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玉城雄助(明治39年生まれ 大里・南風原)【キーワード】移民/フィリピンでの戦争

■開拓民としてフィリピンへ
私は24歳の時、開拓民として日本人の募集があったのでフィリピンに行った ※1。日本人が開拓し所有していた何千坪もの麻山があり、そこに2、30人の個人が小作(こさく)として入っていた。西原区の前大屋の新垣福仁さんが土地を囲って麻山を経営していて、同郷の人達はリサダというところで彼の麻山を小作していたので、私もそこで働いた。
フィリピンでの労働は非常に大変だった。文化人や外国人が住んでいる所から200キロメートルも奥の、現地の人も行けないようなところまでも行った。
そこの人々の生活は原始時代のようなものだった。シュロの葉っぱを腰に巻いただけの裸の格好で、気候がいいので農耕をすることもなく、果物など自然のものを採って食べていた。地上が危険なので、家は岩山の木の上に造っていた。そこの木は枝が横に広がっていて、その上に木を組み、シュロの葉っぱで屋根を葺(ふ)いて生活していた。その人たちは文化人が下を歩いていると、上から槍(やり)や弓で狙って着物などをはぎ取っていた。その人たちの槍や弓が外れることはなく、狙われたら逃げることはできなかった。そのためフィリピンの人たちは200キロ以上は山に行けなかった。100キロ先には温泉があったので、そこまでは行っていたと思う。

■日本軍とアメリカ軍
日本軍の話をしたら「君は国賊(こくぞく)だ」と言われ罰せられるので、本当のことは話せない。日本人移民達が弾に当たったり、栄養不良などの人達が「兵隊さん、水を飲ませてくれ」と言ったりすると、日本軍はその人たちに「まだ生きているか」と聞き、とどめを刺して回っていた。
また戦争が終わり、現地で徴兵(ちょうへい)された工兵隊の兵士(彼は第一線に出ることはなかったので戦闘のことは分からないが軍服を着ていた)が移民と一緒に歩いていたら、日本軍は「お前がいたから日本は負けたのだ」と言ってすぐ殺害した。
アメリカ軍は、栄養失調や負傷した日本人移民に食べ物をあげたり、手当てしたりしていた。先に捕虜になった人達は、後から捕虜になった人達よりも太っていた。アメリカ兵は敵でありながら神様のようだった。「アメリカ兵は敵だから怖い怖い」と言っていたが、誰も殺さなかった。こんなことを話すと国賊だと言われる。

■戦時中の体験
戦争の時、日本人移民は集団生活をしていた。私はリゴースというところにいたが、そこから離れた時に捕まったことがある。そこでは殺されず、「リゴースは遠いから、この道をまっすぐ行きなさい」と言われたが、現地の言葉で「そこからどこまで行ったら殺しなさい」と話しているのが聞こえた。私は現地の言葉が多少は理解できたので、危険を感じて途中で引き返した。岩山の数十メートル下に大きな川が通っていたので、「川に沿って行けば海に出られる」と考えて歩いて行くと海に出て、リゴースに向かって1人で歩いて行った。
少し歩くと、お墓の中で現地の人達が町ではないかと思うほど大騒ぎをしていた。見られたら終わりなので、3、4時間ゆっくりと歩いていると自然に声が小さくなって静かになった。立って見てみると、前に集落ほどの大きな墓地があった。騒いでいたのは人間でなかったので私は安心した。
(知念昌徳・与那嶺順子・新垣安子による聞き取り 2009)

■脚注
※1 大里村移民史編集委員会編『大里村史 移民資料編』(大里村役場 2003)によると昭和4年(1929)10月30日に旅券が下付されている。