■通信隊の初年兵となる
昭和19年(1944)、満20歳だった私は熊本県の八代(やつしろ)にいて、就職試験を受けて入った清水組(現清水建設)で航空燃料のブタノールを作る工場の建設に携わっていた。同年5月には徴兵(ちょうへい)検査を受けるために一度沖縄へ帰ったが、検査結果を聞かずに熊本に帰っていた。
その後私は沖縄での入隊を命じられたが、10月10日に那覇が空襲を受けたためにそれを知らせる電報が遅れ、19日頃手元に着いたので入隊日が過ぎていた。入隊が遅れると罰せられるので、憲兵(けんぺい)司令部で遅れた証明をもらい、11月7日に軍用船で鹿児島から沖縄に帰った。52隻のうち4隻が客船で、その周りを荷物を積んだ商船でかため、駆逐艦(ちくかん)が護衛(ごえい)していた。鹿児島から沖縄までは一週間かかった。
那覇に着くと、那覇全体が焼け野原になっていた。汽車もないので那覇から当間まで歩いて帰った。家に着いたのは午後10時ごろで、父と妹達と夕食を共にした。当時、当間の家には父の貞助(60歳)、弟の貞次(18歳)、妹の文子(16歳)と吉子(14歳)、祖母のカミー(85歳くらい)がいて、母のカメ(50歳)と弟の貞吉(12歳)、妹の光枝(10歳)は宮崎県へ疎開していた。
翌日、私は仲西(現 浦添市)で、石部隊の師団(しだん)通信有線中隊の、第二中隊六分隊に配属された。これは私が沖縄県立工業学校出身のためであった。部隊は浦添国民学校の校舎を本部にし、住民が疎開(そかい)していて留守だった前田集落(現 浦添市)の民家に泊まった。任務のほとんどは壕掘りだった。
12月暮れ、甲(こう)装備の武(たけ)部隊が台湾に向かった。そのため、石部隊は武部隊の後釜(あとがま)に据(す)えられて那覇一帯を守らされた。我々も前田から首里に移された。
首里では母校の工業学校の実習室で寝泊りしていた。訓練では電話線のつなぎ方、電話機の扱い方を教えられた。食後には2時間ほど精神訓練の話も聞いた。しかし次第に訓練はなくなり、昭和20年(1945)の正月頃から毎日壕掘りをした。もちろん機械は無く、つるはしとスコップ、鍬(くわ)などで掘り出し、モッコ等で担ぎ出す手作業であった。
■攻撃のなか保線、伝令(でんれい)
3月になると空襲がひどくなり、昼間は動けず、夜に壕掘りをした。4月にはアメリカ軍の攻撃が始まった。
アメリカ軍は上陸する前に壕の入口を察知していたようである。私が昼食後に食器を洗うため、隣の民家の井戸に行っていた時に自分の壕が直撃を受けて2人が亡くなり、2人が重傷を負った。私は帰るに帰れず井戸の周りで右往左往していた。夕方帰ったら、「てめぇ、生きていたのか」とビンタを張られた(心配のあまりだったと思う)。
棺おけも無かったので、遺体は毛布に包んで現在の御茶屋御殿(ウチャヤウドゥン)(現 那覇市首里崎山)の南側に埋葬した。重傷の2人は南風原村(現 南風原町)の陸軍病院に送られたが、その後どうなったのかわからない。自分がこうして生き延びられたのは天命か運命か、自分でふり返ってみても分からない。
通信というのは、師団の命令を旅団(りょだん)などに伝達するのが役目である。無線では傍受(ぼうじゅ)されるというので有線で行なっていた。線は50~60メートルずつ離して10本を、川や溝を選んで這(は)わせた。500メートルくらいの間を2人組で終始行き来し、切れていれば保線(ほせん)した。
有線が使用できなくなった頃、文書で伝令する時には4人で行った。沢岻(たくし)(現 浦添市)の大隊本部に行くまでに1人が軽傷を負ったので、民間の壕に入った。その文書は「島尻へ撤退せよ」という命令だったようだ。
■「弾ひとつで命を捨てたい」
首里の石部隊の本部へ5月末に帰り、島尻への撤退が開始された。私が南部出身のため、六分隊が先導となり小隊を島尻まで誘導した。その頃、アメリカ軍は与那原や南風原から首里近くまで攻めてきていた。撤退の際、橋や十字路、三叉路は弾が多いので避けるように言われていた。ナゲーラ橋 ※1も渡らず、川に降りて川沿いに歩いた。夜の10時に首里を出たが、照明弾が上がったら山に隠れるなどして移動したので、津嘉山(つかざん)(現 南風原町)に着いたのは朝の5時だった。津嘉山には昼間に入った。
翌日からは雨天続きで歩くのも大変だった。南風原陸軍病院に入れなかった手足の無い人も道を這(は)っていた。南部へ下がる頃からは「弾ひとつで命を捨てたい」という気持ちがあった。翌晩に摩文仁(まぶに)(現 糸満市)へ下がったが、あまりにも静かで驚いた。だが静けさは1~2日だけだった。
■激戦地を生き延びる
伊原(いはら)(現 糸満市)に移動した時、空いている壕の情報が得られず、墓を開け甕(かめ)を出して中に隠れた。豊見城に兵站(へいたん) ※2があったので、3日間、米などを受け取るため5時間も歩いて通わされた。それで握り飯を1日に1つ食べられるくらいで、もちろんおかずは無かった。みんなに握り飯を分け与え、服も着たきり雀(すずめ)で濡れたら着たまま乾かした。それを繰り返すので白いシラミがわいた。
6月19日、伊原から山城(現糸満市)への移動命令が出て、喜屋武(きゃん)(現 糸満市)の石部隊の砲兵隊(ほうへいたい)へ4人で伝令(でんれい)に行かされた。伝令を終えると明け方になり、攻撃が激しくなったので、その壕の入口で弾除けにされた。
山城の後ろにマヤーガマという大きなガマがあり、昼はその壕に隠れ、夜にそこを出た。その壕の周りにはピアノ線が張りめぐらされて照明弾が付けられていたので、大勢の人が亡くなっている。
栗林という古参兵(こさんへい)と小林分隊長、私の3人が最後まで一緒だった。山城から現在の県の平和創造の森公園の横にある壕に入ると食料もあった。あくる日の昼にその壕がアメリカ軍に見つかり、ガソリンの入ったドラム缶を投げ込まれて火をつけられた。下のほうの横穴で濡らした毛布をかぶり、5時間も煙を吸ったが生き延びられた。
あくる日に壕から出て、またピアノ線に引っかかった。杭(くい)の無いバラ線に囲まれた食料庫にアメリカ兵の監視を潜って入り込み、食料を盗み出した。
山城から与座岳(よざだけ)(現 糸満市)の裏までの3キロメートルを、一晩かけて移動した。一晩は与座岳の上でうろうろして過ごし、あくる日は新垣(あらかき)・真栄平(まえひら)あたり(現 糸満市)の自然壕に入った。そこには4、5人の兵隊がいた。持っていた食料は弾薬だと言ってごまかした。
■日本の降伏を信じなかった
8月15日にその壕に攻撃を受けた。翌日、日本兵が来て「日本が降伏(こうふく)した」と伝えたが、私たちは「降伏しているのに攻撃するわけがない」と言って信用しなかった。
夜は壕で火を焚(た)いた。昼は火種を残した(探してきた衣服を裂いて縄を編むと2メートルで10時間燃えた)。火種に薬きょうの火薬を振りかけるとパッと燃えた。マッチは無く、それで火を点(つ)けて飯を炊いていた。私たちは2ヵ月ほど与座岳にいた。牛島長官(第三十二軍司令官)が亡くなったのも、山城から出て与座岳に上がってから聞いた。
9月末頃は、同じ日本軍でも昼間に歩くとスパイだと思われ日本軍同士撃ち合うので、夜に歩いて連絡を取り合っていた。
ある晩日本兵が来て、終戦について一晩中話し合いをしたが信用出来ず、翌朝、分隊長がその人と屋嘉(やか)(現 金武町)の収容所に話を聞きに行った。夕方になっても帰らないので移動しようと準備していたら2人とも帰ってきた。日本が負けていることを分隊長から聞き、あくる日に壕から出て捕虜になった。
■家族の死と戦後の生活
私は国場(こくば)(現 那覇市)、津嘉山、牧港(まきみなと)(現 浦添市)の収容所などに翌年の6月までいて、そこでの作業中に家族が生き残っていることを知った。その後、収容所の事務所がある大里村目取真(めどるま)から家まで歩いて帰った。家は掘っ立て小屋で、父と妹2人は元気だったが、祖母と弟は亡くなっていた。父達は屋宜原(やぎばる)(現 八重瀬町)でアメリカ軍に捕まったが、逃げて自宅近くの壕でまた捕まって玉城村百名(ひゃくな)に収容され、さらに安部(あぶ)・嘉陽(かよう)(現 名護市)に収容されたらしい。
祖母はやんばるでマラリアにより命を落としたということだった。その後、母達も宮崎から帰ってきた。
戦後は農業をするにもアメリカ兵がうろついて危ないので、集団行動をした。また、集落の役員が古堅(ふるげん)の売店から配給品を持ってきていた。
昭和22~23年(1947~48)の軍作業は、1ヵ月働かされても報酬はタバコ1ボール(カートン)だった。当時は1カートン1ドルくらいだった。
■殺し合わず平和に生きられるようにしてほしかった
軍隊ではしごかれた。戦争当時は若干名で人を動かした。その当時はいいだろうが、5年先、10年先まで考えていたのか疑わしい点が充分にある。日本は追い詰められて戦(イクサ)になったが、他に解決方法は無かったのか。選択を誤ったと思う。殺し合わず平和に生きられるようにしてほしかった。
権力で世の中を動かすのが一番悪いと思う。貧しい人や食えない人を助ける、持っている人から取り立てるということができている国がある。皆がそう考えれば、それに越したことはない。力の強い者が勝つのではなく、弱い者でも生きられると教育してもらい、みんなが実行できるように出来たら良い世の中になると思う。
85歳になって、なぜあの世の中を皆の力で正当なものにできなかったのか、それだけの力は無かったが悔いている。日本はこの10年後にどう変わるのか見たいものだ。
戦後64年、生きながらえてきたのも戦友の犠牲があったからこそだと思う。こういう具合に生きながらえたことを感謝したいと思う。
沖縄の土地には、そのように犠牲になられた方々の遺霊・遺骨が永久に残っていると思う。この英霊の方々を県民あるいは他の国民がいつまでも忘れずに、永久に弔っていただきたい。
(仲原節子・塩田勝江による聞き取り 2009)
■脚注
※1 新川橋の俗称がナゲーラ橋であるとされている。
※2 軍事物資の調達、補給、整備、修理および人員・装備の輸送、展開、管理運用についての総合的な軍事業務。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015733 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 233-236 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-当間 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |