■飛行場建設で「戦争が来るのではないか」と思った
私は父、母、弟の盛助、妹の清子と正子の6人家族で当間に住んでいた。私は青年学校に通っていて、数え18歳の時、一週間住み込みで小禄(現 那覇市)の飛行場造りに行かされた。
戦争が来るのではないかと思ったのは、昭和19年(1944)の2月頃(旧歴の16日だった)だった。特にうわさがあったわけではないが、沖縄で日本軍の飛行場を造っていたのでそう思っていた。昭和19年だったか20年だったかはっきりはしないが、「日本はもうこの戦争で負けるだろう」と思った。
大里は静かだったので、特に戦争の話や、そのための準備などをしなさいという知らせはなかった。だがとなりの南風原村(現 南風原町)では、豆を植える時期だが「戦争が来るので豆を植えても無駄だし、豆もその他の作物も作るな」と言われ、農業をしなかったそうだ。
その頃私には、籍は入れていなかったが許嫁(いいなずけ)がいた。しかし彼は兵隊として出征(しゅっせい)し、帰ってこなかった。
■爆風で家族が犠牲に
南風原村で言われていた通り大里にも戦争が近づいてきて、井戸のある御嶽(ウタキ)(現在の農村公園)には兵舎が造られた。そこが日本兵の食事をつくる炊事場として使用されていたが、アメリカ軍はそのことを知っていたのか、のちに御嶽の前と後ろに爆弾が4個ずつ、計8個も落とされた。
私と長男の盛助は「跡継ぎだから」ということで、家族とは別の安全な壕に行かされた。
昭和20年(1945)の5月4日、10人ぐらいで避難していたうち、親戚の1人が破片でおなかをやられた。腸が飛び出たので、脂汗(あぶらあせ)を流しながら、飛び出た腸を自分でおなかに突っ込んでいるのを見た。あまりにもかわいそうで、見ていて苦しかった。その人が「水を飲ませてくれ」と頼んだので、水を飲ませると「私を池の隣に埋めて」と話し、まもなく息を引き取った。
5月5日、数えで4歳だった正子は爆風で目をやられ、一週間ほど目が開かなかった。正子は小学校4年生の時まで、片目が小さいままだったためかよく転んでいた。だが大きくなるにつれて、いつの間にか両目が同じ大きさになっていったので良かった。
爆風により、清子の足の太ももの上にも土がかぶさってきた。清子はその後遺症で小学校まで足を引きずっていた。運動会でも足を引きずりながら走るので、とてもいやな思いをしたようだ。
私と盛助は別の壕にいたのでけがもなかったが、5月5日の爆風でみんな大けがをしたので「ここにいては危ない」と、母と妹たちはその壕から出て行った。しかし父はそこに残り、爆風にやられ亡くなってしまった。
■いとこと2人で避難
母と子ども3人と私は玉城村(現南城市)の方へ逃げていった。その後、玉城から大里のヤージバルヤー ※1 に行き、そこに一週間ほどいた。そこで母と弟妹たちは壕から出て捕虜になった。
私も一緒に捕虜になろうとしたが、一緒にいた近所のおばあさんが「あなたは若いから生き延びなさい。捕虜にならないでこの壕に残りなさい」と言ったので、いとこと2人で壕に残った。
アメリカ兵が1人やってきて「娘たち2人、心配するな。一緒に行こう」と言ったが、私たちはアメリカ兵の言うことは聞かずに森のほうに逃げた。すると、私たちが入っていた壕に真っ白い煙がまかれていた。あれは毒ガスだったのではないかと思った。そこにいたら助からなかったかもしれない。
その翌朝、別のアメリカ兵に会った。「缶詰を食べなさい」と近寄ってきたが、怖くて森のほうへ逃げていった。
森を逃げていくと、アメリカ兵が鉄砲を上にかざして撃ちまくり、近くを通っていった。私といとこは茅(かや)を体に巻きつけ擬装(ぎそう)して逃げていた。運が良かったのか、1メートルも離れていないところからアメリカ兵が通って見ていたようだったが助かった。
夜間に弾が落ちるところには日本軍がいると思い、そこを目当てにこわごわ歩いていった。いとこは近眼で、「こっちに兵隊が鉄砲向けて立っているよ」と彼女が指差している方向をよく見てみるとバナナの葉っぱだった。2人でほっとして、また歩き続けた。1人だったら怖いが、2人だったので心強く逃げることが出来たと思う。
照明弾(しょうめいだん)がボンボン上がり、真昼のように明るくなった。照明弾が上がった時には「ウートートー、弾は横においてください」と祈った。
しばらく行くと、西原村(現西原町)の我謝(がじゃ)の人達に出会った。身の上話をすると、着の身着のままの自分達に服を着させたり、食べ物を食べさせてくれたりと、とても親切にしてくれた。私たちはこの人たちと東風平村(現八重瀬町)の志多伯(したはく)まで一緒に行動した。
