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瑞慶覧長方(昭和7年生まれ 大里・銭又)【キーワード】軍国主義教育/日本軍の駐屯/陣地構築/南部避難/収容所

■特高(とっこう)に家宅捜索された父の死
戦前は隣組(となりぐみ)が大事にされていて、「とんとんとんからりと隣組~(以下略)」という隣組の歌まであった。実質的には、隣組はお互いを監視し合うという仕組みになっていた。
当時は現在の秘密保護法よりも厳しい法律(軍機(ぐんき)保護法や治安(ちあん)維持法)があり、取り締まりが非常に厳しかった。肉などの贅沢(ぜいたく)なものを売買するだけで警察が来た。
明治生まれの父は農業で生計を立てていたが、当時の銭又(ぜにまた)では初めて学校に行った人で、字の読み書きや計算、日本語(標準語)を話すことができた。字(あざ)で読み書きができた人はほとんどいなかったため、父が字の書記も務めていた。
しかし、字を書けて本を読めるということから、「(父が)社会主義の本を持っているらしい」という噂が流れ、特高警察がある日突然家にやってきて屋敷内を捜索した。彼らはクチャグヮー(裏座(ウラザ))にあった野菜などの種や豆、黒砂糖などを入れている甕(かめ)にまで手を突っ込んで探していた。家宅捜索は2回ほど行われたが、そのような本を持っていないので見つかるはずもなく、それ以降特高警察が来ることはなかった。
生真面目(きまじめ)な性格だった父は疑いをかけられたことでショックを受け、不眠症になってしまった。約半年後には全く眠れなくなってしまい、昭和19年(1944)のある日、夜中に家を飛び出し、糸満の海で自殺してしまった。

■天皇の赤子(せきし)・一億一心
私が入学した頃の学校名は第二大里尋常高等小学校(現在の大里南小学校の前身)だったが、昭和16年(1941)頃に戦争が勃発してから校名が大里第二国民学校に変わった。教科書も「ススメ ススメ ヘイタイススメ」などの軍国主義的な内容だった。
また、当時はガダルカナル戦線で戦死した与那国出身の大枡大尉(おおますたいい)が軍神(ぐんしん)として話題になっていた。「大きくなったら大枡大尉のように戦争に行って天皇のために死ぬ」ということがモットーのようになり、そうした内容の貼り紙が校舎内にも貼られていた。
校舎はボロボロだったが、「御真影(ごしんえい)(天皇・皇后の写真)」を安置する奉安殿(ほうあんでん)は鉄筋コンクリートで頑丈に造られていた。登校するとまず「宮城遙拝(きゅうじょうようはい)」といって、皇居(こうきょ)の方向を向いて最敬礼(さいけいれい)をした。
教育勅語(ちょくご)は1年生の頃から、よく意味も分からないまま覚えさせられた。覚えないと家に帰してもらえなかった。方言(ウチナーグチ)も使うだけでスパイ扱いされたので、日本語(標準語)で話すよう徹底されていた。方言を使うと、首から方言札(ほうげんふだ)を下げさせられた。
日本人はみんな天皇の赤子(せきし)(子ども)であり、敵であるアメリカとイギリスの鬼畜生(おにちくしょう)(鬼畜米英(きちくべいえい))と戦うには一億一心(いっしん)(すべての日本人が団結すること)だ、ということが学校教育や国全体のスローガンになっていた。

■学校を追い出されて陣地構築
昭和19年に日本兵が学校を兵舎として使用するようになってからは、児童は学校を追い出されてムラヤー(公民館)で授業を受けた。1つのムラヤーにだいたい2、3ヵ所の字(あざ)の児童が集まって授業を受けていて、銭又・平川・高宮城(たかみやぎ)の児童たちは高宮城のムラヤーで授業を受けた。ムラヤーには鐘も時計も無いため、50分くらいで消える線香を使って時計代わりにしていた。
1、2時間くらいは授業をしたが、3時間目からは日本軍の軍作業の手伝いをさせられた。低学年は1年生も毎日鎌(かま)を持って行き、壕の落盤(らくばん)防止のための枠組みに使う琉球松(中南部の琉球松の多くが伐採された)の木の皮をはぐ作業をしていた。当時の子ども達は馬やヤギの草刈りなどで鎌の扱いに慣れていた。
高学年(5、6年生)は壕を掘る作業だった。この辺りの土壌はクチャ(粘土質の灰色の土)なので、幸い掘りやすかった。男子生徒がショベルやツルハシ(当時はジュウジと呼んでいた)で掘り、女子生徒はザルやモッコなどで土を運び出していた。作業は午後5時ごろまで続き、平川壕や湧稲国(わきなぐに)のあたりなど、いくつもの場所の壕を掘った。
昭和20年(1945)に入るとムラヤーにも兵隊が駐屯(ちゅうとん)するようになり、授業はサーターヤー(製糖場)で行うようになった。しかし授業とは名ばかりのもので勉強はできず、ほとんどが作業への動員になっていった。

■隣保館にいた女性と連隊長
現在のイオンタウン南城大里店の場所に大里南小学校があった頃の、体育館側の防球ネットが立っていた場所は戦前は高台になっていた。そこには隣保館(りんぽかん)が建っていた(隣保館は大里第二国民学校の敷地内にあった)。隣保館の建設には児童らは関わっておらず、いつの間にか建っていた。あまり大きな建物ではなかったが、瓦葺(かわらぶき)で建物の側面から出入りすることもできた。「隣保館」と書かれた看板もあった。
当時は子どもだったので隣保館のことはよく知らないが、隣保館は主に国防婦人会(こくぼうふじんかい)の人たちが利用していた。中には改良(かいりょう)カマド(薪でおこした火が漏れないように土で固めたカマド)が備え付けられていて、料理・衛生(包帯の巻き方など)・洗濯(洗濯板を使った洗い方)など、生活に関する講習会が開かれていた。また、子どもたちを集めて遊戯(ゆうぎ)をするなど、現在の保育園・幼稚園のような役割を果たすことも時々あった。隣保館を管理している人がいる様子はなかった。私は隣保館が使用されているのを時々のぞき見したり、空いているときに中に入ったりしたことはあるが、隣保館を児童が使用するようなことは無かった。
隣保館も昭和19年頃から日本軍の兵舎として使用されるようになった。駐屯していた日本軍の連隊長は、「慰安婦」らしい妾(めかけ)と思われる女性と、白昼に堂々とサイドカーのついた車に乗っていた。この女性はおそらく辻(つじ)(現 那覇市)から来た綺麗な人で、隣保館で生活していた。連隊長が隣保館にいる女性のもとへ通っているという感じだった。

■目取真(めどるま)の慰安所(いあんじょ)
目取真には2階建ての瓦葺の家があったが、そこが日本軍の慰安所とされた。そこの「慰安婦」たちは「朝鮮ピー」と呼ばれていた。
大里第二国民学校に駐屯していた兵隊が、夕方5時を過ぎると裏門に立っている守衛に向かって敬礼(けいれい)をしながら、「只今(ただいま)からピーを買いに行きます」と言っているのを見たことがある。確認してみようということで、一緒にいた友人らとその兵隊のあとを追うと目取真の慰安所に着いた。湧稲国(わきなぐに)で防空壕掘りをした帰りにもそこを通っていたが、いつも兵隊が順番待ちをして並んでいた。

■大里村内の大砲陣地
大里村内だけでも50ヵ所くらいの大砲陣地があったのではないかと思う。数メートルから50メートルほどの丘(ウチナーグチでムイやモーと呼んでいた)のてっぺんには高射砲陣地(こうしゃほうじんち)が造られていた。
丘のふもとの多くにはカノン砲(15糎(センチ)砲だったと思う)が配置されていた。当時は「加農(カノン)式」といい、日本製のカノン砲は性能が良いということで非常に自慢されていた。
トゥンチヌモー(ノロ殿内(ドゥンチ)の手前から見える丘)では、丘の側面に慶良間(けらま)方向に向かって4門、中城湾向きに5、6門ほどの砲が置かれていた。私の家の畑にも4つの大砲陣地が造られていた。銭又の隣の平川には6ヵ所あり、南風原区の現在の内原公園の向かいには大砲と高射砲があった(現在も石垣の跡が残っている)。
昭和20年に入ると兵隊が増強され、銭又の公民館や民家にも兵隊が駐留するようになった。銭又では8軒の家が兵舎になり、私の家にも8人の通信兵がいた。当時は食料が十分になく、夜中に兵隊たちが「おばさん、ひもじいよー」と言うので、母は彼らに食べ物をあげていた。
軍国教育の影響で軍人に憧れていた私は、よくわが家の馬(3頭いた)に乗っていた。軍人の中で馬に乗れるのは大隊長ぐらいだったため、兵隊たちから「隊長さん」というあだ名を付けられた。

■日本兵に壕を追い出される
昭和20年3月23日、この日は学校の卒業式や修了式の日だったが、アメリカ軍からの爆撃が始まった。家に駐屯していた兵隊はこの日に家を出て行った。
その日以降、攻撃は朝の7~8時頃から日が暮れるまで続き、夜間は艦砲射撃(かんぽうしゃげき)を受けた。住民は、家の近くの丘などに各自で掘った防空壕に避難した。1つの壕には4、5世帯が避難していて、前年の十・十空襲で家を無くした那覇の人たちも入っていた。私の家族(当時は母、3歳年上の姉、私、3歳年下の弟)は、糸満や首里から来た5世帯と一緒に壕に避難した。
食料は芋や豆など、蓄えていたものを壕の中に持っていき、夜になると畑に行って芋を掘るなどして調達した。
5月23日には私の家の壕に日本兵がやってきて、壕を出るように言った。困った母は「ここを出ても行く当てはないし、どこに行けばいいのかも分かりません。兵隊さん許してください。子どももいて、こんな状況の中で出て行っても終わりだから」と兵隊に言ったが、「軍の命令は天皇陛下の命令だ。天皇の命令に反する奴は国賊(こくぞく)だ」と言われた。母は驚いて謝罪し、「出ていく準備をするから」と一晩だけ時間をもらった。壕を出たらいつどこで誰が死ぬかも分からないし、はぐれてしまう可能性もあるので、親が死んでも生きられるよう、1人1人のかばんと背嚢(はいのう)(背中に負うかばん。リュックサック)に味噌、塩、黒砂糖、砂糖、芋や乾パン、鯖缶(さばかん)(非常に大事にしていた)などの食料とお金を入れ、防空頭巾(ずきん)をかぶり、翌日に壕を出た。

■南部へと避難
平川に母方のおばさん達がいるのでそこに行ってみたが、その家族も壕を追い出されていた。彼らと合流して玉城村(現 南城市)の屋嘉部(やかぶ)に住んでいる親戚を訪ねたが、その一家も追い出されていた。糸数アブチラガマにも行ったが兵隊がいっぱいで入れなかった。仕方がないので結局、玉城村船越(ふなこし)の自然岩の下(目の前は川だった)に隠れた。5月27日は海軍記念日なので、日本軍の神風特攻隊(かみかぜとっこうたい)が助けに来てくれると期待していた。だがそれどころではなく、アメリカ軍がどんどん大里村に侵攻してきていた。
28日には別の親戚を頼って具志頭村後原(クシバル)(現 八重瀬町)に行ったが、そこでも人々は日本兵に壕を追い出されていた。仕方なくそのまま南下したが、どこに行っても壕に入ることができなかったため、高嶺村真栄里(まえざと)(現 糸満市)の田原(たばる)ヤードゥイの農道の下に急いで壕を掘って隠れた。平川や屋嘉部の親戚も合わせ、この時には16人で避難していた。

■惨状だった真壁・米須
6月16日頃の朝早い時間、豆腐を作るために豆を絞るときの「ギリギリギリギリ」という金属音のような音が聞こえた。壕の外を見ると、USAと書かれた緑色の戦車が停まっていた。出て行ってアメリカ兵に捕まるのは恥だと言われていたので、覚悟を決めて自決しようということになった。
屋嘉部で合流した瑞慶覧チョウソウというおじさんは元防衛隊員で、防衛隊だった時に手榴弾を2つもらっていた。手榴弾の使い方は当時学校でも教わっていて、1つは自決のため、もう1つは敵に投げるためのものだった。この壕にアメリカ軍が入ってきたら自決を決行しようとしたが、アメリカ軍は道の下に造っていた私たちの壕に気がつかなかったようで、壕の上を通り過ぎていった。
それから壕を出て、明るい時間になると死んだふりをしたり、匍匐(ほふく)前進をしたりしながら進んで行き真壁(まかべ)(現 糸満市)まで来た。しかしそこで、母の兄であるおじさんが「どうせこの戦(イクサ)は勝てない。死ぬなら自分の故郷に帰って死にたい」と言い始めた。「そんなことをしたら全滅する」と説得しようとしたが聞き入れてもらえず、結局おじさんの言うとおりにすることになった。
だが、真壁から500メートルほど進んだアラカチメーデーラ(現在の糸満市新垣・真栄平あたり)で岩陰に隠れていた時に艦砲射撃に遭い、一緒に避難していたおばさん、糸満で一緒になった6年生の子、その子がおんぶしていた3歳の女の子など6人が亡くなってしまった。おじさんも破片が当たって大量に出血していた。
「やはりこれではダメだ」ということで再び真壁に戻ったが、真壁は死体だらけであった。畑から赤ちゃんの泣き声がしたので照明弾の明かりで見てみると、亡くなったお母さんにおんぶされたままの赤ちゃんが泣いていた。どうすることもできず通り過ぎたが、今でもこの赤ちゃんのことや泣き声が脳裏(のうり)に焼き付いている。
真壁から米須(こめす)(現 糸満市)へ行ったが、その途中のワイトゥイでは、日本軍の壊れたトラックの下に隠れていた人たちがみんな爆撃で亡くなり、体がバラバラになっていた。米須からは本当に惨状(さんじょう)だった。

■日本兵に荷物を奪われる
隠れるところもないので小渡(おど)(現 糸満市)へ移動した。アメリカ兵も近くにいるので、夜だけでなく昼間も逃げ回らなければならず、母は逃げている途中に飛んできた破片が頭に当たってけがを負った。
小渡で避難している途中、攻撃を受けて穴が空いた水タンクに隠れている日本兵がいた。手招きをされ、「いつも追い出されてばかりなのにありがたい」と思って入って行った。日本兵からは水ももらったので、お礼にかばんの中の食料を少し分けた。
6時頃になり、アメリカ兵が近くに来ているということで逃げようとしたが、持ち歩いていたかばんが無くなっていることに気が付いた。「兵隊さん、僕のかばんは?」と聞くと「誰がそんなの分かるか!」と言われた。本当は助けるために呼んだのではなく、かばんの中身が欲しかっただけなのだとこのとき分かった。
仕方なく、今度は摩文仁(まぶに)(現 糸満市)へ行った。現在の平和祈念公園の駐車場には、当時はサーターヤー(製糖場)の大きな井戸があったが、その周りには何百もの死体があった。恐らく、けがをした後に水を飲んで亡くなった人たちだと思う。そのような井戸でも仕方なく、そこで水を飲んだ。現在の平和の礎があるあたりでは艦砲射撃に遭い、姉が生き埋めになってしまった。命は幸い助かったが、姉はその時の後遺症で現在でも足を引きずっている。

■投降を呼びかけた人の虐殺
それからギーザバンタ(現 八重瀬町)のあたりまで来たが、アメリカ軍が見えたので、現在の沖縄工業健児之塔があるあたり(現 糸満市摩文仁)へ戻った。そこにいた時にちょうど雨が降ったので、久しぶりに雨水を飲んだ。木々は焼かれていたが、防風林として植えられていたソテツ、アダン、相思樹(そうしじゅ)などの幹の部分だけは所々残っていたので、その間に隠れていた。
6月20日は朝から攻撃が全く無かった。約3ヵ月の間、このようなことはなかったので「おかしいな、どうしたんだろう」と思っていた。ギーザバンタには追い詰められた避難民がたくさん来ていた。朝6時半頃、現在の平和祈念堂の奥の丘には、暑かったので上半身裸のアメリカ兵が100人ほど並んでいるのも見えた。
するとアメリカ軍がいるところから、ふんどし姿で白旗を持った30代くらいの沖縄のおじさんが1人、こちらに向かってやってきた。白旗は降参(こうさん)旗ということなので、みんなが怪訝(けげん)そうに彼を見ていた。彼は「私はアメリカ軍の捕虜になって、今収容所に入っている。皆さんを助けるためにこの旗を持ってきた。男はふんどしで、女は着物だけで良い。収容所では食料も衣類も配給する。私がこの旗を持って案内するから、安心してついてきて下さい」と言った。
すると、岩陰から日本刀を持った日本兵3人が出てきて、「売国奴(ばいこくど)!スパイ野郎!」と怒鳴りながらこの人の首を斬り、虐殺してしまった。毎日何万という死体を見てはいたが、生きた人間が生きた人間の首を斬るという、こんなに恐ろしいことはなく、言葉も出なかった。女性たちはブルブル震えていた。殺された男性の言うことを聞いて逃げようとした人もいたが、日本兵が追いかけて斬ってしまった。
アメリカ兵はこの様子を双眼鏡(そうがんきょう)で見ていたが、助けようがないと思ったのか、機関銃や火炎放射器(かえんほうしゃき)などで攻撃してきた。私たちは諦めてギーザバンタの絶壁を降り、海岸の岩の間に隠れた。戦後に子どもや孫たちをその場所に連れて行ったが、どのようにしてあんな絶壁を降りていったのかわからない。とにかく「火炎放射器で焼かれるよりは」という思いだった。人間は追いつめられるとすごい力が出るものだといまだに思う。

■本能との葛藤(かっとう)と投降(とうこう)
海岸では水は豊富だったが食べ物がないので、アメリカ軍が捨てた期限切れの食べ物やレモンの皮、パンの耳などを拾って食べていた。
ところが2、3日経つと、陸は野戦(やせん)ジープ、海は上陸用舟艇(しゅうてい)から毎日朝昼晩、「出てこーい、出てこーい。心配なーい」と優しい声で投降を呼びかけるアナウンスが聞こえるようになった。初めは「絶対出るまい」と思っていた。しかし3日目くらいからは空腹に耐えられなくなり、皇民化(こうみんか)教育で洗脳された自分と、「生きたい」「食べたい」という人間の本能の葛藤が始まった。何も食べていないので一週間目ぐらいからは幻覚も見るようになった。誰かが「出てみようか」と方言で提案し、投降を決めた。
岩の間から出て、最初に会ったのは日系2世のアメリカ兵だった。顔立ちが自分たちと似ているので、「兵隊さんも捕虜になったんですか?」と聞いてしまった。次に黒人兵が出てきて私たちは連れていかれた。舟艇の中には白人兵がいた。
そこでは私と同じくらいの年頃の少年がけがの治療を受けていた。崖で足にできた小さな傷が、一週間ほど経つと大きな傷となって膿(うみ)を持ち、ウジ虫も湧いて壊死(えし)しかかっていた。そのウジ虫をピンセットで取りながら治療していて、「アメリカ兵は話に聞いていたような人たちではないな」と思った。

■収容所での生活
舟艇は具志頭村港川、長毛(ながもう)(現 八重瀬町)に到着した。舟艇を降りるとアメリカ兵から水をもらった。カルキで消毒された水だったようだが、それまで井戸水しか飲んだことがなかったので、毒殺されると思ってみんな吐き出した。
そこからトラックで玉城村當山(とうやま)の仮収容所へ連れて行かれた。そこでは野戦用のレーションの配給(はいきゅう)があり、チーズやバター、チョコレート、ビスケットなどがセットになって入っていた。チーズは食べたことも見たことも無かったので、「腐ったものを!」と思い、またアメリカ兵のことを疑ってしまった。
當山では軍人と民間人が分けられ、そのまま1泊した。日本兵の中には沖縄の人の着物に着替えて民間人になりすましている人もいたが、そこでばれていた。逆に、学校の体育の先生や訓練の先生が軍人だと間違われることもあった。大里第二国民学校の高学年の先生だった辺土名チョウコウ先生はとても規律正しい方で、軍人に間違われて百名(ひゃくな)収容所へ連れていかれた。しかし私の同級生5、6人で、アメリカ兵に「この人は僕たちの学校の先生で兵隊じゃなかった、早く出して」と2回ほど言いに行き、釈放(しゃくほう)された。
當山からは徒歩で玉城村百名まで移動した。本来なら知念方面に行くことになっていたが、百名には知り合いや字の人がたくさんいたので、玉城村百名に入ることになった。百名ではギボさんという人の屋敷の敷地内に住まわせてもらった。そこには20世帯ほどいたと思う。私たちは後から捕虜になり、アメリカ軍からの支給も不十分だったため、段ボールや板切れなどを使い、仮小屋ともいえないものだったが、住みかを造った。
学校は青空教室で、収容所の中から戦前に教員をしていた人を集めて教育が始まった。午前中は授業を受け、午後は同級生を集めて越境(えっきょう) ※1し、食料を探しに行った。玉城村志堅原(しけんばる)にあったアメリカ軍の兵舎から食べ物をもらったこともある。与那原には台風で難破したアメリカ軍の船があり、海底に潜って卵や缶詰、毛布などを戦果(センカ)として持ち帰った。

■洗脳からの解放と戦争の後遺症
収容所に入って1年ほど過ぎた頃、トクヤママサオ先生に「教育というものが大事だ」と説得されて知念高校の入試を受け、合格することができた。試験勉強を約2ヵ月し、玉城村新原(みーばる)に行く途中のテントで受験した。知念高校の校舎は、アメリカ軍が撤退したあとの玉城村親慶原(おやけばる)の兵舎を使用していた。知念高校には屋良朝苗校長をはじめ素晴らしい先生がたくさんいて、自由な思いつきの中で本質を学ぶという教育を受けた。それにより、戦前の軍国主義教育によるマインドコントロールが完全に解けた。
1年半ほどは百名から学校へ通った。母と弟は目取真へ移動し、銭又に戻ってきたのは2年ほど経ってからだったと思う。
高校生の頃には娯楽がほとんど無かったが、沖縄芝居が非常に盛んであった。私も与那原や玉城村堀川の劇場、さらに徒歩で那覇にある劇場まで観劇に行っていた。琉歌も芝居がきっかけで親しむようになった。
また、高校生の頃からフィラリアという、マラリアと同じような風土病(ふうどびょう)にも罹(かか)った。これは戦時中、5、6月の湿気の多い時期に、壕の中で風呂も入れず、大量のノミやシラミに悩まされながら過ごしたことの影響でもある。フィラリアの後遺症が腎臓に出てしまい、現在も治療を受けている。そのほかの戦争の後遺症として、幻聴や睡眠妨害なども経験している。

■鬼畜米英でないことを知っていた妻の祖父
私の妻は2歳年下の昭和9年(1934)生まれである。彼女のおじいさんが那覇で移民の会社をしていて、海外の情報なども入ってきていたそうだ。当時の日本はアメリカやイギリスに対して鬼畜米英(きちくべいえい)だと言っていたが、実際はそうではないということをおじいさんは知っていた。しかし「鬼畜米英でない」と言うと国賊扱いされるので、周りには言えなかったという。
彼女たちは十・十空襲で那覇が焼け野原になり、具志頭村後原のあたりに避難していたらしい。後原と新城(あらぐすく)の間にある自然壕に隠れていたときに日本兵がやってきて、壕から追い出そうとしたそうだ。しかしおじいさんが「帝国軍人たるものが、何で弱い者を追い出そうとするのか。自分たちで壕を掘ってやれよ。僕の息子も日本軍として今、南方戦線(なんぽうせんせん)で頑張っている。弱い者をいじめてどうするんだ」と怒鳴り、日本刀を持って啖呵(たんか)を切ると、日本兵は何もせず帰って行った。その後捕虜になったが、一緒に避難していた約30人全員が無傷だったそうだ。
一方当時の私は、直接的に教えられたことはなかったが、戦陣訓(せんじんくん)の内容(「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」)が頭に染みついていた。完全に軍国少年になって日本軍を信用していたが、本当にひどい目にあった。生き延びたのが不思議なくらいだと思う。

■真実を学ぶ姿勢が大事
当時は、壕の追い出しなどをしていた日本兵は加害者だと思っていたが、今考えると彼らも被害者だと思う。国家体制の中に軍隊という組織があり、軍国主義的な教育をされる。しかし敗北すると日本軍という組織ではなくなり、ただの敗残兵(はいざんへい)となってしまう。壕を追い出したり物を盗んだりすることは、生きていくためにせざるを得なかったのだろう。戦争は人間を人間でなくさせてしまう。国家権力が本当の加害者である。
私自身、戦争を経験したり、体調を崩したりすることも何度もあったが、生かされている以上、無理をしてでも戦争の体験を伝えたい。現在は情報過多な時代だが、真実を学ぶという姿勢が大事だと思う。
「忘(ワ)して 忘(ワシ)ららん 戦世(イクサヨ)の辛(チラ)さ
繰(ク)い返(ケェ)ちなゆみ、子孫(クヮンマガ)のために
(忘れよう忘れようとしても決して忘れることができない、戦争の辛さ。
繰り返してはいけない、子や孫たちのためにも)」
瑞慶覧 長方

(宮城貞子による聞き取り 2008、岸本拓太、比嘉真利華、李諾施による聞き取り 2015、事務局による聞き取り 2018)

■脚注
※1 収容所間の行き来や、立ち入り可能区域を出ることは基本的に禁止されていた。アメリカ軍の通行許可証を持たずに行き来すると「越境」として処罰がなされた。