■海軍の新兵砲手として訓練
沖縄戦の頃の家族は、父の良朝(61歳)、母のカメ(56歳)、兄の盛吉(25歳)、私(20歳)、弟の良康(15)、妹の憲子(17歳)の6人家族であった。兄は私が入隊した後に出征(しゅっせい)して戦死したらしい。
私は昭和18年(1943)7月1日に出征し、佐世保(させぼ)第一海兵団(かいへいだん)に入隊した。15日間ほど、佐世保で軍人との基礎訓練を受けた。
それから台湾の澎湖(ほうこ)島(馬公方面特別根拠地域)で新兵教育を3ヵ月間受け、現地の東尾島 ※1 という防空砲台(砲弾の直径約7センチ)に配備された。大砲は7、8人でチームを組んで撃っていて、私は第1番砲手だった。敵の飛行機の現在地、未来地、秒速等を予想して撃ち、練習の時は飛行機の後ろに付けた白い袋に当たったが、本番ではめったに当たらなかった。「敵機が突っ込んで来た時はその方面に集中攻撃するように」という教育だった。
昭和19年(1944)5月には、佐世保にある高島番岳(たかしまばんだけ)で普通科練習生として2ヵ月間の実戦教育を受けた。
■レイテ沖海戦を生き延びる
その後、8月に駆逐艦(くちくかん)「秋月(あきづき)」に25ミリ機銃の3連装の砲手として上船した。機銃を撃ち終えたらその残倉(ざんそう)(空の弾倉)を1番砲手の私が取り、その後弾を込めるのが2番砲手の役目だった。
10月25日朝10時頃、日本の軍艦とアメリカの飛行機グラマンとのレイテ沖海戦(フィリピン沖海戦)が始まった。
私達の機銃は駆逐艦の甲板(かんぱん)にあり、弾が4秒間で135発出るので、25分で撃ち尽きてしまった。鉄兜(てつかぶと)もなく略帽を被り、波で濡れないように雨ガッパを着て船の上でアメリカ軍の飛行機からの攻撃を受ける羽目になった。アメリカ軍の飛行機からは容赦なく機銃が撃ち込まれた。私達は輸送船が弾を運ぶのを船上で待っていたが、追加の弾は無かった。
アメリカ軍機からの攻撃を受けるうち、船に積まれていた魚雷が爆発して船尾(せんび)が沈んだ。肉片や足が飛んで大変な惨状だった。私達は海に放り出された。人が大勢いる所に助けの船が来るので、私達は固まって軍歌を歌い助けを待っていた。最初は何万人と思えるほど波に浮いていて、大勢の人が「助けてくれ!」「お母さんー」と叫んでいたが、時間が経つにつれてだんだん波にのまれて散っていった。
駆逐艦「槇(まき)」から縄に繋がった棒が私の所に投げられたので、その棒をつかんで引き上げられた。たくさんの船が沈んだので、あたり一面に重油がいっぱい浮いていた。救助された時、私は重油のべったり付いた服をハサミで引き裂いて体をアルコールで洗い流し、傷口を調べられ、消毒してもらった。機銃の弾が左足を貫通してじりじり焼けていたが痛いという意識はなかった。骨は大丈夫だった。耳も爆風で肌にくっつき1ヵ月後まで離れなかった。熱も41、2度あって死にそうだったが助かった。私達の駆逐艦「秋月」の乗組員は全滅に近かった ※2。艦長は緒方中佐(ちゅうさ)だった。
私達を助けた駆逐艦は、5分おきに爆雷(5メートル下で爆発するようになっている)を落としながら進んだ。アメリカ軍が見えなくても爆雷を落とし続けながら進んだ。
■療養と終戦
途中、奄美大島でけが人は戦艦に乗り換えて、広島県の呉(くれ)海軍病院に入院した。そこの病院は負傷兵(ふしょうへい)ばかりだった。
私はそこで3、4ヵ月入院して、その後鹿児島の霧島海軍病院に移った。半年間温泉治療をしながら炭焼きなどをして過ごした。
元気になるとまた軍務に復帰した。昭和20年(1945)3月から8月の終戦まで佐世保の海兵団に入り、従兵(じゅうへい)として働いた。従兵は将校達の食事や身の回りの世話をする係であった。その頃、海兵団には慰問(いもん)にたくさん来ていた。
終戦により、退職するときは位が上がって二等下士官(かしかん)となり退職金が1400円あった。当時は米1俵が600円だったので退職金を元手に戦後、宮崎県で米のヤミ商売をして生活した。
■沖縄に帰るも家族は戦死
宮崎に1ヵ年間いて、みんな自分の故郷に帰るようにと命令が出たので昭和21年(1946)に沖縄に帰った。船は久場崎(くばさき)(現 中城村)に着いて一晩そこに泊まった。久場崎は引き揚げ者で賑やかであった。
両親に会えるのを心待ちにして大里に帰ると、両親は戦争で亡くなっていた。両親は親戚4人と一緒に壕に隠れていた時、「出てこい、出てこい」というアメリカ軍の呼びかけに応じなかったので、壕の中に爆弾が投げ込まれ即死だったそうだ。おばも爆風でやられたが、壕にあった水筒の少しの水を飲みながら奇跡的に助かったそうだ。
戦争で兄や両親を失い家族は3人になった。戦後はきょうだいで仲良く力を合わせて生活してきた。
戦争は、悲惨なものである。
(仲原節子による聞き取り 2008~2010頃)
■脚注
※1 事務局ではこの名前の島を確認することができなかった。
※2 当時、秋月に軍医中尉として乗船していた国見寿彦は、「300人内外の乗組員」のうち、槇に「150名くらいが救助されたこと」、「のちにこのときの戦歿者の数は138名と判明した」と記している。(国見寿彦「「秋月」軍医長 炎の海よりわれ帰還せり」山本平弥『秋月型駆逐艦』潮書房光人新社 2020 122-124頁参照)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015737 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 253-255 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-平良 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |