■疎開船に乗ったが下船する
昭和19年(1944)の夏、わが家では父と祖母を残し、母と私を含む子ども5人で一般疎開をすることになった。疎開は南風原区から募集があり、南風原区から10世帯ほど、ほとんどが宮崎県に行ったと思う。私たちは対馬(つしま)丸より先に出た船だったと思うが、キザン丸という船に那覇から乗船した。
しかし、乗船してから妹(次女)の百代が発熱してしまった。船は貨物船だったし医者もなく、「命が助かるために疎開するのに船の中で死んだら元も子もない」ということで、大きな船から小さなボートに降ろしてもらい、渡久地(とぐち)(現 本部町)に上陸した。渡久地の病院で診てもらって大事に至らずに済み、日本軍のトラックで南風原区に帰った。その時に日本軍はとても親切だなと思った。
ところが、南風原区の家に送られた電報では百代が死んだということになっていた。家では葬式の準備をしていたので、帰ったら「百代が生き返ってるよ」ということになった。
■南風原区に駐屯(ちゅうとん)した日本軍
南風原区には初め武(たけ)部隊が駐屯していた。その後武部隊が台湾に移動し、球(たま)部隊が来た。大里城跡の岩の方(シガイ)にも兵舎を建てていて、各集落にも駐屯していた。兵隊は南風原区域内を流れている饒波(のは)川をせき止め、水を全部はきだして、食用にするために魚を捕っていた。現在の南風原区の公民館は戦前は製糖場だったが、戦争が近づいて日本軍がたくさん集落に来た頃には鍛冶(かじ)屋になっていた。
その頃、各家庭の家には母屋(おもや)とアシャギ(離れ)があったが、アシャギには将校(しょうこう)が泊まっていた。ほかの兵隊たちは食栄森(イーム イ)にあった旧公民館に宿泊していた。私の家の隣は門中の本家と神屋(カミヤー)があり、神屋はけがや病気をした兵隊の療養所として使われていた。
■十・十空襲(1944年10月10日)を西原区で見る
十・十空襲の時は、初めは日本の飛行機だと思っていた。後からアメリカの飛行機だと知り、西原区の那覇が見える高台まで行って見ていた。それ以前も時々、アメリカの飛行機が偵察で飛んでいたが、豆粒くらいの大きさでしか見えなかった。しかし十・十空襲の時は様子が全然違った。高台からは、グラマン機が編隊を組んで那覇に飛んでいく様子や、那覇が燃えている様子もよく見えた。
■南風原区に掘られた壕
秋頃は各家庭で集落内のいくつかの山に自家用の壕を掘っていた。山の中の土がニービという掘っても崩れない頑丈な土だったので、みんなそこに掘っていた。
私の家族は集落の上の方(西原入口バス停の近く)に壕を造っていた。そこには岩がたくさんあって、岩の下の石などを掘り取り、穴をあけて壕を掘っていた。空襲警報が発令された時にはみんな自家用壕に避難していた。昭和20年(1945)の年明け頃、警報がかかって壕に避難していた時、私は小便がしたくて祖母に連れられ壕の外に出た。すると、被弾しなかったものの米軍機から機銃掃射を受けてしまった。
集落の人たちが集団で入る壕も、ヒラシーと呼ばれていた大きな平たい岩のところにあった。ここは岩の中が大きな横穴のようになっていた。戦後もこの中に、あちこちに散らばっていた遺骨を納めていた。
集落の南側には日本軍の戦車壕も掘られていた。小さな戦車だったが、この戦車は日常的に集落を通っていて、大里村の番所(ばんじょ)跡の前の坂道(現在は使われていない旧道)も通っていた。戦車は訓練が終わると壕に納められていた。この戦車壕には戦後も弾や火薬がたくさん残っていて、子どもたちが火薬を取りによく行っていた。私の2歳下の後輩(小学4、5年生だった)は、ここで火薬を抜き取るときに誤って亡くなってしまった。この壕は現在はつぶれて、入口が塞がれている。
大里内原公園の西方の山には軍の陣地壕が掘られていた。ここは高射砲(こうしゃほう)陣地だったのではないか。南風原区域の山には松の木がたくさん生えていたが、この壕に使うためにすべて伐採されてしまった。この壕は兵隊が掘っていたが電気もないので、奥の方では鏡で光を反射させて掘っていた。壕掘りをよく見に行っていたが、小学生だったので怒られることはなかった。
■大里村の役場壕
当時、大里村役場は南風原区にあった。役場は1階建ての平屋で瓦葺(かわらぶき)屋根だった。
役場の書類などを納めるための壕は建物のうしろの山に掘られた。おそらく村の職員で掘ったのではないかと思う。現在この入口側は跡形もなく崩れてしまい、どこが入口だったのかわからなくなっている。この山の土はニービではなくクチャと普通の土を混ぜたようなもので、おそらく軍の壕のように松の木のつっぱりなどは入れていないだろうから、そのまま押しつぶされているかもしれない。
■金武へ疎開
昭和20年の3月、父(正英)、母(夏子)、祖母、妹の艶子、百代、吟子、弟の将行と共に金武に疎開した。軽便(ケービン)鉄道与那原駅から20人乗りくらいのバスが出ていてそれに乗って行ったが、燃料が石炭だったので現在のコザ高校のところの坂道を上がれず、荷物も人もみんな泡瀬(あわせ)(現 沖縄市)で降ろされた。そこからはずっと歩いて移動だったので大変だった。
石川(現 うるま市)まで来たところで、祖母が家に味噌や塩を取りに帰った。しかしその後、アメリカ軍が上陸したため祖母はやんばるに戻れず、集落の人たちと一緒に島尻一帯を逃げ回り、糸満の大里で弾に当たって亡くなってしまったという。
祖母と石川で別れた後、私たち家族7人は金武観音寺のガマ(鍾乳洞(しょうにゅうどう))に避難した。避難先はこの鍾乳洞だと言われていて隠れる場所はそこしかなく、中には避難民が大勢いた。ガマの中は空気が悪く、トイレもなくて真っ暗だった。そこで一週間ほど生活していたが、一番年少の吟子が1歳にもなっておらず、ガマの中では大変だということでそこを出ることになった。
その後、金武の北方にあった億首(おくくび)橋近くの岩山に自分たちで壕を掘って隠れた。そこには一、二週間ほどいたと思う。その時に初めてアメリカ軍がまいたビラを見た。「日本はこういう状態だから早めに降参して出てきなさい」というような内容が書かれていた。その時は「だまされているかもしれない」と思っていたので出ていく気にはならなかった。そのうち、アメリカ軍は日本兵や住民の北部への移動を阻止する目的だっただろうか、
グラマン機で毎日のように攻撃するようになった ※1。橋は3日目には完全に破壊された。
爆撃のたびに破片や石などが壕まで飛んでくるため、私たちはこの壕から移動することにした。橋が壊されたため川を渡るのが大変だった。夜中の移動だったため、家族がはぐれないよう、めいめいの胸あたりでロープを結び、無事川を渡ることができた。
■久志で捕虜になる
家族7人だけで金武から久志(くし)、安部(あぶ)、嘉陽(かよう)、天仁屋(てにや)(現 名護市)まで避難したが、食べ物もないので久志まで戻ってきた。途中に寄った瀬嵩(せだけ)(現 名護市)の山にはフートー(フトモモ)の実があり、それをたくさん食べて飢えをしのいでいた。フートーの実は美味しくて香りも良く、この実のおかげで助かった。
久志まで行くと、アメリカ軍がこの近くまで来ているという噂があり、見つかったら大変だと思って浜辺のアダンの茂みに隠れていた。その時、水平線の方から黒い船がだんだん大きくなって近寄って来るのがわかった。翌日にはアメリカ兵がどこからか上陸し、4、5人1組で機関銃を持って、浜辺で避難民を探していた。それで私たちも見つかり、久志の広っぱに連れて行かれた。広っぱには大勢の避難民が捕虜として集められていた。
■父がアメリカ軍の通訳になる
父はハワイ帰りで英語が話せた。スパイだと疑われることがないよう、それまで英語を使うことはなかったが、広っぱに集められた時にアメリカ兵に「hungry(お腹が空いている)」と書いて見せた。するとアメリカ兵はガムやチョコレートなどのお菓子をたくさん持ってきて避難民に配っていた。
それからGMC(アメリカ軍の大型トラック)に乗せられた。いま思えば現在の国道58号線に下りていく許田(きょだ)(現 名護市)の下り坂の道を通っていたと思うが、その坂から名護湾にたくさんのアメリカ軍の軍艦が見えた。みんなで「あれに乗せられてどこかに連れて行かれるよ」と話していたが、羽地村田井等(たいら)(現 名護市)で降ろされ、女性と子どもはめいめい自分で空き家を探して避難生活をすることになった。青年以上の男性は、現在の羽地ダム近くの川上(かわかみ)という集落の大きな広っぱに造られた捕虜収容所に入れられた。そこには鉄線やテントが張られ、男性たちの背中にはPW(prisoner of war 戦争捕虜)と大きく書かれていた。
父はこの頃にはアメリカ兵と英語で会話をしていて、通訳としての仕事が始まっていたのだと思う。ある時、収容所にはたくさんのPWがいるが炊事のための鍋類が不足していたので、捕虜収容所管理人のアメリカ兵、父、私はお供で、小型トレーラーが連結されているジープで那覇まで鍋を探しに行った。那覇に近づくと、GMCのボンネットの両側に棒を立て、その棒に頭がい骨を差し込んで走っている車も見受けられた。
この時まだ那覇ではあちこちに煙が上がっていた。刑務所(当時は那覇市楚辺(そべ)にあった)の通りも日本兵が戦死して倒れていた。瑞慶覧(ずけらん)(現 北中城村)の現在の米軍司令部がある場所の下側を通ると、両側に兵隊の戦死者の白い十字架がいっぱい立てられていた。日本兵だけでなくアメリカ兵もたくさん戦死したんだなと思った。
羽地ではマラリアや飢えで毎日多くの人が亡くなった。お墓がないので穴を掘り、毎日そこに遺体を埋めていた。私たちの家族は幸いマラリアには罹(かか)らなかった。食べ物はあまりなく、農家が植えて残っていた人参や里芋、ターウム、田んぼに生えている草を採り、野菜汁にして食べていた。
羽地は水どころなので田んぼがたくさんあり、ターウムがたくさん植えられていた。
■父の仕事の関係で糸満、金武湾で暮らす
羽地で1年ほど暮らしたのち、父の仕事の都合で糸満に移った。父は糸満の家から那覇のPX(売店)に通勤していた。
羽地村田井等の小学校は松林の中にあり、教室はなかった。糸満小学校は現在の真謝原(まじゃばる)市営住宅南側の畑の中にあり、教室は屋根だけテント張りではあったが、エンピツやノート等の学用品はなく、子ども達は鬼ごっこをしたり、上級生たちは水のいっぱい溜まった艦砲穴(カンポーアナ)(アメリカ軍の艦砲射撃の砲弾で出来た直径7、8メートル、深さ約2メートルの穴)めがけてアメリカ軍の手りゅう弾を投げ込んだりして遊んでいた。また、学校の南側の山を越えて国吉集落まで遠足で行くとキビ畑が広がっていた。キビを食べるため畑の中に入っていくと、そこには戦死して白骨化した骸骨(がいこつ)がたくさんころがっていた。
糸満に半年ほどいた後、父の勤務地がホワイトビーチ(現 うるま市)になったので、家族は金武湾(きんわん)の近くに引っ越した。父はホワイトビーチでもPX関係の仕事に就いていた。
私は金武湾初等学校に通ったが、そこは1クラス4、50人いる大きな学校だった。金武湾には避難民がたくさんいて、那覇の垣花(かきのはな)の人たちが多かった。金武湾では陸上や野球などの体育も盛り上がっていた。特に野球が盛んだったが、父が軍からグローブやミット等の野球用具をもらってきて学校に寄付していた。金武湾には私が小学校4年生の半ばから6年生の終わりまでいた。
■南風原区へ帰郷
6年生の終わり頃、父の職場がホワイトビーチから那覇軍港に異動になったため南風原区へ戻った。その頃まで大里村の人たちは大城や玉城村(現 南城市)の船越の収容所にいて、やっと自分の集落に帰ることができた時期だった。南風原区では金武湾に比べるとみんな貧しくて、生活するのも大変だった。家も焼けていたので茅葺(かやぶき)の家を建てて暮らしていた。私は大里村に戻って1ヵ月ほどで小学校の卒業式を迎えた。
父は那覇軍港で10年ほど勤めていたと思う。働き者で、那覇軍港に勤めながら村議もしていた。村の人たちからは「通訳オトー」と呼ばれていた。
(事務局による聞き取り 2017)
■脚注
※1 日本軍が破壊したという証言もあり、はっきりしたことはわかっていない。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015744 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 275-280 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-南風原 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |