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新垣文子(昭和2年生まれ 大里・当間)【キーワード】南部避難/収容所

■当間への爆弾投下
当間から避難し始めたのは昭和20年(1945)の3月だった。当時の私は結婚したばかりだった。戦前は、男性が戦争に行く前に子どもを早く作った方がいいということで、親は娘が16、7歳になると許嫁(いいなずけ)を決めていて、結婚するのが早かった。夫は2月に防衛隊に入隊していた。
当間にも爆弾が落とされた。爆弾は1発ではなく、近くにターチナーターチナー(2個ずつ)落ちた。
私のウヤヌヤー(実家)は屋敷に爆弾が落ち、門の脇にあった大きなガジュマルの木の上にいろいろな家財道具が吹き飛ばされていた。爆弾の跡には大きなカー(井泉)のようにぽっかりと大きな穴が開いた(戦後に家を建てる時には埋めた)。
実家にいた人たちはヤーンカイ ウサーッティ(家の下敷きになって)いたものの、家の中に納められていたサーターマルゥウキー(砂糖を詰める丸い桶(おけ))にキタ(梁(はり))がウッチャンカヤーナカイ(寄っかかって)梁が支えられ、5人は助かったが、1人はナカギタ(中央の梁)の下敷きになって亡くなった。
そのとき亡くなったのは那覇から来ていたジュリングヮだった ※1。私の祖父は、育てた野菜や芋をはるばる那覇の辻(つじ)のジュリのところ(遊里(ゆうり))まで売りに行っていた。その関係で、十・十空襲(1944年10月10日)の後からジュリアンマー(ジュリの抱え親(おや))と2人のジュリングヮ(久米島の人だった)が実家に身を寄せるようになり、ジュリングヮの1人が下敷きになって亡くなった。
崩壊した家を集落の人が天井からのこぎりで切り、ワンウットゥからジュリングヮシーティ(私の妹はジュリの子と共に)助かった。
当間の2ヵ所に爆弾が落ちたので、「もうこのシマ(当間)には居られない」と思い、それぞれの家族ごとに掘っていた壕に避難していた。戦況がどうなっているかなどの情報は一切入ってこず、壕の前を行く避難民の人たちが「ヌーヤンドー、クィーヤンドー(ああだ、こうだ)」話すのを聞いて、自分たちも壕を出て避難を始めた。
一方、私の両親は当間の壕からどこにも移動せずにそこで捕虜になった。

■人の後を追いながら南部へ避難
私は当間から玉城村(現 南城市)の船越(ふなこし)、湧稲国(わきなぐに)のナービクブ(湧稲国の南外れの鍋底原にある鍋底屋取(ナービクブヤードゥイ))のサーターヤー(製糖場)、そこから具志頭村(現 八重瀬町)の後原(クシバル)、そしておそらく字具志頭(ぐしちゃん)に行ったと思う。そこにはマギヤー(大きな家)とアシャギヌアタクトゥ(離れ屋があったから)。そこから糸満の真栄平(メーデーラ)集落の2ヵ所に避難した。
真栄平に入る前に水タンクのような大きなものがあり、そこでもカンポウ ※2 が激しくてムイ(木々がこんもり茂った場所)に隠れた。そこは真壁(まかべ)(現 糸満市)のムイだった。山々を歩いて避難し、最後は真壁で捕虜になった。
一緒に避難したお年寄りには足が不自由な人が3人いて、武九おじいがグーニ(足を引きずっている)、おばあ2人はチビスンチャー(お尻を地面につけたまま移動していた)だった。船越に行ったとき、おばあ1人はそこにあったシー(岩)の陰で亡くなってしまった。
一緒に避難した男の人たちは、残った2人のお年寄りを担いで移動した。この2人は後原まで元気だったが、おばあ1人が具志頭で亡くなった。
後原では日本軍の敗残兵(はいざんへい)が1人いて、手榴弾をチャームチヤタンヨー(手榴弾をずっと手に持ったまま)、私たちシンカ(身内)の中にいた。その日本兵は手榴弾をしょっちゅうガラガラさせていて、いつその人が爆発させるかと、アメリカ兵より日本兵が恐ろしかった。
イクサバンジョーヤ、イチチュシユカ シヌセーマシンディルウムイタル(戦争の真っ最中には、生きるよりは死ぬ方がいいと思いました)。
情報はヌーンチカラン(何も入ってこなかった)。後原屋取(クシバルヤードゥイ)では1軒家に避難していていくつもの家族が一緒だったが、その人たちが移動し始めたのを見て「ヌーガラアサヤー(何かあるな)」と思い、私たちも避難のための移動を始めた。チュ、ウーティ イチュルバーヨー(人の後を追っていくわけさ)。

■爆撃の中の水汲(く)み
夏の午前5時はうっすらと明るくなって来るので、夜明け前になると、避難する途中であっても移動することは止めた。暗い間に歩けるうちは歩いて、明るくなると爆撃が始まるので、移動を止めるということの繰り返しだった。爆撃がないとその場にとどまって2、3日そこで暮らすが、爆撃が激しくなるとその場を捨てて歩き続けた。
若者(私ともう1人の姉さん)は、鍋類や食べものをアルブンヤ カタミリヨーンディ イラッティ(あるだけ担ぎなさいと言われて)、大切にバケツに入れて担ぎ、それを真栄平まで持って行った。
避難中、食事は一切とれなかった。自分の壕から持ってきたウムクジ(芋のでんぷん粉)とサーター(黒砂糖)は砲撃が激しくなるとウリンハンナギティ(これも投げ捨てて)、なのにお年寄りが「ナービドーグヤ離スナヨー、ムノー煮ラランドー」(鍋釜(なべかま)は離すんじゃないよ、煮炊きできないよ)と言うので、オーダー(モッコ。沖縄では棕櫚(しゅろ)で編んだモッコが使われた)の中に道具を入れて、チャーカミーヨー(ずっと持ち続けていました)。煮炊きする食物はないのに、トゥスインチャーヤ(お年寄りは)、「ナービヌアラワル ムノー 煮ラリーンドー(鍋があればこそ、煮炊きができるんだよ)」と言ってね。
しょっちゅう、いつ死ぬかということばかり考えていた。避難しているときは何の食物もとっていなかったのに、何の空腹感も感じなかった。それだけ神経を使っていたと思う。食べものがあれば「欲しい」という気持ちも起こったかもしれない。
真栄平あたりでゥフチジャーマーミ(大豆)も出来ていたので、4月くらいだったか、それを採って水で煮て食べたこともあった。
また山の中に避難していたので、水汲みには遠く離れた水汲み場まで砲撃の中を行かなければならなかった。水汲みも私ともう1人の姉さんの役目だった。いつやられるかヒヤヒヤしつつ、あちこちに隠れながら水を汲みに行った。
真栄平のカー(井戸)は坂を降りていく遠い所で、弾が四方八方から飛んできて、水汲み場までとても行ける状態ではなかった。でもお年寄りの言うことは聞かなければいけないし、水はなくなるしで、本当に命懸けだった。あるときは雨が続き、あちこちに水たまりができていたので、「あんな遠い水汲み場には行けない、この水だって澄ませれば飲めるはずだ」と、泥水を汲んでいったこともあった。

■大けがをして捕虜に
一緒に避難していた人たちはけがもせず、元気に真栄平のシー(岩)に身を寄せていた。
避難した中に男の子が1人だけいた。お年寄りたちはその男の子を大事にしていて、5月だというのに丹前(たんぜん)を着せていた。
激しい砲撃の中、日本軍かどこかの大きな車が乗り捨てられていた。私たちは「車の中に乗れば弾は避けられる」と思い、大事にされていた男の子が運転台に座り、私を含む他の4人の若者も次々に並んで座った。お年寄りはそのままシー(岩)に隠れたままだった。
ところが、安全だと思った私たちをあざ笑うかのように車のすぐ側に爆弾が落ち、車に乗っていた5人全員が攻撃を受けてしまった。丹前を着せられていた長男はどこをやられたのか、座ったままの姿勢で亡くなっていた。男の子のお父さんもチンシー(膝(ひざ))をやられて移動出来ない状態だった。
私はそこで腰と左の太ももにけがをした。1人の女性は肺をやられたのか、脇腹から血が流れ、左脇の下からプーカプーカと泡が出るほどになっていた。その人の両親は岩陰にいたが、「もう助からない」と思っただろう。
夜になって男の子を埋葬(まいそう)した。残った人たちは、「私たちも逃げなければ」とけがをしていた人たちをゥッチャンナギヤーイ(置き去りにして)、真壁の森に逃れた。翌朝には捕虜になった。
真壁では、軍の命令があったわけではないが、木の下や岩陰にたくさんの人が身を寄せていた。そこでアメリカ兵が「ホイホイホイ」と呼んで歩いていた。「殺されるのではないか」と恐ろしがって出て行かない人たちもいたが、30~40代の人が「イジティメンソーレ、イジティメンソーレ。クルサリーンドー(出ていらしてください、出ていらしてください。殺されますよ)」と呼びかけていたので、恐かったが皆出ていった。1つの壕から約100人くらいの避難民が出ていた。
私は前日にけがをした太ももがパンパンに腫れ上がって歩くこともできずにいたが、「人の後を這(は)いずってでも出ていかなければ殺されるかもしれない」と思い、這って出て行った。アメリカーター(アメリカ兵)は「おんぶしてあげる」と言っておんぶのしぐさをしてくれたが、恐ろしさもあり、ホーヤーホーヤーして(這いつくばりながら)自力で出た。
捕虜になった人々は具志頭の学校に集められ、そこからめいめい住みかを探して散っていった。私もあてのないままグーサン(杖(つえ))をついて歩いているときにシチャカンチャあたり(南城市知念志喜屋(しきや)か)で知り合いに会い、「あんた方のおじーおばーはカチヌハナ(垣花(かきのはな))にいるよ」と言われ、その人に玉城村垣花に連れて行ってもらった。垣花で親に再会した。

■恐ろしかったアメリカ兵
垣花では通り沿いの瓦家(カワラヤー)にいた。そのとなりには真境名(まじきな)の人たちがいた。若者たちも多いので、アメリカー(アメリカ兵)たちはチョコレートなどを車から投げていた。私たちは、アメリカ軍の車が通ると何か投げてくれると思い、通り沿いにある家に集まっていた。
当時、若者は着るものもなくて、南風原村(現 南風原町)の津嘉山(つかざん)に山ほど古着があると聞いて取りに行ったり、残飯を取りにいったりしたが、それも命懸けだった。それでもアメリカーターヤ、日本人ユカ、人情ヤアイルスタル(アメリカ兵は日本人より人情はあった)。
若者が集まっているということで、夜にはアメリカーがへーリンチャーニ、ナーデージヤタン(アメリカ兵が家に侵入して来て大変だった)。私はけがをしていたが、そうでない若い人たちはすぐに逃げて行き、お年寄りだけが家に残っていた。たまたまそこに私の親戚のハワイ帰りの人がいい具合に居合わせ、アメリカーンカイ、ベンベンベンベンスタンヨー(英語をペラペラと話してアメリカ兵に激しく抗議した)。私はおばあの後ろに隠れていた。
それからというもの、ユックィーネー(夜が更けると)、若者たちは床には眠らずに天井裏に寝ていた。天井はタムヌンイッチョータルバーテー(薪も入っていたが)。私たちの部屋には16、7歳の人が6、7人いたが、ユサンディカラー天井ンカイル クマイタル(夕方からは天井に隠れていた)。
同じ集落の人はアメリカーに強姦(ごうかん)され、戻っては来たものの、そのまま亡くなってしまった。別の女性はやんばるに避難し、並んで歩いていたところをアメリカーに拉致されて強姦された。彼女も戻っては来たものの、チャーキ(直後に)亡くなってしまった。捕虜になったあともアメリカーヤ、ウトゥルサタセー(アメリカ兵は怖かった)。

■何もなかったやんばるでの生活
垣花で暮らしていたが、母に「姑が佐敷村(現 南城市)にいるよ、お前は嫁ぎ先に行きなさい。私たちはグーナランサ(一緒に行動できないよ)」と言われ、佐敷に行かされた。
その後、馬天(ばてん)から船に乗せられてやんばるの大川(おおかわ)(現 名護市)へ移った。垣花にいた人たちははるばる安部(あぶ)(現 名護市)までの移動だった。
やんばるではヌーンネーン キーヌファールカダル(何もなく、木の葉っぱを食べていた)。海のムー(藻)とチーハンプー(つわぶき)、配給(はいきゅう)のいわしか何かの三角缶詰を煮たものも食べた。配給は缶詰やとうもろこしなどで、芋もなかった。
戦後はデージヤタンテー、ヌーンネーンティン 人間ヤイチチュンヤー(大変だったよ。何もなくても人間は生きるもんだね)。店もないし、やんばるでは暇ヤ マンドークトゥ ナービトゥメーティチャーニ ウスチャームゲーラシ。タムヌン マンドーシェー(時間はいっぱいあるし、どこからか鍋を探してきて、潮水を延々煮詰めて薪にする木もたくさんあるしね)。
大川で1ヵ月ほど暮らしたと思うが、やんばるに避難していた姑の実の娘が合流したので、「私は腰と足をけがしていて何も出来ずに足手まといだから、オトゥメーンカイイカヤー(お父さんの所に行くね)」と言って、親たちのいる安部に行った。
安部でも、クェンクェンクェンソールムー(生い茂った藻)とチーハンプー(つわぶき)、ヒージャーヌカムル ウスクディルマギキーヌアシェーヤー、アリ若葉(山羊が食べるウスク〔アコウ〕という大きな木があるでしょう、あの若葉)、道ばたにあるフーチバー(ヨモギ)などがあるかと、安部から嘉陽(かよう)(現 名護市)に向かう道なりに食べられる草を探して歩きまわった。
嘉陽では、師範(しはん)学校を卒業した当間出身の知人が軍で事務か何かの仕事をしていた。当時はパンツも何も無かったので、女性たちは張られているテントの端っこを切ってパンツを縫っていた。針も糸もなかったので、その知人からもらって作っていた。
その知人というのは、私と一緒に避難して爆撃で肺をやられ、「もう助からないから」と置いてきた人だった。彼女は私たちが捕虜になったよりも早く宜野座に運ばれて来たそうだ。彼女のお父さんも足をやられて大量に出血していたので、私たちは「どうせ助からないよ」と言って彼らを置いて逃げた。お父さんの奥さんは、「けがをした2人と一緒に残る」と言ってその場に残っていた。彼らの方が私たちよりも先に捕虜になったということだった。大けがをしていた彼女は戦後も元気に暮らしている。

■戦争は体験した者しかわからない
安部からは大見武(おおみたけ)(現 与那原町)と大城の収容所を経て当間に帰った。ハッサ、ナーナーナーナー、デージヤタンドー(ホントに、ホントに大変だったよー)。当間でも強姦された人がいて、その人も亡くなった。その頃は、アメリカーターヤ、イッペー ウトゥルサタルバーヨー(アメリカ兵はとっても恐ろしいものでした)。
ウングトール 話ヤ ワラバーター5人ウティン ターンカイン チュクトゥバン ィヤン(こんな話は、子どもが5人いるけれど誰にも、一言も話したことがないよ)。言ってみたところで、何の経験もないしわからないから、ィヤンセーマシ クチヤマチ(言わない方がまし)。
おとう(夫)と2人、戦争の話は一言もしたことがない。夫は防衛隊だったが、「誰と一緒だった」などの戦争の話は一切しない。
本当は、クンナハナシェー シーブコーネーンシガル(こんな話はしたくないんだけれど)。戦争の夢を見るから。イクサンディセー アタトーシガル ワカイル(戦争というものは体験した者しかわからないよ)。
(知念昌徳と荻野克子による聞き取り 2009)

■脚注
※1 幼い頃に身売りされジュリの見習いとして暮らしている子ども。
※2 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。