■移民先のフィリピンで戦争に巻き込まれる
私は11歳の時に呼び寄せ移民としてフィリピンに渡った。当時は戦争の雰囲気はなかった。フィリピンには12年ほどいて、マニラ麻を作る仕事(原料の芭蕉(ばしょう)を機械にかけて裂く作業)をしていた。
フィリピンでの戦争は日本軍が真珠湾攻撃(1941年12月8日)をした後から始まった。私たちは避難のために学校に収容されていたが、日本軍が上陸してきて、その後にまた家に帰って農業をしていた。その後間もなくして、今度はアメリカ軍が上陸してきた。日本軍は駐屯(ちゅうとん)していたが、アメリカ軍の上陸後はずっと山に逃げる一方だった。
私が21歳の時に夫(長信)は軍隊に現地召集(しょうしゅう)された。その後はどこでどのようにしていたのかもわからず、そのまま帰ってこなかった。
私と長女の信枝の親子2人は山側の方に住んでいた。舅と義兄(長定)は別の場所に住んでいたが、舅が亡くなった後、義兄と私の母(カマ)が私のところに避難してきて一緒に暮らすことになった。実家の家族は海の近くに住んでいたが、そこから追われて荷物を担いで来ていた。
■山の中で被弾(ひだん)する
山の中での避難生活は大変だった。水は多いし流れも速いので、綱につかまりながら子どもを背負い、荷物も担いで避難した場所が2ヵ所もあった。牛なども流されたがそのままにするしかなかった。
生きるか死ぬかの思いで11キロメートルほど逃げのびたが、私はアメリカ軍の攻撃でけがをしてしまった。砲撃が激しくなったので、私はとっさに負ぶっていた信枝を前に抱き直し、その上にかぶさるようにしていたら、砲弾が私の左肩から貫通した。信枝は帯も解かないでそのまま前に引き回してうつ伏せにしていたが、そのままにしていたら信枝が危ないところだった。私は誰かに助けられたが、「ウミチリヨウヤー(諦めなさいよ)、イクサユー(戦世)だからウミチレヤー澄子」と言って私に毛布をかぶせ、みんな逃げていってしまった。私はもう我慢ができず、「もう一発でやられたほうがいい」とヤケになっていた。
攻撃が止み、みんなが「もう澄子は死んだだろうなー」と言いながら戻って来たので、私が「まだ死んでないよー」と言うと、それからみんな集まって大騒ぎしていた。出血多量で歩けずそのまま気を失った私の傷口に、母は持っていた芋(芋は炊かれていた)を押し当てて血を止めていた。やがて、面識のない2人の男に担がれて安全な場所に連れて行ってもらい、生きて帰ることができた。
■弾より怖かった日本兵
私たちはずっと追われて山の中に逃げ込んでいたが、そのとき日本兵から食料を奪い取られた。日本兵はけがをしていた私からも、「今から戦闘に行くから食料を出せ」と言って奪っていった。新垣カマさん(屋号新後新垣小)が「あなた方はどこの部隊ですか」と聞くと、日本兵は新垣さんの喉元(のどもと)に銃剣(じゅうけん)を突きつけた。彼らが本当にやる気構えだったので、「もう最後だ」と思って私たちが騒ぐと、兵隊たちは逃げて行った。こんな状態では戦争に勝てるわけがないと思ったし、その後から日本兵は信用できなかった。日本兵は鬼のようだった。母は「こんな兵隊は日本人ではない、マース(塩)ハンケー(振りかける)」と言っていた。このことはいつまでも忘れることができない。日本兵は弾より怖かった。
■ぎりぎりまで投降(とうこう)しなかった
山では2週間ほど避難生活をしていた。水は川があるので不自由しなかったが、食べ物がなくクワズイモを食べて家族みんな下痢をした。私も40度の熱を出したが、持っていた薬を飲んで1日で治った。
アメリカ軍が後から迫ってきていて、元気になった私もまた川を渡って行ったが、けがをしていたためみんなについて行くことができず、横道に逸れて助かった。兵隊と一緒に逃げて行った人たちは戦死してしまった。
横道に入ってから2、3日後、アメリカ軍からの投降ビラが落とされていた。「もう戦争は終わった。山に入っている人たちは出てきなさい。アメリカ軍は何もしないから」という内容だった。それでも信用できず、殺すつもりで「出てこい」と言っていると思っていたのでなかなか出て行かなかった。
しまいには食料もなくなり、「もう殺されてもいいから出て行こう。どうせ殺されるなら一発でやられた方がいい」という人がいたが、それでも私たち家族は頑張って出て行かなかった。結局、私たち家族は最後に出て行った。
■優しく接してくれたアメリカ兵
捕虜になってテントに収容されたが、アメリカ兵が私1人だけを連れて行こうとしたので、「私1人だけを殺すつもりだ」と思い、柱をつかまえて抵抗した。だが無理やり連れて行かれ、そこにはアメリカ兵だけがいて日本人は私1人だったので、「これは大変なことになった、自分はここで死ぬんだ」と思った。
ところが、アメリカ兵はコーヒーやチョコレートを持ってきて手振りで勧めた。私も手振りで「いらない」と拒否したが、兵隊は自分で飲んで見せて何ともなかったので、毒は入っていないと思って飲むととても美味しかった。「美味しかったから何でもないさー、私は生きているのかなー」と思った。
お菓子も袋に入ったままだったので、何でもないと思って食べた。タバコも吸うように勧められたが、吸わなかったのでお土産に持たせてくれた。「優しいアメリカー(アメリカ兵)だな」と思った。
私が連れて行かれたのはけがの治療のためだったということが後で分かった。それからは毎日治療に行ってお菓子やタバコをもらい、みんなに配ってとても喜ばれた。
■親戚たちと助け合って生きてきた
その後、私たちは長崎県の佐世保(させぼ)に送られ、さらに神奈川県の横須賀(よこすか)に移されて1年近く生活した。横須賀では配給(はいきゅう)生活で、手のひらの分のご飯をもらうため、寒い中毛布をかぶって1時間も立って待っていた。フィリピンは熱帯だったので冬服を持っていなかったし、本土は食料不足だったので苦しかった。
沖縄には昭和21年(1946)に帰ってきた。沖縄はだいぶ落ち着いていて、親戚の人達と助け合っていたので生活には不自由しなかった。私の家族は男性たちがみんな亡くなって女ばかりになってしまったが、私の母が若かったのでとても助かった。母は93歳の年に当間で亡くなった。
(知念昌徳と宮城尚子による聞き取り 2009)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015730 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 225-228 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-当間 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |