なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

宮城スミ子(旧姓宮平 昭和7年生まれ 大里・仲程)【キーワード】やんばる疎開/収容所

■戦前の仲程(なかほど)での暮らし
私は6人きょうだい(兄3人、姉2人)の末っ子として生まれた。父は馬車を持っていて、今で言う運送業者のような仕事をしていたようで、母は農業をしていた。
当時通っていた第二大里尋常高等小学校(現在の大里南小学校の前身)は1学年1クラスだけの学校で人数も少なかった。弁当は芋を持参していた。皮をむいて切ったものに塩をふって持ってきていた人もいれば、そのまま2本ほど持ってきた人もいた。栄養失調の生徒数人には卵が支給されていた。お米を弁当に持って来る生徒もいて、みんな羨ましがっていた。
私は本土疎開(そかい)に行くつもりで、兄の子ども4人を連れて船(浮島丸)に乗ったが、兄に「男きょうだいは戦争に行く(次男は海軍で無事生還した)し、家に残るのが母1人になってしまうので、親のことを考えなさい、お母さんの面倒を見なさい」と言われ、船から降ろされて仲程に帰ってきた。
仲程でも家族が兵隊に召集(しょうしゅう)された家が多かった。また、仲程の大きな家は日本軍に取られ、内地から来た日本兵が駐屯(ちゅうとん)するようになった。みんな本土に疎開してしまって周りに遊ぶ人がいなかったが、日本兵が遊び相手になってくれた。彼らは、沖縄の人が裸足(はだし)で歩いているので「あんたたち裸足でも歩けるの?鉄の足だ」と言って笑っていた。彼らに対して怖いという感情はなかった。

■親戚の子どもたちを連れて金武へ疎開
はっきりとした日付は覚えていないが、昭和20年(1945)の3月、兄・安正(あんせい)(長男)の子ども4人を連れて金武(現 金武町)に疎開した。私は行かないつもりだったし、母も末っ子の私を行かせたがらなかったが、最後は仕方なく行かせることになった。馬車に荷物を載せて午後5、6時頃に仲程を出発し、現在の国道329号線の道を通って、翌日の明け方頃に金武に到着した。
行くときには馬車を動かすためなどで男手が必要だったので、三男の清祐(せいゆう)と、同じ仲程集落の青年1人が一緒に金武まで行った。青年は真面目な性格だったので金武に到着するとすぐに帰っていったが、清祐は「明日帰る」と言って残っていた。しかし翌日に石川(現うるま市)の橋が壊されたため彼は戻れなくなり、一緒に金武に留まることになった。戻っていった青年は、のちに戦争に巻き込まれて亡くなってしまった。
私たちは金武の観音寺の庭にある大きな鍾乳洞(しょうにゅうどう)に隠れた。そこには2、300人は隠れていたと思う。鍾乳洞の出入り口は2つあり、私たちがいた出入口は攻撃されなかったが、反対側にあったもう片方の入口には爆弾が落ちて多くの人が亡くなった。
昼間は鍾乳洞に隠れ、夜は近くの畑から芋をとってきて食べた。家から持ってきた砂糖や油味噌、芋、米もあったが、昼には煙を出せないので夜に炊いた。鍾乳洞には仲程から来た16人で一緒にいて、2、3ヵ月隠れていたと思うが、この人たちとはのちに仲程に帰るまで一緒にいた。

■おばあさんのおかげで捕虜になる
ある日、鉄帽をかぶり鉄砲を持ったアメリカ兵が壕にやってきて「出てこい、出てこい」と言った。みんな横穴に隠れ、「アイエーナー ンーナ ナー クルサリーサヤー(みんなもう殺されるね)」と言って泣いていた。
私は「あれはアメリカー(アメリカ兵)だよ」と言ったが、避難民の中にとても気の強いおばあさんがいて、彼女が先に壕から出て行った。そして、英語がわからないので身振り手振りで、アメリカ兵から「私たちを殺しはしない。食べ物がいっぱいある。みんな捕虜になっているから早く出なさい」と伝えられ、みんなで「捕虜だったら良いね」ということで壕から出た。出た時には「助かった」という気持ちだった。
私たちの壕は子どもと女性ばかりだった。もしも壕に日本兵がいたら出ることはできず、助からなかったかもしれない。

■夢に母が現れる
壕を出てからは、金武の集落の空いている家に十数人ずつぐらいで入っていた。そこでは野菜を作るなどして生活した。
金武では、島尻でけがをした人たちを乗せて宜野座方面へ向かうトラックを見ることができた。私はもしかしたら自分の家族がいるのではないかと思い、子どもを背負い、毎日道ばたの高いところに登ってトラックの中をのぞいていた。
ある日夢に母が出てきて、私の手をつかまえて「みんな元気だから心配しないでよ。お父さんたちもいるから心配しないでね」と言って目をつぶった。この時に「ああ、私のところに来たということは、親もきょうだいもみんないない、自分たちの家もないんだ」と思った。母は私が末っ子だったので心配だったのではないか。それからはトラックを見に行かなくなった。
金武で数ヵ月程過ごしたのち、漢那(かんな)(現 宜野座村)へ移動した。漢那にいた時は、近くに海があったのでムー(海藻)もとって食べていた。缶詰やそうめん、お菓子などの配給(はいきゅう)ももらっていたが、家族の人数によってもらえる量が違っていたため、人数の少ない家族は満足いく量をもらえていなかった。
漢那でも2、3ヵ月過ごし、それから大里の目取真(めどるま)へ移動した。この頃にはまだ仲程には戻れなかった。目取真では茅(かや)でできた仮小屋に住み、目取真に設置されていた学校にも通った。周りの子たちは本土疎開に行っていたので、この学校に仲程の子どもは数人しかいなかった。目取真にいた期間はよく覚えていない。

■必死に生きてきた戦後
仲程に戻った時期はよく覚えていないが、戻ってきた頃には私たちが住む家はあった。元の家は戦争で焼けてしまっていた。
仲程では数軒を残してほとんどの家が焼かれていて、畑しか残っておらず、遺骨もまだあった。当時14歳ぐらいで食べて生活していくのに必死だったため、遺骨収集などがあったかどうかは分からないし、南部に家族の遺骨を収集しにいくことも考えなかった。仲程では配給は無く、芋やネギ、豆をとって生活し、ソテツも食べた。食べ物がないので何でも食べて、お菓子の代わりにサトウキビを食べていた。
仲程に戻ってきてからは社会人として生活した。お金のある人たちは玉城村(現 南城市)親慶原(おやけばる)にあった知念高校に通っていた。畑が残っていたので家では農業をし、宜野湾にあった建築関係の会社(内地の会社だった)で働いていた。この頃は玉城村糸数まで送迎があった。また、那覇まで芋やアイスクリームを売りに行ったこともある。那覇へは津嘉山(つかざん)(現 南風原町)での休憩をはさみながら歩いていった。芋の入った大きな袋(アメリカ製だった)を2つ担いで売り歩き、味噌やカツオ節を買って帰った。
私の親の兄弟たちが南部で戦死したと聞いていたので、20歳を過ぎてから遺骨収集に行った。拾った遺骨はお墓に入れた。
(下村世連、上地美夢、前田義友による聞き取り 2015)