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玉城カメ子(明治44年生まれ 大里・南風原)【キーワード】移民/フィリピンでの戦争/引き揚げ/軍作業

■移民先のフィリピンで夫を亡くす
私は23歳の年に夫の煌則と縁組(えんぐみ)をして、25歳だった昭和10年(1935)に花嫁の呼び寄せ移民としてフィリピンに行った。
フィリピンでは、空襲の時に学校に一時避難したことがあったが、それでも危ないということで家に帰って来ていた。
夫は軍人だったが、昭和19年(1944)に飛行場建設で働いていた時に爆撃で亡くなった。翌年は民間地域にも爆弾が落とされて家にいられなくなり、親戚のおじさんの誘いでジャングルに逃げた。

■命がけの食料集め
山に避難していた時、私は小さい子どもたちを6人連れていた。25、6人で逃げていて、みんなで助け合っていた。その中には逃げてきた兵隊も一緒にいた。
フィリピンでは食料を確保するのが大変だった。草も食べられそうなものは全部食べていた。食べるものがないので、山の中でフィリピン人が植えている米を無事にとって来れたらボロボロジューシー(雑炊)を炊いて食べた。米をとりに行く時、「またとりに来る」と待ち構えていたフィリピン人に鉄砲で撃たれて亡くなった人もいた。
私は昭和20年(1945)に生まれた次男(則安)など小さい子どもを抱えていたため食料集めができず、皆の食事を作る炊事の係をしていた。大きな鍋を持っていたのでそれに毎日ボロボロジューシーを炊き、朝11時頃と夕方5時頃の1日2回食べていた。この鍋1つで25、6人が、大人も子どもも同じように分け合って食べていた。子どもが食べ残すと大人が食べるというような生活だった。
ジャングルの中で火を焚(た)くと、煙が立つので人がいることが分かる。そのため朝は3時から起きて暗いうちに食事を炊き上げ、明るくなったら火を消すという毎日で、25、6人分の食事を作るのに苦労した。

■「泣く子は殺そう」
次男がよく泣いたので、一緒に避難していた人の中に「おい、この子がいたら泣き声を聞いて弾が飛んできて困る。命が危ないからこの子を殺そう」と言う人がいた。私は「この子が殺されるよりは私が死んだ方が良い。私が死んだら私の家族は邪魔になるだろうから、みんな殺してくれ」と言った。その人たちは私を「ガージュー(強情)だ」と言って殺さなかった。
また避難民の中に、怖くてそこから逃げようとした3人の親子がいたが、後からついて行った日本兵に「逃げる人は殺す」と銃で撃たれて3人とも亡くなった。本土の兵隊だったが怖かった。

■長男を亡くす
避難していた時には、弾に当たって亡くなった人や病気で倒れた人もいて、7、8人ほどがジャングルで亡くなった。
桑江(くわえ)(現 北谷町)の人だと言っていたある兵隊(屋号はイングヮーヤーと言っていたのではないか)は、マラリアを患って血尿をしていた。血尿をすると重症だと言われていた。私は毎日おむつを洗うため川に下りていて、その人の血尿のついたパンツも一緒に洗っていた。その人は「おばさん世話してくれてありがとう、このご恩は忘れません」と言って亡くなった。ジャングルの中でみんなで葬ってあげた。
私の長男(昭則)も栄養失調のためそこで亡くなった。岩の上に横たえて、「迎えに来るからそこで眠っておきなさい」と残して来た。

■帰国と四女の死
山には5ヵ月隠れていたが、飛行機から「日本が負けた」とビラが撒かれたので、「負けたなら山に住むよりは捕虜になろう」と、皆一緒に出てアメリカ軍の捕虜になった。アメリカ兵は捕虜に食事やお菓子を与えてくれた。
昭和20年の11月、アメリカ軍の船に乗せられて広島の宇品(うじな)に送られた。そこからまた汽車に乗せられて福岡県に送られ、岡本寮 ※1 で1年半ほど生活した。私は5人の子どもを連れていたが、四女(弘子)は疲れていた上に11月の寒い時期に九州に来たので肺炎になり、岡本寮で亡くなった。
沖縄には子ども4人(長女の幸枝、次女のさかえ、三女の功子、次男の則安)を連れて帰った。中頭の避難民収容所に一週間収容され、昭和22年(1947)の末頃に大里に帰された。

■戦後の生活
沖縄に帰ってからも、生きるのは苦しくて大変だった。食料やお金もなかったので、他人の畑のミンジャー芋(自生芋)を探して食べていた。食用チンナン(アフリカマイマイ)も取って来て、子ども達が学校から帰って来るまでに茹で上げ、きれいに洗って食べさせた。西原区や南風原区には大きなものがあり、長堂原までも探しに行った。3年間は農業をしていたが、芋や野菜を与那原や那覇、首里、糸満まで売りに行った。
また、役場勤めをしていた親戚から「あなたは作業に出た方が良いのではないか」と勧められ、アメリカ軍の図書館で1日2時間、40歳から60歳の定年まで働いた。
図書館に就職するときには英語や歌のテストがあった。人の名前もみんな読んで英語で書け、図書館の本も辞典などいろいろと区分ができた。試験官に「沖縄に英語学校があったのか」と聞かれたので、「本当はハワイ生まれです」と答えたが、40歳になっていたので信じてもらえなかった。「それではハワイのカナカの学校で教えていた民謡をわかるか。学校を出たならわかるはずだから歌ってみなさい」と言われたので歌ってみせると「はい、合格」と言われた。40歳になるまで覚えていたし、長く生きるといろいろある。
自分の家族の話をすると、その試験官が「10ドルでは4人の子ども達の生活を支えられないから、私のところにおいで。25ドルあげるから私のメイドになりなさい」と言ったが、「メイドはできない」と断った。するとその試験官が図書館のテストに連れて行ってくれて、図書館での最初の給料は25ドルだった。子どもたちもみんな大学まで行かせることができた。

■フィリピンに何度も行ったが長男を迎えられず
戦後に、フィリピンへ長男を迎えに行くことを二度試みた。一度目はフィリピンのおばさんの夫(巡査をしていた)に同行を頼んだが、ジャングルのある場所は「お金のトラブルで殺し合いがある土地だからやめておけ」と言われたので引き返した。
二度目は遺族の集まりで慰霊祭に参加した時に行った。この時はフィリピンの人達が20人くらいついて来てくれた。山に入ると土砂降りになってみんな濡れたので、自分のためにみんなを濡らしてはいけないと思い、「次に来ます、今日は帰ろう」と言って戻った。すると、行く時は川を歩いて渡ったが、帰る時は大雨で川の水かさが増していた。フィリピンの人達は裾をまくり上げて渡ったが、私は現地の人が引っ張って来てくれた水牛に乗せてもらって渡った。フィリピンにも優しい人がたくさんいた。みんなに感謝していた。
フィリピンには11回も行ったが、長男が眠っているところへは行けなかった。現地はだんだんジャングルになって場所も分からなくなり、慰霊祭に参加するだけだった。大変な戦争は絶対にやってはいけないと思う。
(知念昌徳による聞き取り 2009)

■脚注
※1 福岡県の春日村(現 春日市)にあった沖縄県民の引揚者寮。本書第二部収録の亀谷長榮「春日村沖縄寮の生活」の中に関連する記述がある。