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宮城徳次郎(昭和7年生まれ 大里・平良)【キーワード】陣地構築/一般疎開/引き揚げ

■勉強らしい勉強ができなかった
戦争の時、私は国民学校に通っていた。学校には日本軍が駐屯(ちゅうとん)していたため、生徒はガジュマルの木の下で勉強したり先生の話を聞いたりしていた。実際には勉強らしい勉強はできなかった。
軍の動員で作業をさせられたこともあった。防空壕の土運びや、「兵隊に行った時の訓練のため」と言って線路の道も造った。与那原の軍港造りでは、現在の県営団地(与那原町板良敷(いたらしき)の西側)あたりの土をトロッコで上級生が運んで、こぼれたものをスコップで海に捨てた。
そうした手伝いがない時には、当時蛇行(だこう)していた川をまっすぐにする河川工事があった。農業の時間に食糧増産の一環として、川の曲がった部分に土を入れて畑を作る作業をさせられた。栄養不足でスコップも重かった。学校には行きたくなかったが、ビンタされるので仕方なく行っていた。

■疎開船でアメリカ軍の見張りをする
私が高等科1年生だった夏休みの昭和19年(1944)8月、家族で熊本県に疎開(そかい)した。南洋に出征(しゅっせい)した兄(幸徳)をのぞく両親と妹の好子(4年生)との4人での疎開だった。
輸送船が9隻並び、護衛艦(ごえいかん)も3隻くらいついていた。攻撃されることはなかったが、輸送船の周りを周回していた護衛艦が離れていくと不安になった。兵隊が足りず、船では尉官(いかん)に命じられて、アメリカ軍の潜水艦の潜望鏡(せんぼうきょう)を双眼鏡で見張らされたが、怖くはなく面白かった。
船は鹿児島県に着いた。平良からは100人ほど疎開者がいて2班に分かれていた。1班は私たちの船で、2班は熊本県の野津村(のづむら)(現 八代(やつしろ)郡氷川(ひかわ)町野津)に行った。私たちが乗った船は輝山(きざん)丸という8000トンの船だった。船では飲み水が少なかったので、ウィンチの蒸気をタオルで包み、垂れた水を溜めて使っていた。飲む水より汗の方が多く出ていた感じだった。この船は戦後も南方からの復員(ふくいん)軍人を運んでいた。船の最後の日のご飯は、少ないご飯を塩水で水増ししてあって、ご飯粒をすくって食べたが本当にまずかった。

■農業や漁業の手伝いをした疎開生活
私たちの疎開先は熊本県の郡浦(こうのうら)(現 宇城(うき)市三角(みすみ)町郡浦)という田舎だった。国からの配給品(はいきゅうひん)だけでなく、田んぼの草取りや稲刈りなどの農家の手伝いをして作物や現金をもらった。麦を植える時の畝(うね)きりが一番きつかった。ひと畝に3つ掘った。仕事はきつかったが、「腰が痛い」と言ったら笑われるので「お腹が痛い」と言った。おやつの時間には饅頭(まんじゅう)をもらって休んだら治り、またお昼まで我慢して働いた。毎日その繰り返しだった。農家は現金では作物を売らなかった。また、役場の人が土地の世話をしてくれて畑もした。量はたくさんでなかったが、ひもじい思いはしなかった。
海で漁も教えてもらった。エビに似たザク ※1 という生き物がいて、穴の中に筆を突っ込むと敵と勘違いして出てきた。
疎開地では機銃掃射が2回あり民家が焼けたが、私たちは被害を受けなかった。疎開先は60帖(じょう)ほどもある寺で、外に小屋を造り、そこで桑の根を燃やして暖をとったので寒くはなかった。また、別に倉庫も貸してもらった。
学校では教科書を読むときだけが標準語で、説明は先生も方言を使っていたので分からなかった。「われ」が「おまえ」、「もらえ」が「急げ」の意味だった。「もらえ」と言われたので反対に走り、「沖縄のバカ」と言われた。疎開中は特に苦しい思いはしなかった。

■沖縄への引き揚げと兄の戦死
熊本には昭和21年(1946)12月までいた。12月に沖縄に戻るときの船は駆逐艦(くちくかん)で船足が速く、一晩(14時間ほど)で久場崎(くばさき)(現 中城村)に着いた。高原(たかはら)(現 沖縄市)のインヌミヤードゥイに二晩収容されてDDTで消毒された。
大里では古堅(ふるげん)に役所ができていて、受け入れは村がしていたのでそこに送られた。親戚が防空壕から運び出したもので小屋を造ってくれていた。分家は爆風で壊されていたが、焼けなかったのでその廃材を使って家を建てた。
南洋に出征した兄は帰ってこなかった。パラオの大和村というところで亡くなったと、戦死公報で通知があった。
(知念昌徳による聞き取り 2009)

■脚注
※1 マジャクのことか。