■沖縄戦前夜の頃
戦時中は30代だったが、背が低くて兵隊には召集(しょうしゅう)されなかった。私は警防団員だったので軍属(ぐんぞく)も免れた。
戦(イクサ)が来る前は、国の方針で農家は農作物の供出(きょうしゅつ)をさせられていた。集落では生産力に応じて供出の割り当てをしていた。私は消防団の役員をしていた。
村内では防空訓練もしていて、空襲警報がかかると安全なうちに避難できるよう訓練していた。消防団の第1分団は与那原警察署内、第2分団は役所(当時は南風原区にあった)、第3分団は軽便(ケービン)鉄道の稲嶺駅にあった。
私は十・十空襲(1944年10月10日)の前に、妻と子どもを宮崎県に疎開(そかい)させていた。妻は身ごもっていて、沖縄に帰って来た時には娘の美喜枝はよちよち歩きをするようになっていた。
沖縄には私と母(カマー)、長女(美代)の3人が残った。
■平川の山の上で眺めた十・十空襲
10月10日の空襲があった時には与那原も空襲に遭い、警察官や消防団も南風原区にある役場に避難していた。私は平川の後ろの山の上で1日中空襲を見ていた。爆弾が落ちると同時に煙が立つのでよく見えた。
■戦争で亡くなった人々
沖縄戦が始まって避難する前、隣の家の7、8歳ほど年上だった人に、「満雄よ、いくら戦世(イクサユー)でもみだれた頭のままではいけないだろう。あんたが持っているバリカンで散髪してくれ」と頼まれて切ってあげると「ありがとう」と言って帰っていった。彼は翌朝、東風平方面に避難する途中に稲嶺十字路付近で弾に当たって亡くなってしまった。
また、姉が自分の家から100メートルほど離れた家の馬小屋で爆風に遭って亡くなった。私は姉の遺体を担ぎ、家の屋敷内に埋葬(まいそう)してから避難した。
私はアメリカ軍が接近してきてから避難した。私と一緒に壕を掘った親戚の老人がいて、私と一緒に避難してくれるように頼んだが、その人は「私はいくつになるから。今から避難して難儀するか。そこに残っておくよ。もし仕方がなければ這ってでも自分の墓に行って、そこでゆっくりした方がいい」と言っていた。彼はその通り、自分の墓の中でトンビ外套(がいとう)を着けたまま仰向けに寝た状態で亡くなっていた。餓死だったと思う。戦後、その人のポケットを探ると印鑑が入っていた。家族は妻もいたが、どうしたかわからない。
■召集令状(れいじょう)を届けてから壕へ避難
私が平川に行くところ(現在の県道の当間から仲程に行く手前を右に折れる農道)の道の上に造っていた壕に避難する途中、南風原出身の役場職員に会った。その人に「満雄よ、良いところであった。私は各字(あざ)を回って赤紙(あかがみ)(召集令状)を届けなければいけない。あなたも届けてくれないか」と頼まれた。私は「そうですか、そのようなことでしたら届けます」と答え、個人の壕を回って7、8人分の令状(私よりも5、6歳年配の人への令状)を届けた。
当間のうしろの古堅(ふるげん)に近いところに小さな森があり、そこに壕を造っていた3、4人の人に令状を届けに行くとき、アメリカ軍は古堅の後ろの森に旗を挙げ、兵隊もあちこちに立っていた。当間に機銃も撃ち込まれたが、私は令状を届けてから避難した。そのため、私は当間で1番最後に避難することになった。
令状が届いた人たちの集合場所は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)だった。当時は学校に軍が駐屯(ちゅうとん)していたが、出席すると軍は解散していて引き取る軍隊はなく、召集令状も無効になった。
私は母と娘(長女)と一緒に避難していた。壕には他に2家族(屋号 牛上門と仲西)が入っていた。食事は壕の外で炊いていたが、夜は火が目立って危ないので昼に炊くようにしていた。壕では、親戚が弾の破片でけがをしたためウジが湧き、それを1匹ずつ取り出すなどの世話をした。
壕は2、3人の個人が一緒になって掘っていた。私たちの壕は平川に行くところの左側の山にあった。壕は16歳の男性に土を運び出す手伝いをさせて自分で掘った。土の壕で、2、3間(約3~5メートル)の奥行でコの字型に掘っていた。
■通信隊から逃げ出す
その後、大城の壕を借りて2日ほど避難していたが、そこも危なくなったので、東風平村字(あざ)東風平(現 八重瀬町)のヤードゥイグヮーというところに避難した。イーチハルヤー(玉城村愛地(あいち)の屋取(ヤードゥイ))あたりから、馬バクヨーをしていた70代くらいの前ヌ上(屋号)のウスメー(おじいさん)も一緒になった。東風平村から具志頭村(現 八重瀬町)にさしかかるところの壕に避難した。
私とウスメーが食料を集めにうろついていると、日本軍に「通信隊の手伝いをやるように」と呼び止められた。するとウスメーはその兵隊を投げ飛ばして逃げた。兵隊に「お前の連れか」と聞かれたので「行きずりの人だ」と答えると咎(とが)められることはなかった。
私はナービクブ(湧稲国(わきなぐに)の鍋底原にある屋取)に駐屯していた通信隊に連れて行かれた。だが昼食後に兵隊が居眠りしていたので、湧稲国の後ろから稲嶺との境の山の中を通って稲嶺に下り、集落の中を通って家族が避難している東風平の壕に逃げた。東風平には避難した人たちも家に残っている人たちもいた。
避難中、湧稲国の近くに艦砲弾が落ちて来たので高い土手の陰に身をひそめていると、車のタイヤでできたくぼみに水が溜まっていたところ(当時は雨が多い時期だった)に艦砲弾の破片がクルクルと飛んできて、その水溜まりがジュージューと沸騰した。しばらくしてツワブキの葉っぱで破片を掴もうとしたが、熱くてできなかった。
爆弾は田舎町のような密集しているところを狙って落とされていたが、艦砲弾はあたりかまわず撃ち込まれていたので危なかった。与那原はひどかった。
■前原(まえはら)や目取真(めどるま)での収容所生活
私たちは東風平の壕から、玉城村(現 南城市)糸数近くの集落に避難した。それから10日ほどした時、アメリカ兵が「出てこい、出てこい。命は助ける」と呼びかけた。「出た方がいいか」と思って出ようとすると、当間の老人が「君たちは若いから命は大切にしないといけないよ。私は死んでも極楽だから、私が出るよ」と言って先に出て行った。
アメリカ兵はこの老人に「壕に残った人はあなたが出すように」と伝えたようで、この人が「アメリカ兵は『命は助ける』と言っているから出てくるように」と呼びかけ、私たちも壕から出て捕虜になった。
私たちはそれから目取真に収容され、そこから集団で車に乗せられて与那原の浜に送られた。与那原からは船で移動し、具志川前原(現 うるま市)のトゥールガマーのところの収容所に入れられた。船の中では「海に捨てられるのではないか」と心配する人が多かった。
収容所では配給(はいきゅう)があったが、あとからは自分たちで自給した。私は前原に行ったが、「仕事は何をしていたか」と聞かれて「漁師をしていた」と嘘をつくと、漁師と一緒に漁に出された。「早く船から下りなさい」と言われて海に入ったが、泳いでばかりだったので漁師にすぐにばれた。漁師は海の中に半分以上は潜り、息継ぎの時だけ海面に顔を出していた。「君にはできないから早く船に上がれ」と帰されたこともあった。
その後、戦争が終わってしばらくは目取真に収容されていた。大里村内では大城と目取真に避難民が収容されていて、目取真には那覇ややんばるの人達もいた。避難民は集められて農業もさせられていて、目取真では共同でイモを作っていた。目取真から当間に通って畑をしたことも一時あった。
当間の自分の家は焼けてなくなっていた。いつかはわからないが、当間は一晩で全部焼けていた。
■土に埋まったままの父の形見
私が掘った平川に行くところの壕の横穴には父が残したトランクを置いていたが、爆風のため壕が崩れて埋まってしまった。そのトランクは父がハワイから持ってきたもので、中には父の形見が入っていた。父は私が20歳くらいの時にハワイから帰ってきて、しばらくしてから亡くなった。
父は明治37~8年(1904~5)頃に熊本城に勤めていた。彼はラッパ卒 ※1で、ロシア兵の捕虜何千人かを監視しながらラッパ教育を受けた。満州(まんしゅう)が相当激戦だったので、「明日は二〇三高地に参加しなさい」と令状が来ていたが、ロシアが急に降伏したので二〇三高地まで行かずに帰って来たようだ。
その時の明治37~8年の従軍記章(きしょう)があったが、トランクに入れたままである。記章のほか、父の洋服類も入っていた。私たちは本家(ムートゥヤー)なので家系図も入っていたかもしれない。壕に埋まった父の従軍記章を取り出したいと思うが、壕のあった土地は他人のもの(所有者は不明)なのでそのままにしてある。
(知念昌徳による聞き取り 2008)
■脚注
※1 らっぱを吹く任務の兵士
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015734 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 237-241 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-当間 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |