なんじょうデジタルアーカイブ Nanjo Digital Archives

宮城ヨシ(大正7年生まれ 大里・仲程)【キーワード】やんばる疎開/収容所

■子ども2人を抱えて防空壕へ
仲程(なかほど)にも兵隊さんたちが駐屯(ちゅうとん)するようになったが、昼間は陣地構築などの作業に行っていて集落にはおらず、夕方になると帰って来ていた。私たちは女性でもあったし、兵隊さんたちと話をすることはなかった。道ですれ違って挨拶をすることもなかった。
昭和19年(1944)の8月15日には、みんなは本土に疎開(そかい)していた。私は次男を身ごもっていたので疎開に行くことはできなかった。壕掘りにも行けず、隣近所の人達が一緒に手伝って掘ってくれた。
十・十空襲(1944年10月10日)の時には、仲程には空襲は無く、那覇方面の炎上の様子を見た記憶もない。私は壕の中にいて、ただパーン、パーンという砲声が遠くから響いていた。男性たちは「与那原が燃えている」と言っていたが、先に焼けたのは与那覇(よなは)(現 南風原町)だった。
空襲の時には1本松に取り付けたサイレンを鳴らす人がいた。警報で「今度は本物だ」と知ると、私は8月27日に生まれた次男を脇に抱え、4歳の長男の手を引いて壕に走った。だが次男を抱えながらで大変だったので「長男の手を引いてくれ」と叫ぶと、途中から知人の男性が長男の手を引いて壕まで避難してくれた。
住民の防空壕はクガニシー(公民館から現在の農村改善センター北側に広がっていた丘)の中腹にあった。今は造成でなくなっている。
夫は軍属(ぐんぞく)として弾運びに動員させられていた。長男は「父ちゃんは行ったら帰ってこないからもう行かないで」と言っていた。

■金武のお寺の壕へ疎開(そかい)
翌年になり、役場からやんばるへ疎開する命令がきた。私は子ども2人、私の兄の娘で子守役の宮城ヨシコ(10歳)、宮平ウトさんとその家族(女の子4人)、ウトさんの子守の宮城スミコさんの計10人で金武に疎開に行った。行く時にはウトさんのお父さんと義弟のセイユウさんの2人が、私たちの荷馬車に芋や米などの食料品、衣類や布団(ふとん)などの荷物を積んで3日がかりで連れて行ってくれた。
私たちは2月25日の夕方にやんばるに向かった。途中、西原村(現 西原町)の製糖工場が焼けていたので、私は「そこは戦闘状態だから引き返してくれ」と叫んだが、「もう後戻りできない」ということでそのまま進んで行った。馬車に乗ったり歩いたりして、金武のお寺の壕に着いた。ウトさんのお父さん達が島尻に帰る時には、橋も壊されていて海側から帰って困ったと話していた。
私たちは金武のお寺の境内(けいだい)にある壕(鍾乳洞(しょうにゅうどう))に避難していた。壕にいる時は、子ども達に新しい着物を着せ、着物の色と、誰が誰のそばに座っていたかを覚えておいて、はぐれた時など万一の場合にわかるようにお互い情報交換しようと決めていた。金武には食べ物もなく、男性たちが手続きをしてくれて一度は米の配給(はいきゅう)を取った。そこではおかゆばかり食べていた。
ある時、那覇から来たおばあさんが「荷物と別々になって困っている」と話していた。若い人であれば知らんふりもできたが、お年寄りだったので、そのおばあさんに自分達の食べる分のおにぎりを2個あげた。おばあさんは「あなた達は年寄りに行った陰徳(いんとく)の恩恵もたくさん受けなさい」と言っていた。だから私は今でも健康である。あのおばあさんはどうなったか、今でも思い出す。
ある日アメリカ兵が1人で来て、奥にいたあるおばあさんにチョコレートをあげたが、そのおばあさんが手ぶりで「もらわない」というと、自分で食べて見せてそのまま出て行った。

■民家の離れに避難
戦況が穏やかになってくると壕から出た。初めは近くの空き家にいたがアメリカ兵が来ていたので、そこにいると危ないと思い出て行った。
次は別の民家の瓦葺屋(カワラブキヤー)の離れに入っていた。そこの主が避難先から来た時に、「自分たちは島尻から来たがここに入れてもらいたい」と頼んでそこに落ち着いた。16人が頭と足を交互に向け合うような雑魚寝(ざこね)をしたが、ウトさんの足は床からはみ出してしまっていた。
私たちは寂しくて、「畑も手伝わせてください」と頼み、トーナチン(モロコシ・コウリャン)を刈り取って来たり、カズラを植えたり、水を汲(く)んでおいたり、薪になるものを製糖工場の焼け跡から集めたりして、家主たちの手助けをしていた。畑に行く時、子ども達は「ハルカチ、ハルカチ(畑に行くこと)」と言って2人でザルをゆすって遊んでいた。戦後も二度、その家を訪ねて行ったことがある。
飛行機が編隊を組んで飛んでいくと、「島尻ではこんなして戦(イクサ)が行われているんだろうねー」と泣いていた。

■漢那(かんな)での生活
それから漢那(現 宜野座村)に立退きをすることになった。姑と、子守をしていたヨシコの祖母と妹が惣慶(そけい)(現 宜野座村)にいるとのことで、宮平のお父さん達と荷物を持って3日がかりで漢那に移動した。
子どもたちは漢那に置いておくことにし、木の下に蚊帳(かや)を吊って寝かせていたら、長男が「僕たちはアワリ(哀れ、辛い)ドー」と言った。「こんなこと言わないよ、おばあさんと親戚のおばあさん達を惣慶から連れてくるから」と言い含めた。長男はさらに「お父さんはどうしたか」と聞いてきたが、「お父さんは百号芋を家から持ってくるから」と言うとそのまま忘れていた。また、「あっちのチリ捨て場には芋の皮があったよね」と言ってうらやましがっていた。私たちも家から大きな芋を2袋持ってきていたが、少しだけ残して避難民に取られてしまっていた。「みんな持っていないのだから仕方がないね」と諦めていた。
お風呂もなかったので、漢那から並里(なみさと)(現 金武町)のハイカー(金武大川)に水浴びにも行った。川の上側で水浴び、下側で洗濯をしていた。その時に親戚なども見かけたが、戦争が終わった時には見かけなくなった人もいた。私たちが金武のお寺の壕にいた時、近くの壕に高宮城(たかみやぎ)から馬車で来た3家族がいたが、その人たちもだいぶ亡くなっていた。
そのうち、班から何人という形で作業にも出されるようになった。「子どもを連れていないとアメリカ兵に連れて行かれる」と言われていたので、私は子どもを負ぶって参加した。私とウトさんがススキの陰で子どもにお乳を与えていた時、女の人が2人のアメリカ兵に抱きかかえられて連れて行かれたのを見たこともある。「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」の歌を聴くたびにこのことを思い出す。その人たちは畜生(ちくしょう)より悪い。絶対に忘れることはできない。
漢那に移った時に私の父から、父が石川(現うるま市)にいて私たちの安否(あんぴ)を気遣っているという手紙が届いた。父は金武や漢那など3ヵ所の収容所に手紙を出していて、それを親戚が持ってきてくれた。私は封筒の宛名書きを見ただけで飛び上がって喜んだ。「島尻で会えるからどこにも動かないで」と書いていた。

■目取真での収容所生活
それから漢那から玉城村(現 南城市)船越(ふなこし)に移った。そこに3ヵ月ほどいて、「仲程には大城が近いから」ということで大城の収容所に収容された。仲程の人達はほとんど大城に収容されていた。
父は目取真(めどるま)に収容されていて、そこの班長が知り合いだったので、私たちを目取真に移動させるよう頼んでいたようだ。ある日、父が作業に出るために並んでいると、班長が「作業に行かなくていいからすぐに連れてくるように」と言い、父が私たちを迎えに来てくれた。目取真へは私が長男を負ぶって頭に行李(こうり)をのせ、おばあさんはマラリアを患(わずら)った後だったが頭に手ぬぐいを巻き付けて次男を背負い、父は鍋や布団を担いで歩いて行った。目取真では高宮城の人達と一緒に1軒の屋敷に入っていた。
戦争で畑は放置したままだったので、「仲間班」を組んで「今日は仲間、明日は当間、次の日は銭又(ぜにまた)」と交替で畑を耕しに行った。1人は高台でアメリカ兵が来るのを見張っていた。何も事件は起きなかったが、各自で行くのは怖かった。
収穫した芋は配給(はいきゅう)用として供出(きょうしゅつ)していた。班長(南風原町の神里の人だった)が、「あなたはおばあさんも連れて、小さい子どもも抱えてよく頑張っているねー」と、供出用に出した芋を受け取る振りをして持ち帰らせてくれたり、軍服などの配給があるときは良いものから持たせてくれたりした。おかげで私は子どもにカバンを作ったり、洋服を縫ったりして学校にも行かせることが出来た。この恩は絶対忘れることが出来ない。
配給所は仲程、当間、銭又の3ヵ所にあった。

■女手一つで子ども達を育ててきた
夫は沖縄戦で防衛隊に召集(しょうしゅう)され、島尻で亡くなった。
戦後は35銭でサトウキビの下葉取りの日雇いや、三等人夫で仲程のダム工事で働いたり、隣の人達からお金も借りたりしながら子どもを育てた。米一升を、賃金をもらうまで掛けで売ってくれるよう頼んだが断られた時には、翌日食べるものがないので、日が暮れかかっている中でびくびくしながらナンガーラ(饒波川(のはがわ))の側の山手の畑に行って芋を掘ってきたこともあった。子ども達には芋やジャガイモを切ったものを持たせて学校に行かせた。そうしてきたので、子ども達には「お金は簡単に稼げないからしっかりしなさいよ」と言い聞かせてきたし、優しくしてくれた近所の人達との付き合いも長く大切にしてきた。
戦後はくろしお会館(現 那覇市)を出発して糸満まで平和行進にも行った。平和の礎の前で拝んでいたときにテレビの取材を受け、「この嫌な戦争は二度と起きないように、孫の世からは平和を願います」と答えた。あのような戦(イクサ)は二度と起こしてはならない。
(知念昌徳による聞き取り 2008)