■夜通し歩いて金武へ避難
私の父は私が幼少の頃にこの世を去り、追い打ちをかけるかのように、母は病で他界した。その後、唯一の姉も嫁いで満州(まんしゅう)へと渡ったので、私は孤児(こじ)同然となってしまった。そのため、父方の親戚のおばあさん(後の養祖母)が幼い私を案じて家に泊まりに来てくれ、国民学校5年生に上がった頃、私はその親戚の家に引き取られることになった。
太平洋戦争の真っただ中、養父は兵隊として遠い中国に召集(しょうしゅう)され家を空けていた。私は養祖母、32歳の養母、11歳の義弟、そして8歳と5、6歳の義妹の5人家族と寝食を共にすることになった。
昭和20年(1945)の3月23日は私の国民学校卒業式の日だったが、朝学校に着くと「アメリカ軍の攻撃が始まった」と聞かされた。「みんなで木の茂っている山道を歩いて帰るように」と指導を受け、帰途についたことを覚えている。
その頃、沖縄で地上戦が始まる話が伝わり、私達一家もやんばるへの避難の準備に取り掛かっていた。「財産の管理や家畜の世話もあるから」と、私は養祖母と2人で家に残るように言われたが、「私もやんばるに行きたい」と懇願(こんがん)したため、養祖母1人を家に残して北へと向かうことになった。
慶良間(けらま)にアメリカ軍が上陸した2日後の3月28日、私達は夕方に出発してから夜通し歩き続け、翌朝金武に着いた。
金武では、私達には並里(なみさと)区(現 金武町)の仲間さん宅が避難先に割り当てられていた。そこに宿泊していた時に爆撃が始まったので、全員近くの壕へ移動させられた。
それから2、3日、当間の人達は井戸のような大きな岩陰で1ヵ所に固まっていたが、役場勤めの親戚の人から「危ないから鍾乳洞(しょうにゅうどう)の壕内へ入るように」と指示を受けて従った。
翌朝目覚めると、岩の下に隠れていた他の集落の人達が爆弾の直撃に遭ったようで、大勢の人が亡くなっていた。その後、壕の入り口は塞がれ、壕の中は真っ暗闇になった。私達当間の疎開民は、流れる水に沿って前の人の着物を掴んで歩き続け、明け方になって梯子(はしご)の架かっている所を見つけた。皆でその梯子を駆け登り、どうにかその壕から脱出することができた。
■金武から国頭まで北上
それからも休むことなく逃げ続け、東海岸沿いを北へ北へと進んだ。途中「金武湾(きんわん)からアメリカ軍が上陸している」という噂も伝わり、大勢の人が逃げ惑っていたが、私がこの目で軍を見かけるようになったのは東村の高江(たかえ)に着いてからだった。
金武から宜野座への移動は丸1日かかった。その後、二見(ふたみ)、大浦(おおうら)、瀬嵩(せだけ)、汀間(てぃーま)、三原(みはら)(現 名護市)へと北上していった。アメリカ軍に見つからないように昼は身を潜め、夜になって歩くという毎日だった。
荷物は芋くずと砂糖、少しの米だけだった。宜野座から三原まで何日かかったか覚えていないが、その間は湧き水だけを飲んで凌(しの)いでいた。
三原に到着してからは、三原小学校(現在は閉校)の手前の山に隠れていた。しかし田んぼの水で芋くずを炊いていると、アメリカ軍の偵察機が飛んできて白煙を察知され、この山は焼かれてしまった。この時、日本軍だと勘違いして喜んで手を振ったことを覚えている。
その後、順路は記憶が間違っているかもしれないが、三原から安部(あぶ)、嘉陽(かよう)、天仁屋(てにや)、有津(あっつ)(以上は現在の名護市)、平良(たいら)、川田(かわた)、高江(たかえ)、新川(あらかわ)(以上は現在の東村)、安波(あは)、美作(ちゅらさく)、安田(あだ)(以上は現在の国頭村)へと歩き続けた。この間はずっと、昼間は身を隠し、夜になると移動していた。辺戸岬近くの奥(おく)という集落(現 国頭村)まで来て、ここから先は行き止まりだとわかり、また同じ道を引き返すことになった。
■食べられるものは何でも口にした
避難を始めて2、3ヵ月後の5~6月頃、安波の学校に戻り、そこで一週間くらい過ごした。その間、サクランボや桑の実を採って食べたり、畑から芋を盗んでそのまま生で食べたりして飢えをしのぐこともあったが、基本的に食べるのは1日に1回、芋くずを溶かしたものに砂糖を入れて飲むのがやっとだった。
そんな厳しい毎日が続く中、宮城(現 東村)の山の中でみっちゃんという女の赤ちゃんが栄養失調で亡くなってしまった。
その子を葬った帰りに養母がアメリカ軍に捕まり、田井等(たいら)(現 名護市)の収容所に連れて行かれた。ところが翌日、「子どもだけで山の中にいるので連れて戻る」と言って帰ってきた。私たちは親戚の人と一緒に山の中で息をひそめて動かずにいたので、養母に再会できた。
避難中はまともな食料がほとんど無く、二見にいたときにはソテツも食べた。ソテツの芯は、それを採れた山の持ち主が食べた。私たちは捨てられた残りのでこぼこの外皮を削り、白い部分をカマスに入れて腐らせて、ウジが出たらウジを小川で流し、それを炊いて食べた。ウジが出たら中毒はしないとのことで、ソテツも貴重な食料だった。
また、二見から名護のマヤーガーまで足をのばし、自生していた掘り残しの芋も掘りに行った。その他にもツワブキの葉、桑の葉、桜の葉、浜に生えているカズラに似た葉なども生で食べた。岩に付いている貝を割って炊くと、ゆし豆腐のような風味があった。海のチンボラー(小さな巻貝)なども採り、食べられるものはなんでも口にするしか生きるすべはなかった。
のちに嘉陽に移動してから、みっちゃんの従兄で2歳くらいになるヒロシという男の子も、やはり栄養失調だと思うが、そこで息を引き取った。「ここまで生き延びてきたのに」と残念に思った。
■瀬嵩の収容所で義母と義妹を失う
その嘉陽で、私達が学校に戻ったところでアメリカ軍の捕虜となってしまい、収容所のある瀬嵩まで歩いて連れて行かれた。その後、8月15日の終戦もそこで迎え、さらに12月までこの瀬嵩で過ごすことになった。
瀬嵩の収容所では、アメリカ軍が各村の責任者を通じて、米、トウモロコシ、菓子、乾燥ジャガイモなどの食料品を配給(はいきゅう)していた。私の養母は子どもたちに食べさせるため、自分はほとんど口にしなかった。そのため栄養失調になり、最後は力尽きて帰らぬ人になった。
私達は収容所の配給品では足りないため、三原へ買出しに行くことができた。三原には山城範孝さんという親切な方がいて、「子どもだけで暮らして可哀想だ」ということで、「4人兄弟の1番下の子の子守をしてくれたら芋やカンダバーをくれる」と言うので、毎日瀬嵩と三原の間を通って歩いた。
だがしばらくたってから下の義妹が痩せてお腹が膨れ、運ばれた野戦病院で私の名を呼んでいるというので、子守を辞めて看病にあたった。しかしその甲斐もなく、義妹も短い生涯を閉じてしまった。結局、この戦禍(せんか)をくぐり抜けて生き延びることができたのは、義弟、上の義妹、私の3人だけだった。
■養祖母との再会と帰村
ある日、養祖母が石川(現 うるま市)の収容所にいると風の便りがあった。自分達の所へ呼び寄せたいと思っていたが、「大里に帰ったらまた一緒になれる」と言われ辛抱することになった。
終戦後の昭和20年12月、私が13歳の時に、やんばるから大見武(おおみたけ)(現 与那原町)に戻り、数日後に大城に移った。大城で10ヵ月ぶりに養祖母と再会を果たした時、養祖母は62歳だったが戦争中の苦労の跡が忍ばれ、ひどく白髪が目立っていた。会えた時は、お互いただただ泣き続けるしかなかった。
大里に戻ってからは、大人達と一緒に芋や豆を植えるため、大城から当間へ毎日通うようになった。
■今でも戦争の夢を見てうなされる
毎日農作業をこなしながら勉学への希望を抱いていたが、中国に出征(しゅっせい)していた養父も戦死したため働き手が無く、そのため進学は諦め、私の勉強は義務教育だけで終わることになった。悔やんではいないが、「行きたい学校には必ず行かせて勉強させてあげるからね」と言ってくれた養母が生きていれば高校に行けたかも、という思いをめぐらすことが今でもある。
今こうして戦争を振り返ると、アメリカ兵によって島民が射殺されるのを目の当たりにしたり、死体が倍ぐらいの大きさに膨(ふく)れ上がって田んぼに浮かんでいる光景が目に飛び込んできたり、衰弱して幾人もの人が毎日のように倒れていき、そして彼らを埋葬(まいそう)するために穴を掘ったりしたことなど、実姉にも話せない、誰にも絶対に言えないような話もあり、全部吐き出して楽になりたいと思うこともある。
また、一緒に過ごした人たちは皆知っているが、決して誰も言わない出来事などもあり、私もこれ以上口を開くことは控えたいと思う。戦争はもう絶対に嫌だ。今でもまだ、暗闇の原野を追われている夢を見て、うなされて家族に起こされることもある。
(仲原節子と塩田勝江による聞き取り 2008)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015731 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 229-232 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-当間 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |