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金城美代子(旧姓宮城 大正15年生まれ 大里・仲程)【キーワード】移民/一般疎開/引き揚げ

■女子青年団や託児所での奉仕(ほうし)活動
昭和19年(1944)頃の家族は、祖母(83歳)、義母(50歳)、義兄、義姉、甥(4歳)、義弟2人(国民学校2年と1年)、夫(24歳)、私(19歳)、息子(7ヵ月)の10人家族だった。夫は武(たけ)部隊に入隊していた。
実家(宮城)の両親はフィリピンへ移民し、そこで弟2人、妹2人が生まれた。祖母と弟は沖縄に残っていた。
私は16歳で学校を卒業して、2ヵ年ぐらい字(あざ)の女子青年団の会長をしていた。また、出征(しゅっせい)兵士の子ども達を公民館で預かる奉仕活動もしていた。戦争前ということもあり、親たちの勧めで18歳で結婚し、19歳で子どもを産んだ。

■貨物船で鹿児島へ
「沖縄に戦争が来るかも知れないから、子どものいる家庭は本土に疎開(そかい)するように」と役場から通知がきた。わが家でも義姉、甥、息子、私の4人が本土に疎開することを決めた。その時義姉は妊娠していた。また夫の甥(夫の姉の子で7歳だった)も連れて行った。
昭和19年8月15日に那覇の潟から貨物船(輝山丸)で出発した。お金、着替え、おしめ、芋や食料などを持っていった。
輝山丸は客船の乗客の荷物や牛・馬なども運んでいて、床は船底が見えるほど隙間(すきま)が大きく、子どもや自分が下に落ちないように絶えず注意しなければならなかった。また、その頃はアメリカ軍の潜水艦の攻撃が激しく、「○○丸が攻撃された。甲板(かんぱん)にいたら、攻撃されても何十人かは助かるかも知れない。甲板に上がるように」と言われていた。「どうせ自分たちは泳げないから、甲板に上がっても助からないさ。船と運命を共にしよう」と、ずっと船底で子どもを抱きしめて心配していたが、船は夜が明けると無事に鹿児島港沖に着いた。
船が大きくて鹿児島港に接岸(せつがん)出来なかったので、小舟に乗り換えて上陸することになった。ところが、小舟の船頭さんが酒に酔っていたので小舟が大きく傾き、ひっくり返りそうになった。「大きい船では命が助かったのに、ここでひっくり返って死ぬのか…」「私は長男を沖縄に置いてきて良かった。ここで死なせたら家族に顔向けできなかった」と話す人もいて非常に心配していた。でもどうにか舟は持ち直し、全員無事に上陸することができた。
鹿児島の港には、アメリカ軍の魚雷(ぎょらい)にやられた客船の乗客達の荷物が山積みにされていた。それらの荷物を見て、「疎開を決めたのに途中で亡くなった方々がたくさんいるのだな」と思い悲しかった。
また、沖縄に向かうたくさんの若い兵隊さん達が、船から私達に元気よく手を振っていた。私達も「頑張って下さい」と大きく手を振って見送った。

■熊本県の吉野村へ
鹿児島港では、熊本の役場職員の岩腰さんが私達を迎えに来てくれていた。仲程の疎開者30人は汽車で熊本に向かった。熊本の八代(やつしろ)(現 八代市)で4グループに分かれ、それぞれの寺に引き取られた。
私達親戚10人(叔母親子、義姉親子、義姉の姉親子、義姉の弟、夫の甥の7歳の子、私達親子)は、八代の高台の吉野村(現 熊本県八代郡氷川(ひかわ)町)の寺に身を寄せた。そこでは配給(はいきゅう)もあり、炊事はユイマールで作った。
吉野村は田んぼが多く水の豊富な、景色のいい田舎だった。そこは暖かくて、私達がいた2ヵ年間に一度だけ雪が降った。そこには私達以外にも、沖縄からの疎開者が30人位いた。
地域の人は沖縄の人を見下していて、「言葉も分かるか」と言っていた。私達はみんな20代で年寄りはいなかったので、「こんなに若いね」「ひざまずきもできるね」「言葉もよく分かるねえ」などと言われた。それで私達は「学校を出ているのに」と言っていた。
最初の頃はお寺に供出されたジャガイモやカボチャなどを分けてもらい、沖縄から持って行った芋などを食べて、子どもの世話以外は何もしなかった。だがだんだん地域に慣れ、子どもも大きくなってきたので「農家を手伝うように」と言われた。私達親戚は、子どもの世話と炊事の当番を順番に決めた。当番の時は子ども達がけがをしないように常に気をつけた。
当番以外の人は農家に働きに行くようになった。農家の方は「みんな若いのでよく働く」と言って喜んでくれた。お家ではご飯も十分に無いので、働いた賃金としてお米や野菜をもらい、おかゆなどにして食料の足しにした。3時のおやつがでた時も、自分は食べないで草むらに隠し、子ども達へのお土産にした。子ども達もお土産を心待ちにしていた。
私達は、寒いときでも裸足(はだし)で一生懸命麦踏(むぎふ)みや田植えなどをしたので、農家の人が「沖縄の人は強いね」と感心していた。田植えや稲刈りもした。沖縄では田植えを経験していなかったので、地域の婦人達が勝負をして田植えをしている近くで、ゆっくり苗を植えていった。2ヵ年はそこにいた。仕事を通してだんだん地域の方とも親しくなっていった。

■ラジオで十・十空襲のしらせを聞く
親戚の中には地域の学校に行っている子もいた。昭和19年10月10日の運動会当日、私達はわくわくしながらおにぎりや弁当を作っていた。するとラジオから、「沖縄が空襲に遭い、那覇が焼け野が原になっています」というニュースが流れた。もう運動会に行く気にもなれず、みんな泣いて、この時用意していたご飯はどうしたか覚えていない。「アイエーナー、親達やきょうだい達もみんな亡くなったのではないだろうか、空襲がきているのに…」。
あちらの人が、「あなた方の所から、この那覇という所までは何キロあるの」と聞いた。「2里(り)(約8キロメートル)ぐらい」と答えると「そんなら大丈夫だよ」と言われた。慰めだと思い最初はなかなか納得できなかったが、後のニュースでだんだん「仲程までは空襲はこなかったはずだ」と思えて、やっと安心した。

■友人からの最後の手紙
仲程の友達から1、2回は手紙が来た。私の友達で同級生である比嘉信子さんからの最後の手紙には、「あなたはいいねえ、子どもがいるから疎開ができて。沖縄は戦争だよ」と書かれていた。読みながら、高等科2年の時の波上祭(ナンミンサイ)で、波之上の写真館で2人で3つ編みをして写真を撮った事を思い出し懐かしくなった。
その友達も沖縄戦で自決(じけつ)して亡くなった。同級生10人も一緒だったようだ。戦時中で楽しみや遊びもなく、若くして亡くなってかわいそうに思う。その上、写真も戦争で全部焼けてしまい1枚もないとのことだったので、戦後、私の持っていた写真を友達の家族に差し上げた。

■お寺からの移動と終戦
一緒に行った義理の姉がお産をすることになった時、慣れない土地で、しかも物の無い戦時中なのでどうなるか心配していた。だが役場の岩腰さんが良い人で、配給なども考え、お産用品をそろえて下さったので、義姉は元気な男の子を無事出産することができた。(私達は9年前まで岩腰さんと文通をしていた。戦後に二度、熊本にお世話になった方々を訪ねた。熊本に行ったお陰で生きているので、訪ねて行くととても懐かしい。熊本は第2の故郷である。)
お寺の奥さんはとても優しい方だったが、お坊さんはあまりに口やかましく厳格な方だったので、いつも緊張して生活していた。役所に疎開者だけのお家を造ってもらうようにお願いすると地主が畑を貸してくれたので、2、30人の疎開者だけの長屋(ながや)を、みんなで力を合わせて杉の木で造った。世帯別に区切りがされ、屋根は杉の皮で葺(ふ)いた。台所は別棟にあった。近くには綺麗な川が流れていて、炊事や洗濯に使えて便利だった。
私達は、その長屋の一室に生まれた赤ちゃんを含めて親戚みんなで住んだ。子ども達のおしめの洗濯は一番若い私の担当だった。寒い日は少し大変だったが、若さで乗り切った。
熊本市に爆弾が落とされた時、市内が真っ赤に燃えているのが私達のいる村から見えた。その時、「沖縄もあのようにみんな焼けているのかな、家族や友達はどうしているのかな」と心配しながら見ていた。
昭和20年(1945)8月15日、お寺に呼ばれてラジオから天皇陛下の終戦の知らせを聞いた。私達は、「日本は負けてしまったのか。沖縄は全部なくなったのか。今後の生活がどうなるのか」と、心配でただ涙するだけであった。

■妹と夫が吉野村へ
終戦後も相変わらず私達は、子育てと農作業に追われる日々であった。稲刈りや梨の袋がけ、ミカンの収穫なども初めての経験だった。時々、八代の町に食料や果物などの買い出しに行った。麦ぬかと米ぬかを混ぜて「グンバンカ」という今川焼きのようなお菓子を作り、時々ヤミ市に売りに行った。よく売れたが、売れ残った時には自分達で食べた。
そんな時、フィリピンに実家の家族と共に移民していた母方の叔父が、けがと栄養失調で衰弱して歩けない5歳の妹を負ぶって八代にやって来た。叔父の話では、私の実家の両親、弟2人、妹の5人が移民先のフィリピンで戦死し、末っ子の妹だけが生き残った。そこで長女の私に妹の面倒を看てもらおうと思って連れてきたとのことだった。「この子はほんとうに生きているの」と聞き返したほど、妹は衰弱して動きもしなかった。叔父は、妹を置いてすぐ熊本の叔父の兄弟の疎開先へ行った。
自分の子も小さくてまだおしめも取れず手が掛かる上に、衰弱して動けない妹も夜中から「シッコ、シッコ」と起こすので、抱いてトイレに連れて行かなければならなかった。十分な睡眠もとれない状態が続いた。肉親達の戦死のショックと妹の看病で心身共に疲れ果て、どうしていいか分からず自分の運命を嘆(なげ)き悲しんでいた。それでも、妹が元気になれるように農家に頼んで、毎日卵を1個分けてもらいおかゆと一緒に一口ずつ与え続けた。
農作業と子育て、妹の看護などのため睡眠不足で苦しんでいた昭和21年(1946)5月に、出征して無事かどうか分からなかった夫が熊本にひょっこり訪ねてきた。武部隊にいた夫は台湾で終戦を迎えていた。その時は「夢ではないか」と思うほど驚き、喜んだ。夫が吉野村に来たことは、大里村史の移民編に書かれている。 ※1
夫は吉野村では朝の4時頃から起き出して、田草取りや稲刈りなどの農家の手伝いをしながら私達の生活を支えてくれた。私も子どもや妹の面倒を充分に看ることができるようになり、妹も快方(かいほう)に向かっていった。

■沖縄への引き揚げと家族、友人たちの死
昭和21年11月、熊本に疎開した仲程の人達は一緒に沖縄に引き揚げてきた。長崎県佐世保(させぼ)から船が出て、着いたところは中城湾の久場崎(くばさき)(現 中城村)であった。船から下りる時、沖縄はシラミが多いとの事で白い粉薬を全身にかけられた。久場崎で1泊したが、そこで沖縄戦で亡くなった知り合いの情報をたくさん聞かされた。
中城からはトラックで仲程に帰ってきた。仲程では沖縄に残った家族も皆無事で、小さな小屋を建てて私達を迎えてくれた。もちろん妹も一緒に暮らすことができた。
しかし、沖縄に残っていた実家の祖母と弟は沖縄戦で亡くなっていた。私の実家で生き残ったのは末の妹と私だけなので、仏壇は静岡にいる養子に預かってもらっている。
私達は疎開をしたために死人を見ることもなく元気に終戦を迎えることができたが、この戦争で私を育ててくれた祖母、一緒に育った弟、フィリピンの家族、幼い頃の友人や知り合いをたくさん失い、寂しい事が多い毎日だった。
また、沖縄戦の終わり頃、仲程の若い男女10人が喜屋武(きゃん)岬(現 糸満市)で手榴弾で集団自決をしたそうだ。その時に生き残った人の証言をもとに、その近くから遺骨を拾い集めて燃やし、灰(はい)を分け合って、それぞれの家族のお墓に納めたという話を聞いた。
このような恐い戦争は、絶対にしてはならないと思う。
(仲原節子による聞き取り 2008)

■脚注
※1 『大里村史 移民 本編』に収録されている金城信吉の証言より要約:船が台湾から引き揚げてくる途中、私は沖縄本島で下船する予定であった。しかし船の中でコレラが発生して宮古島や沖縄本島に寄港できなくなった。コレラ騒ぎが治まるまで1ヵ月間海上で過ごし、船は神奈川県の浦賀港に着いた。そこで沖縄連盟から情報を得て、妻子のいる熊本に行った。