今考えると、あんなに親切にしてもらったのに名前を聞かなかったのがとても残念でたまらない。この人達には大きな恩があるからお礼に行きたいがそれも出来ないので、その人たちの恩を忘れないように、2人でいつも話している。
志多伯までくると負傷兵ばかりが残されていて、元気な兵隊はさっさと他の地域へ行ってしまった。私たち2人は、1人の負傷兵に「一緒に連れて行って」と頼まれて断れず、負傷兵をモッコに座らせて与座川(よざがわ)(現 糸満市)まで担いでいった。与座川の近くで親戚のおじさんにあったので、「もう兵隊さんとは一緒にいけない。親戚のおじさんと一緒に行かないといけないから」と言って兵隊と別れた。
■喜屋武(きゃん)岬で捕虜になる
親戚のおじさんと新垣(現糸満市)に行ったが、おじさんは足のふくらはぎを破片でやられて亡くなってしまった。
その後行った真壁(まかべ)(現 糸満市)では残りの親戚たちと出会い、一緒に逃げることになった。真壁の小さな森には一間(けん)(約1.8メートル)ぐらいの壕があった。爆弾が2つも落とされていたので、アメリカ兵は誰もいないと思っていたのか、芋や薪を取ってきて炊いて食べることができた。もちろん自分たちが植えた芋ではなかったが、食べるものには不自由しなかった。私のいとこは「6日間も何も食べていない」と話していた。
真壁では戦争が激しく、隠れていた一週間は「シューポン、ポン」という爆弾の落ちる激しい音がひっきりなしに聞こえた。私たちのところは襲撃されなかったが、周りが見えなくなるほど白い煙でいっぱいだった。守られていたのは、「ウートートー、敵ヌ弾ヤ横ンカイ(アメリカ兵の弾はどうか私に当たらないで横に反れて下さい)」と祈っていたからだと思う。
真壁からは喜屋武(きゃん)岬(現 糸満市)に逃げた。逃げる時に食料を真壁に置いてきたので取りに戻ると、大きな艦砲弾が落とされて穴が開いていて、そこにいたら全滅していただろうと思った。
喜屋武岬に行くとき、母親が亡くなり赤ちゃんが母親のおっぱいをくわえているのを見た。かわいそうだが自分のことで精一杯で、誰も赤ちゃんを助ける人はいなかった。親戚に会うと「チュウヌヒーン クラチャンヤー(今日の日も無事に過ごすことができたねー)」が合言葉のときだけに、他人を助けるゆとりはまったくなかった。その言葉の裏には、「もしかすると自分も明日には死ぬかもしれない」という意味があるのだから。
喜屋武岬に戻ると、アメリカ兵が沖縄の人たちを1ヵ所に集めて大型トラックに載せ、現在の玉城小学校の場所まで移動させた。着いたのは夜で、テントもなく広場で寝た。
翌日には玉城村垣花(かきのはな)に集められ、百名(ひゃくな)から佐敷村(現 南城市)に移動させられた。佐敷からはやんばるの大浦(おおうら)(現 名護市)に行かされた。
■マラリアや食料難の中で生き抜いた戦後
大浦ではマラリアにかかって亡くなる人が多かった。生きるために、当番の人が見ていない隙(すき)に配給(はいきゅう)の缶詰や乾パンを盗み取るというインチキをすることもあった。乾パンを水に溶かし、1日にそれだけを食べる日もあった。野菜も何もないので、桑の葉っぱの新芽をつんで食べていた。やんばるでもフーチバー(よもぎ)さえなかった。
やんばるからは大見武(おおみたけ)(現 与那原町)に行かされ、そこから大城に移動し、6月から離れ離れになっていた母や弟妹たちに8ヵ月ぶりに会った。大城では私はマラリアにかかって苦しい思いをした。マラリアには昭和26年(1951)まで苦しめられた。
当間に戻ると、私たちの家の周り4軒がブルドーザーで敷きならされて平坦になっていた。おじさんが銭又(ぜにまた)から軽便(ケービン)鉄道の線路の資材を取ってきて家を造った。おじさんの子どもたちは宮崎県に疎開(そかい)していたので、おじさんも私たちと一緒に暮らし始めた。
配給はメリケン粉が多かったので、そばを作ったり、モービル油でてんぷらを揚げて食べた。
戦争中、女性は月のものもなくなっていたが、そのおかげで助かった。
今の若い人に戦争の話を聞かせようとしたら、「こんな話は聞きたくない」というので、戦争の話はしない。
(宮城貞子による聞き取り 2008)
■脚注
※1 現在の上地原バス停付近の地域のことか。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015735 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 241-245 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-当間 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |