■日本軍の駐屯(ちゅうとん)
私は仲程(なかほど)の生まれで、兄が2人、弟が3人、妹が1人の7人きょうだいだった。第二大里尋常高等小学校(現在の大里南小学校の前身)を卒業したあとは豚・牛などの家畜のエサやりなどの家業を手伝っていた。家業は農業が中心だったが、畑仕事はあまり手伝わなかったと思う。私は同じ字(あざ)の男性と19歳で結婚し、20歳で出産した。
仲程でも兵隊さんが宿を取るようになった。兵隊さんたちは夕方に隣保館(りんぽかん) ※1 で湯浴(ゆあ)みをしていたようだ。
■夫の出征
夫は21歳で徴兵(ちょうへい)検査を受け、甲種(こうしゅ)合格だったのでやがて出征(しゅっせい)することになった。「お国のため」とみんな口では言っていたが、内心では「行かないほうがいいのに」と思っていた。
出征前には夫も含め、身内で宜野湾の普天間宮や那覇の波之上の護国神社 ※2 までお参りに行った。祈願(きがん)の内容は漠然(ばくぜん)とした全体的なもので、安全、健康、必勝などを併せて祈願していた。普天間宮までは汽車(当時の軽便(ケービン)鉄道)で稲嶺駅から真玉橋(まだんばし)駅まで行き、そこから乗り換えて普天間まで行った。
出征時には仲程の皆さんと共に稲嶺駅まで見送りに行き、小さな日の丸の小旗を振った。
■父の一言で疎開(そかい)へ
昭和19年(1944)になると村から疎開命令が出て、女性や子どもは内地へ集団疎開することになった。仲程の住民はまとまって熊本の八代(やつしろ)(現 熊本県八代市)に疎開した。沖縄を出発したのは8月15日だったと覚えている。私たちは7人(実母、弟3人、妹1人、私、娘)で疎開した。当時、三男の弟は国民学校3年生くらいだった。その下は2歳違いで、四男の弟は1年生、五男の弟は5歳、妹が3歳、私の娘はまだ生後2ヵ月だった。
疎開するか、またどこへ疎開するかなど、当時はどうしたらいいのか全くわからない状態だったが、私たち7人が疎開することになったのは父の一言がきっかけだった。父は「ヌーガ、イッターガツクルムヌ、カマワルヤルイー。ヘークナーイッターイケ。ワッターナーメーメー、カムサ。(なんでお前たちが作るものだけを食べないといけないのか。早くあんたたち行きなさい。私たちは個人個人で食べるよ。)」と言った。父のこうした判断がなかったら今の私は生きていなかった。父のこの一言があらためて思い出されてならない。
私たちは輝山丸という船に乗ったと思うが、貨物船の船旅はとても辛いものだった。私たちのいた床面の下には牛が積まれていて、3歳の妹が床板の隙間(すきま)に足を取られてけがをしてしまった。高熱が出てしまい、海水で冷やしたいがそれも出来なかった。途中から乗船者は万一の際に脱出するためか、甲板(かんぱん)の方へ上がるように言われていたが、妹をできるだけ横にして休ませたいという思いがあったので、「いざというときにはもう仕方が無い」と決めて船底近くの船室に残っていた。当時私には赤ちゃんが居たので、妹にも授乳をしていた。妹はその後、八代の病院で診てもらって何とか命は助かったが、足のほうはすっかりよくなったわけでもなく、戦後もずっと杖をついて大腿部(だいたいぶ)に金属の支えを入れていた。
船中では配給(はいきゅう)があった。お湯に浸した鰹節(かつおぶし)などを食事にしていた。鹿児島港に着いたのは沖縄を出てから2、3日後だったと思う。
■今泉と吉野での疎開生活
鹿児島県に船で着いたあとは市内の旅館に何泊かし、汽車に乗って熊本県八代の今泉(いまいずみ)(現 八代市坂本町西部今泉)まで行った。今泉では役場職員が出迎えてくれ、こちらの担当者(疎開係)と協議して各家庭の受け入れ先を決めていった。私の知る範囲では皆、お寺に仮住まいすることになったようだった。私たちも仲程から来たほかの3世帯と一緒にお寺に入ることになった。子ども達が全部で10人ほどになってにぎやかだった。
食料は沖縄から持ってきた味噌漬けの豚肉、もみ、酒ビンに入れた油があり、配給もあったが、それだけでは足りなかったので宮崎県まで買出しに行っていた。真境名(まじきな)の親戚が宮崎に疎開していて、地元の農家と知り合っていたので一緒に行った。沖縄から持ってきたお金を使って米や芋などを買った。そうしていたのでひもじい思いをすることはなかったが、食事は粗末(そまつ)ではあった。ただ、麦の皮やヌカを食べていたという話も聞いたので、私たちは恵まれていた方かもしれない。
弟2人は今泉の国民学校に通っていたが、半年も経つと通わなくなった。熊本弁だったので学校の授業もよく聞き取れなかったのではないか。通学も舟で球磨(くま)川を渡らなければならず、難儀ではあったと思う。それ以降は山学校をしていた。
同じお寺に宿泊していた4世帯は交代で子守や炊事、お寺の手伝いなどをしていた。今泉は段々畑(だんだんばたけ)があるような丘陵地だったので広い田畑がなく、地域の農作業の手伝いなどはなかった。
■終戦当時
終戦は今泉で迎えた。当時鹿児島にいた夫は終戦で除隊(じょたい)になり、すぐに私たちのいる今泉に来てくれた。
とにかく食料を確保する必要があったが、今泉では田畑を見つけることが難しく、夫が少し離れた吉野(現 熊本県八代郡氷川(ひかわ)町)に田畑を借りる手はずをつけてくれたので、そこに夫、私、娘の3人で移動して耕作を始めた。吉野では半年ほど生活していたと思う。
疎開先では沖縄の状況が正式にはまったく伝わってこなかった。ただ、「全滅した」という話は皆の間で広まっていた。ある人などは、「熊本の人が『沖縄は全部無くなったよ』というので実際に行ってみたら、本当に何も無い原っぱになっていた」と言っていた。
■仲程への帰郷
昭和21年(1946)に入っていたと思うが、連絡が入って沖縄へ帰れることになった。疎開係が保管していた疎開者名簿が残っていたのできちんと連絡がつき、仲程地区の疎開者は皆、無事に帰ることになった。
沖縄に帰ってきた経路ははっきり覚えていないが、鹿児島から船で久場崎(くばさき)(現 中城村)に着き、そこでコンセットに泊まった記憶がある。収容所などに長らくいたという記憶はなく、すぐに仲程に帰ることが出来たと思う。
仲程に着くと、聞いていた通り、昔の家並みがまったくなくなっていた。そこで、皆で松の木などを山から取ってきてお家を建てた。お家といっても、大抵は松の木の柱に茅葺(かやぶき)屋根、床は竹を敷いただけの質素(しっそ)なものだった。松の木は現在のグリーンタウン手前(西側)の山(現在は造成(ぞうせい)で無くなっている)から取ってきた。私の家は幸い、床だけは普通の木の床板(ゆかいた)を用意することができた。
■沖縄に残っていた家族
沖縄に残っていたのは私の祖父と父、それに長兄、次兄だった。成年男性は一般に疎開は出来なかったようだ。
戦局が激しくなると、兄たちは防衛隊に召集(しょうしゅう)されるなどしてバラバラになったらしい。祖父たちは仲程の住民たちと糸満方面へ向かい、真壁(まかべ)(現 糸満市)の知人宅を頼って逃げていったようだ。祖父は糸満方面で消息を絶ってしまい、今も遺骨さえ見つかっていない。父と次兄は何とか生きて終戦を迎えた。長兄は捕虜になってハワイへ移送され、しばらくハワイにいたのち、昭和21年頃には沖縄に帰ってきた。
戦後も日々の暮らしに追われていたせいか、沖縄戦を体験した父や兄たちから詳しい話を聞くということはなかった。私たちの疎開を後押ししてくれた父は78歳で天寿(てんじゅ)を全うした。
夫は宮平家の三男だったが、宮平のお家の親類は内地へ疎開せず沖縄に残り、多くが亡くなってしまったのは何とも残念である。
(事務局による聞き取り 2008)
■脚注
※1 大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の敷地内にあった建物。
※2 これが波上宮のことか、波之上にある護国寺のことか、あるいは奥武山にある護国神社のことなのかは確認できなかった。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015726 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 207-211 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-仲程 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |