前・午後に分けて授業をしていた。湯浦に着いたばかりの頃は、沖縄の子どもたちは雨具を持っていないので、雨が降ったら休校で喜んでいた。

■父からの手紙
沖縄で十・十空襲(1944年10月10日)があったことは湯浦国民学校の運動場で校長先生から知らされ、沖縄の子どもたちはみんな泣いていた。
おそらくその直後ごろだったと思うが、旅館に父からの手紙が届いた。本部港ではきょうだい3人、なぜ自分の親が来ないのかと思って泣いていたが、手紙がなかなか届かなかった当時、父は真っ先に手紙を送ってくれた。
届いたとき私はお風呂に入っていたが、友達が「お父さんから手紙が来たよー!」と教えてくれ、喜んで飛び出した。私は目が涙でいっぱいだったので、友達が一生懸命読んでくれた。「十・十空襲を受けたが田舎は大丈夫。みんな元気だから心配しないで」と書かれていた。
その手紙には「親展」と書かれていたのだが、友達たちは「親からの手紙だから親展だはずよ」ということで、私に見せないで騒いでいた。そこに金城先生が来て「人の親展の手紙を読んだのか?あんた達は怒られるよ」と言い、親展の意味を初めて知った。
父が心配して真っ先に手紙を送ってくれたことがとても嬉しかった。

■湯浦で初めての雪
湯浦で初めて雪が降った時には、みんな大騒ぎで裸足で雪合戦をして遊んだ。
ある雪の日、学校から帰ると、友達から「千代子、あんた片一方裸足よ、靴はいてないよ?」と言われ、見たら本当に片足だけ靴をはいていなかった。来た道を戻ると靴が雪の中に埋もれていた。寒いため足がかじかんで、途中で靴が脱げていたのに気づかなかった。
学校から帰ると、寒いのでみんな旅館の温泉に入っていた。1人の女の子は入りすぎて体中ぶつぶつになるくらいだった。

■ヒマの種を食べて食中毒に
疎開中はいつもお腹を空かせていた。ある日上級生が、別の学校の生徒からもらったと言って、旅館の部屋でヒマの種 ※3を焼いて食べていた。「ちょっと来てごらん、美味しいよ」と部屋に呼ばれ、2つほど食べたが変な油が口いっぱいに広がったのでそれ以上食べなかった。
ところがしばらくすると、お腹から紫の汁をゲーゲー吐き出してしまった。友達がびっくりして金城先生を呼んできたが、先生に「何を食べたんだ!このガキ!」と怒られてしまった。私はそれどころじゃなく、どんどん紫の汁を吐いて、「なんで他の人はたくさん食べて私は2つくらいしか食べなかったのにこんな目に遭うんだろう、もう死ぬのかな」と本当に怖かった。

■弟を背負って避難
弟2人はリンパ腺が腫れてしまい、「痛くて歩けない」と泣くので手術を受けた。当時は麻酔がなくて、2人がわーわー泣くのを見ていられず、同い年のいとこにお願いして弟たちの体を押さえてもらった。
空襲警報が鳴った時には近くの竹林や松林に避難したのだが、弟2人は歩けないので、そのいとこと私で1人ずつおぶって避難した。

■内野に再疎開
湯浦の近くの小さい港に米軍機から爆弾が落とされたということで、湯浦にいた沖縄の学童たちは学校ごとに散り散りになって再疎開することになった。大里第一の再疎開先は内野という、山と田んぼと畑しかない田舎だった。内野はどこにも行くところがなく、部屋にこもっているような感じでさびしい場所だった。そこでは内野国民学校の作法室(広い畳の部屋だった)に、男子と女子で部屋を区切って泊まった。寒いので、小さなせんべい布団をみんなで重ね、くっつきあって寝ていた。

■「あなた達はここで成長するんだ」
内野で金城先生から、沖縄が玉砕(ぎょくさい)したので帰れないこと、「あなた達はここで成長するんだ。ここで過ごすんだ」ということを言われた。
内野では食べ物もあまりないので、土手に何か食べられる草はないかと探しに行かされた。山にも行かされたが何もなかった。お百姓さんが使わなくなった山(ミカン畑)があったので金城先生が借りてきて、全部開墾して芋やナスビ、人参を植えた。使われていなかった田んぼも農家から借りて、自分たちで足で踏んで稲を植えた。
私たちは沖縄から出発するとき先生に小遣いを預けて、鉛筆やノートを買うときは先生からお金をもらっていた。だんだん食料がなくなってきた時、先生から、「お金が少なくなってきているから、2人1組になって農家に行って、買えるだけの野菜などを買っておいで」と言われた。私は1学年上のお姉さんと組み、訪れた先はたまたま区長さんの家だった。私が涙を流しながら、「芋でもカボチャでも良い、野菜を売ってください」と言うと、区長さんから「どうして沖縄の子たちは今日みんなこうして歩いてるの?」と聞かれた。「私たちは先生にもうお金がないと言われ、買い出しに来ています」と答えると、奥さんが握り飯を2人にくれて、「こんなに美味しいおにぎりがあるんだな」と思った。
私たちは普段麦ばかり食べていて、米はほとんど食べられなかった。当時は「日本全国どこにもお米はない」と聞かされていて、いつもみんなで「ご飯食べたいな、ご飯食べたいな」と言っていた。だが内野の人たちは自分たちが作る稲でお米を蓄えていて、彼らがいつも真っ白いお米をいっぱいに洗っているのを遠くから見ていたので、「なんでここにはこんなに白い米があるのかな」と思っていた。それで金城先生に、「先生は日本全国が厳しい生活をしていると言うけど、真っ白いお米がいっぱいあったよ。何でね?」と聞いた。先生はわかっているけど答えられず、今思うとかわいそうなことをした。
区長さんの家に行った翌日、そこの青年会長がたくさん野菜を持ってきてくれた。それが何度か続いたが、終戦後は戦地から復員して帰ってきた兵隊たちが、解散命令が出るまでの間の数週間のあいだ学校に泊まるようになった。それ以来、区長さん達は「兵隊さんありがとう」ということで兵隊さん達の方に野菜を持っていくようになってしまった。そのため私たちはまた困窮してしまい、野原の草を取って暮らしていた。

■ご飯を毎日分けてくれた米須見習士官(みならいしかん)
その兵隊さん達のなかに、那覇出身の米須見習士官という方がいた。兵隊さん達は毎日、昼食時間に飯盒(はんごう)で白いご飯をもらっていたが、彼は毎日私たちのいる食堂に来て、子どもたちに1口ずつ、飯盒のご飯を全部分けてくれた。私がびっくりして「兵隊さんは何を食べるの?」と聞くと、彼は「宿舎に帰ったら自分の弁当があるから大丈夫よ」と答えていた。だがある時、彼の上司にあたるヤマトンチュの兵隊さんがいたので聞いたところ、「宿舎にご飯はないよ。飯盒にある分だけだよ」と言っていた。
当時の私たちの食事はすいとんのようなものだった。味噌もないので、塩などで味付けしたお汁に、小麦粉で作った5つくらいの団子と、近所からもらってきた芋の葉っぱ(これを食べると話すと内野の人は驚いていた)を入れただけのものだった。そのため米須さんがくれる1人1口ずつの真っ白いお米がみんな嬉しかった。
戦後、彼にお礼しようと思ったが、金城先生にもらった住所の書かれた紙をなくしてしまい、電話帳でも一生懸命探したが見つけられなかった。彼は内野から沖縄に引き揚げる時もわざわざ私たちのところに来て、「お先に帰ります」と敬礼をしていた。彼のことがずっと心に残っている。

■お世話になった内野の人たちへ演芸会
大里第一の学童疎開には、引率の金城先生の家族のほか、炊事婦として那覇の又吉さん、与那原の桑江サダコさんという女学校卒業生の方が2人いた。また、与那原の人で與那嶺眞光(しんこう)さんという方も途中から合流した。彼は広島の師範学校を出た人で、お父さんが大里の校長先生をしたことがあったので、大里の私たちのところに来ていた。
やがて沖縄に帰るという頃に、お世話になった内野の人たちへのお礼に演芸会を開くことになった。與那嶺さんがピアノを弾けたので、私たちに「証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)」の英語の歌("Come, Come, Everybody")や「椰子(やし)の実」の歌を指導してくれた。金城先生は八重山民謡を教えてくれて、「さらば沖縄よ」も歌った。また、又吉さんと桑江さんの指導の下、「黄金の瓜ざね」や「花売り娘」、楠木正成(まさしげ)や正行(まさつら)の劇(私は正行を演じた)も上演した。演芸会には内野の人たちが大勢見に来てくれた。
その演芸会の時、内野の緒方さんと松本さんという2人の女性が私たちを養女にしたいと申し出た。私を養女にということも言われたが、私は内野に残るのが怖かったし、金城先生が「この子は2人の弟を連れてきているし、沖縄の父母と『戦争が終わったら元気に親元へ帰す』という約束で来ているから養女にはできません」と断ってくれた。しかしどうしても女の子がほしいということで、1人で学童疎開に来ていた嶺井と上与那原の女の子が1人ずつ、沖縄に帰るまでという期限付きで預けられることになった(彼女たちは2人ともみんなと一緒に沖縄に帰ってきた)。

■福岡から沖縄に帰郷
終戦後、福岡に設置された引揚援護局(ひきあげえんごきょく)に沖縄から手紙が届くと、金城先生に電話が来て、先生が福岡まで受け取りに行っていた。大里第一の校長先生から疎開学童の家族の安否を知らせる手紙も届いていた。
疎開者が沖縄に帰るのが決まった時には船に乗る順番のくじ引きがあったようで、先生が「1番が当たったよ」と喜んで帰ってきた。しかし育てていた稲の収穫がまだだったので、お米だけは持って帰りたいと先生に言うと、「米ができるまで待つか?それとも早く帰りたいか?」と聞かれ、みんなは「早く帰りたい」と答えたので、帰るのを優先することにした。だけど私はあきらめられず、「農家にお米をただであげるのでなく、代わりに何かもらって来てください」と先生に頼んだ。すると先生は小さなお芋をたくさんもらってきてくれたので、それを炊いて弁当箱に2日分入れ、汽車に乗って福岡の港まで行った。港では小さなボートで沖にある船まで行き乗船した。

■「あと2ヵ月くらいいたら餓死していたはず」
船が那覇の港に着いたのち、私たちはインヌミ屋取(ヤードゥイ)(現 沖縄市)に連れて行かれた。そこで引揚者にはDDTがまかれた。私はいやだったので逃げたが、黒人兵に追いかけられて捕まり、子どもだったので飴玉(あめだま)を渡されて落ち着かされ、頭が真っ白になるまでDDTをかけられた。
インヌミ屋取に一晩泊まった後は、そこからトラックに乗せられて大里村へ帰った。当添(とうそえ)や板良敷(いたらしき)(現 与那原町)の人たちは別のトラックで集落に帰り、私たちのトラックは古堅の入口に臨時で作られていた大里村役場に行った。役場には疎開学童の保護者たちが迎えに来ていたが、私たちの両親は来ていなかった。父は私たち3人が寝るための掘立(ほったて)小屋を造っていたようだ。母は、近所の人から「隆と章が帰ってきてるよ」と聞いたがその人が私の名前は言わなかったので、私だけ体をこわしてまだ収容所にいると思い、腰を抜かしてしまい来れなかった。他の保護者たちから「お父さんもお母さんも元気だから大丈夫よー」と聞いて安心した。
保護者が迎えに来た子どもたちはおんぶされて帰った。学童たちはガリガリに痩せてしまい、骨と皮だけで帰ってきたので保護者たちはとても驚いていた。「あと2ヵ月くらいいたらみんな餓死していたはずよ」と言われた。
母は、「あんた達は胃が弱っているから」と言って私たちに芋や硬いご飯をあげず、お粥を食べさせていた。しかしお腹が空いていた私たち3人は、ざるに入っていた芋に手をのばし、皮も剥(む)かずに必死になって食べたこともあった。母は私たち3人があまりに痩せてしまったので、もう生きられないと思っていたらしい。

■疎開から帰ってきて
沖縄に帰ってきてからは学校にも行きたくなかった。沖縄にいた子たちはABCDを習っていて、自分たちはもうついていけないと思った。
疎開から帰ってきた男の子たちも「学校に行きたくない」といって遊んでいたし、夜は誰かの家の納屋(なや)などにみんなで寝泊まりしていた。父は毎晩懐中電灯を持ち、遊びにでかけている男の子たちの家を回って納屋などを探して歩いていた。
疎開前と疎開後は身長がまったく伸びず、やせこけて帰ってきた。愛情を受けない子どもたちは成長しないと言われている。食べ物もないし親の愛もないから、私は本当に小さな子どもだった。疎開前は背が高いほうだったが、高校に入った時には背が低くて1番前に座らされ、それがとても嫌だった。
(事務局による聞き取り 2017)

■脚注
※1 饒平名さんが書いた回顧録は『南城市の沖縄戦 資料編』第3章第1節「(一)学童疎開」に掲載されている。本書では、回顧録に書かれていない内容を中心に掲載する。
※2 回顧録には、古堅を出発して那覇港に向かった日が昭和19年9月8日だったと書かれている。
※3 トウゴマ(漢名は蓖麻(ヒマ))ともいう。種子は有毒タンパクのリシンと、アルカロイドのリシニンを含むため、2~3個食べると致死量となる(『日本大百科全書 16』小学館、1987)。熊本県日奈久では、ヒマの種をたくさん食べて亡くなった学童もいたようだ(与那原町学童疎開史編集委員会編『与那原の学童集団疎開 第一部 体験集 ムギメシヒトツ ココフタツ』与那原町教育委員会 1995 111頁)。