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比嘉ヨシ(大正11年生まれ 大里・仲程)【キーワード】出征兵士/一般疎開/引き揚げ

■日本軍の駐屯(ちゅうとん)と戦時下の暮らし
仲程(なかほど)に駐屯していた兵隊さん達は集落のいくつかの家を宿にしていて、立派な瓦家(カワラヤー)が兵隊さんたちの宿に当てられていた。仲大西(イリ)、大前、新屋、川端小などの家々が宿になり、また、前東大西(イリ)は兵隊の炊事場に使われていた。部隊は武(たけ)部隊だったと聞いている。住民による芋の供出(きょうしゅつ)などもあり、生のままで出していた。
婦人会でも何かと作業があった。青年団もあって揃いの軍服のようなものを着ていた。壕掘り作業などの陣地構築への動員もあった。そうしたいろいろな連絡は区長を通してなされていたと思う。

■夫の出征を笑顔で見送る心苦しさ
夫は現役(げんえき)(現役兵)だったので、内地に配属されて出征(しゅっせい)して行った。
出征する兵士のいる家族は、兵士と一緒に宜野湾の普天間神宮や那覇の波上宮に参拝をした。だいたい月の17日に行くという習慣があったが、その理由はわからない。1回は母だけで、後は家族も一緒に行っていたと思う。何を願うというより、健康、安全から必勝まで、まとめて祈願(きがん)を行うという感じだった。
出発の時には軽便(ケービン)鉄道の稲嶺駅まで見送りに行った。字(あざ)でまとまって出征兵士の見送りをするということはなかったように思う。夫の出征を稲嶺駅で見送る時は「涙を見せてはいけない」と我慢し、絶対に涙は出さなかった。
さらに、沖縄から出発する時には波之上に集合してから行くのだが、そこでも船が出るまで涙は見せず、笑顔で送り出した。私は身ごもっていて、いろいろなことを思い巡らしていた。主人を見送りに通堂(とんどう)(現 那覇市)まで行き、船が見えなくなると思いっきり、うんと泣いた。
出征兵士の家には青年団が月2回、1時間ずつ畑を手伝いに来てくれた。
子どもは夫が出征してから4ヵ月後に生まれた。「戦争が始まるのは近い」と感じていたので、夫が帰って来るかどうかわからないし、私は悲しいけれど覚悟をしていた。
夫には手紙で女の子が生まれたことを知らせた。夫に届くまでに3、4ヵ月かかったようだ。手紙が届いた時、夫は席を離れて自分ひとりでこっそり手紙を読み、みんなが疎開(そかい)して元気だということも知って「ばんざい」と叫んで喜んだそうだ。「無事に生まれてよかった」という返事が来たし、帰ってきてからも「女の子でよかった」と喜んでいた。

■優しく気にかけてくれた義母
夫が出征してからは1500坪の畑を1人で耕した。義母(姑)がとても優しい人だったので、そんなに苦労はしなかった。お義母さんが子ども達の面倒を見てくれたので、私は心配なく畑で働くことができた。
その後、「戦争が始まるから子ども連れは疎開しなさい」という命令が下った。
疎開する時、心のやさしい義母は私のことをいたわってくれた。「お金は100円ずつ準備しなさい」と言われていたが、沖縄はそのとき貧乏で、みんなは5、60円しか持っていなかった。しかし義母は自分のことは切り詰めて、私に最高額の100円を持たせてくれた。今になって、みんなから「いくら持っていった」という話を聞くと、「うちの義母は心のよくできた人だったんだね」と今でも感謝している。
私は夫の先妻の子(5歳)・自分の子(8ヵ月)・親戚の子(12歳)の3人を連れて熊本県に集団疎開することになった。義母も一緒に行こうと誘ったが、義母は「1人は家を守る人がいないといけない」と言って残った。1人で残った義母は辛かっただろうと今でも思う。
出発の日、義母が「1人で3人の子どもを連れての疎開は大変だろうから、長女は置いて行きなさい」と言ったので、私が「私の子ども1人だけを連れて行くのなら私も行かない」と言うと、「それなら連れて行ってちょうだい」と言われ、3人の子どもを連れて疎開した。

■熊本県の吉野村高塚(たかつか)へ疎開
仲程から疎開した人たちはみんな一緒の船に乗せられた。
那覇港から出発したが、那覇港まではどのように行ったか覚えていない。港の近くで4日間は泊まってから出発した。
船では船室の真ん中で男性がまとまって寝起きしていて、私たち女性や子ども達は船室の端の方にいた。板敷(いたじ)きの端には船室の下へ落ちる危険があるほどの大きな隙間(すきま)があって恐ろしかった。
船が鹿児島県に着くと、行くべき場所が割り振りされていて汽車に乗せられた。汽車に乗るのが初めてだったので、トンネルでも窓を開けて乗っていたら、当地に着いたときには顔もみんな真っ黒けになっていた。
着いたところは、熊本県八代(やつしろ)郡吉野村の高塚(現 八代郡氷川(ひかわ)町高塚)であった。宿泊先のお寺は尼さんの住職でとても親切にしてくれた。顔が汽車のすすで真っ黒くなっていた私たちに、「たらいに水を入れてきて顔を洗いなさい」と優しく言ってくれた。台所に入ると、見たこともないほどたくさんのかぼちゃとお芋が山積みされていた。お坊さんが、「これはみんなあなた方に食べてもらうためのものだよ。うちの村の婦人会が持ってきてくれたものだよ」と私たちを歓迎してくれた。寝る時は仏様の前で寝かされていたので、初めは怖かった。
その年は30年ぶりの大雪と言われたが、そんなに寒いとは感じなかった。「沖縄の人が初めて来て、大雪でかわいそうだね」と言われていた。

■現地の人に支えられた疎開地での生活
沖縄からお寺へ疎開したのは5組の家庭だった。5人の中には40代が3人いたが、その当時は年寄りだと思っていた。残りの働ける2人(22歳の私が1番年下だった)がいつも日雇(ひやと)いに行き、3人のお姉さん達が子どもの世話をしていた。仕事内容は、油がなかったため松の油を煎(せん)じて油を作るものだった。役場から手伝うように言われて1日2円で働いていた。畑仕事をした時の給料は、1日200円だったか20円だったかよく覚えていない。もらったお金は野菜を買うなどしてみんなの必要なものに使った。ヤミ米も買った。
私たちが仕事から帰ってくるまで、お寺のお坊さん達もよく手伝ってくれた。うちの娘はお風呂もよく入れてもらい、とても可愛がってもらった。お坊さんは「ほかの人たちが話す言葉がわからない」と言って、私も共通語が上手ではなかったが、何もかも私に話しかけてきていた。
お風呂は五右衛門(ごえもん)風呂だった。沖縄の人は風呂の中に入る前にきれいに垢(あか)を落としてから入るから清潔だということで、「沖縄の人から入りなさい」と言われた。私たちは遠慮して「みんなが入ってからお風呂をいただきます」と言ったが、「早く入りなさい」とすすめられた。
疎開先では防空壕はほとんどなく、戦争のために避難するということはなかった。だが一度だけ、私たちが働いていたところが空襲に遭って火事になり、「火を消すのを手伝ってくれ」と言われた。だが自分の子ども達のところに急いで戻ると、お坊さんが自分のお墓を開けて3人の子どもたちをそこに入れてくれていた。「この子ども達は泣かなかったよ。ほんとに我慢強い子ども達だよ」とほめられた。
私たちがいたところはとても恵まれていて、子ども達もあまりさびしい思いはしていない。上等な米、かぼちゃなどをいただくこともあり、ひもじい思いをしなくて本当にありがたかった。大変お世話になった尼さんとは手紙のやり取りを続け、今は娘さんと文通をしている。
疎開した人たちの中にはヌカ、麦などを食べていた人もいたと聞く。内地と沖縄では野山の植物も違うので、スイセンの葉をニンニクの葉と間違えて食べてしまい、食中毒にあった人もいた。そんなわけで、「フーチバー(ヨモギ)であれば大丈夫」ということでヨモギばかり食べて、後はわずかな配給(はいきゅう)頼りのひもじい思いをした人が多かったと聞いている。
沖縄が十・十空襲(1944年10月10日)に遭ったのは疎開先での運動会の日だった。会場でそのことを聞き、「沖縄は空襲を受けて焼け野が原になり、みんな死んでいるはず」と、運動会の途中から泣き崩れて帰ってしまった。沖縄には生きている人はいないと思っていた。

■戦後の生活
熊本へ疎開していた人たちは、みんなまとめて昭和21年(1946)11月に船で帰ってきた。
私は長崎県佐世保(させぼ)から船に乗り久場崎(くばさき)(現 中城村)に連れて行かれた。私は久場崎で泊まった記憶はないが、一緒に行った人たちは一晩泊まったと話している。そこからトラックで仲程に帰ってきた。
帰って来ると掘っ立て(ほったて)小屋が造られていた。夫の2人の姉さんたちがお芋を100坪あまりの土地にいっぱい作っていたので食料には困らずに済み、ヤミ市に行くこともなかった。配給所は古堅(ふるげん)にあった。大里地区の住民への配給はすべて古堅だったと思う。当時はすでに小学校も始まっていて、子ども達も通学していた。
義母は戦争で弾に当たって亡くなっていた。私は義母に育てられて強くなったと思う。義母だったが良い人だったので、いろいろ教えてくれた。
戦争が終わって、私は8人の子どもを育てるためにいろいろな仕事をした。最初はお米を作って売り、縄(なわ)をなって売った。縄作りでは1日のおかず代を稼ぐことが出来た。子ども達を育てるために必死で働き、豆腐作りや機織(はたお)りなどもしてきた。自分の体験から、「女は我慢してハイ、ハイと素直に人の話を聞いていたら良いことがめぐって来る」と娘たちに教えている。
(宮城貞子による聞き取り 2008)