■戦前の暮らしと戦時下の学校生活
戦前には軽便(ケービン)鉄道の稲嶺駅前を発着するバスがあり、玉城村(現 南城市)に行く時にはそのバスを利用していた。佐敷村、知念村(ともに現在の南城市)方面に行く際には与那原駅まで行き、そこからバスを利用した。
昭和18年(1943)に父が他界してからは、学校から帰宅すると野菜を収穫して綺麗に洗い、南風原村(現 南風原町)の喜屋武(きゃん)駅から軽便(ケービン)鉄道で那覇駅へ行った。そこから人力車で親戚のおばさんの家に行き、おばさんに野菜を売ってもらっていた。1、2円でも売ると母に褒められた。おばの家に行った日にはそこに泊まり、朝はそこから学校へ向かった。
私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)に通っていた。私の在学中には校舎の建て替えがあり、1年生は旧校舎、2年生は仲程(なかほど)の分教場(ぶんきょうじょう)(公民館)での授業で、福地シゲ先生が担当だった。3・4年生は当間の分教場で、3年生の担任は佐久本ヨシ先生だった。首里出身で与那原に住んでいた佐久本先生とは、毎日歌の練習をしていた。34人くらいで「ひばりの歌」を合唱し、島尻で1番をとった。4年生の担任は上原ゼンエイ先生だった。私は4年生の途中から新校舎へ移動した。
高宮城(たかみやぎ)の橋のあたりは学校の畑になっていて、そこでいろいろな野菜を栽培していた。私たち生徒は、便所の糞尿(ふんにょう)を肥料として使うため、畑まで運ぶ手伝いをした。農業の与那城先生(大城出身)に言われて、真和志村(現 那覇市)に住む金城和信校長先生の家まで野菜を届けに行ったこともある。
戦争が近くなってきた昭和19年(1944)頃より、学校は軍国主義的な教育に変わっていった。竹やり訓練は上級生がしていたが、私は経験がない。バケツを持って並んで行う防火訓練はした。今考えると、この訓練は何の意味もなく馬鹿みたいだったと思う。
■日本軍の駐屯と生徒たちの動員
高等科1年生の1学期までは勉強をしたが、2学期からは武(たけ)部隊が学校を使用するようになり、学校での授業はできなくなった。6年生までは各字(あざ)のムラヤーやガジュマルの下で勉強をした。
高等科生には教室が1つだけ与えられた。1年生が教室で勉強している間は2年生は水汲(く)み、というような形で授業や作業が行われた。高等科1年生の担任は渡嘉敷先生や翁長先生など、何度か変わった。水汲みの時には水汲み班の腕章をつけていた。学校の大きな井戸を利用していたが、水がなくなったので学校近くの高宮城の共同井戸、そして平川の共同井戸…と転々としていた。水を汲むときには「頭(かしら)ー、左」などの声掛けがあった。
学校の敷地内にあった隣保館(りんぽかん)は家事室として利用されていて、そこで礼儀作法やお茶の飲み方などを学んだ。だが武部隊が駐屯するようになってからは、タニハジメという隊長が独占利用するようになった。炊事係が3人いて、タニ隊長は美味しいものを食べていたが、他の兵隊の食事は芋のご飯とたくあん3切れ、そして丸麩(ふ)、野菜が入った味噌汁だった。
隣保館の裏側には大きな学校の壕を掘った。大城という屋号の家があったが、その家の前に壕の出入口があった。乾燥させたキャベツ、からし菜などを入れた甕(かめ)や学校の重要品は、全てこの壕に入れた。
日本軍の壕掘りの作業には私たち生徒も動員された。ダイナマイトで壕口をあけると兵隊がつるはしで掘り、その土を私たちがざるに入れて運んだ。
■列車爆発
沖縄に日本軍が来てからは、軽便(ケービン)鉄道は兵隊と女学生、中学生しか乗ることができなくなり、一般の人は徒歩で移動しなければならなくなった。列車は軍の荷物運びに使用されていた。
昭和19年12月11日の午後4時半頃、私の家の近くにある踏切から400~500メートルほど離れたところで、軽便(ケービン)鉄道糸満線の列車が爆発した。もし踏切のあたりで爆発していたら、私の家も大爆発を起こしていたと思う。この列車にはガソリンの入ったドラム缶が積まれ、汽車から出る煤煙(ばいえん)や火の粉がドラム缶にかかって爆発したようだ。多くの人が被害に遭ったそうで、南風原村神里(かみざと)まで肉片が飛んで木の枝に引っかかっていた。神里の人はみんな西に避難した。
本来、列車には爆弾を積んではいけないという決まりがあったらしいが、この時はガソリンの入ったドラム缶や爆弾も積まれていたそうだ。爆発の影響で、1番後ろの車両は切り離されてしまっていた。
事故が起きたとき、私は家族と畑で刈ったキビを運んでいた。その時、燃えている兵隊も見たが、どうすることもできなかった。戦後、事故の生き残りである富山県出身の玉川さんという方に会ったとき、その燃えていた兵隊に津嘉山(つかざん)(現 南風原町)で水をかけたと聞いた。
私の家は当時、球(たま)部隊の一八八〇四部隊(独立重砲兵第百大隊)が陣地構築をする際の宿舎兼本部として利用されていた。事故の後に日本軍の将校(しょうこう)たちが集まり、話し合いが行われた。話し合いは遅い時間まで続き、私はお茶やおやつを出す手伝いをした。この事故に関しては箝口令(かんこうれい)が出された。私の家で話し合いが行われたことも、誰もずっと知らなかったと思う。
当時、兄は岐阜農林(岐阜農林専門学校)を受験するために大阪にいて、大阪で徴兵検査を受けて甲種(こうしゅ)合格をした。その話をすると、将校たちは「おめでとうございます。お母さん、赤飯を炊いてお祝いしてください」と言っていた。
■日本兵との交流
私たちの家の畑にも、大砲を入れるための大きな壕が造られた。大砲は牽引車(けんいんしゃ)で運ばれてきた。教育隊という部隊が来て大砲を撃つ指導などをしていたようだった。
大きな陣地をつくるまでの間、民家や畑には球一八八〇四部隊の弾薬が置かれていた。私の家や畑にも弾薬の入った木箱が置かれ、それを監視するための人が交替で毎日来ていた。東京都出身の石津キイチさん、コンノさん、イマムラさん、ナトリさんという人たちがいたことを覚えている。ナトリさんは少し年配の人で、「僕はお袋が待っているから絶対死なない」と言い、空襲が始まるとすぐ壕に避難していた。
昭和20年(1945)3月1日から、銭又の大きな家には沖縄の新兵や、本土からの兵隊が入るようになった。私の家もノチジャーと言う、茅葺(かやぶき)だが6畳二間で縁側(えんがわ)のある大きな家だったため、部隊の本部として利用された。
3月1日から23日までの間、わが家にずっといたのは3人の兵隊で、その中の1人に宮城県出身の遠藤さんという、当時25歳の優しい性格の幹部候補生がいた。3人以外は日替わりで兵隊がきていた。風呂はドラム缶を使用していた。
多くの民間人はひもじい生活をしていて、兵隊に食料を分けてあげられるほどの余裕は無かったと思う。だが、共同タンクの上にはバーキ(ざる)が置かれていて、そこに夜警(やけい)担当の兵隊への芋を置くよう言われていた。私の家族は、兵隊たちのために大きな鍋にお汁を炊き、芋も一緒に出してあげていた。
日本兵は昼間は壕掘りなどの作業を行っていたが、夜は自由だったようで各家庭に遊びに行っていた。私の家にも遊びに来ていて、変な歌を教えてくれるなどして楽しい時間を過ごした。3月23日にアメリカ軍の攻撃が始まるまでは、このような生活をしていた。
■日本兵からの遺言
3月14か15日頃、私は2人の日本兵から遺言を預かった。1人は玉城村奥武(おう)出身の仲本カメイチロウさんという方からのもので、「シゲちゃん、僕は軍人で生きる意味がない。奥武のサキダという壕に私のおじいさんとおばあさんがいるから。お母さんは疎開して、もういないかもしれないけど」という内容だった。もう1人は糸満の園田セイイチさんという方からのものだった。
戦後、玉城村百名(ひゃくな)で仲本さんのご家族に会うことができた。仲本さんのおじいさん、おばあさんは知念村山里まで避難していたようで、遺言を聞いたおじいさんは喜んでいた。また、仲本さんは浦添にある伊波普猷(ふゆう)の墓付近で戦死したようだが、避難民だった宮城さんという方に、自分がどこの出身なのかを伝えて印鑑を渡していたらしい。その後、宮城さんはこの印鑑を奥武まで持って行ったそうだ。
園田さんのご家族はなかなか見つからず、私は糸満市役所へ行った。すると、当時の糸満市の教育長だった大城勇さんが園田さんの甥にあたることが分かった(戦後に園田姓から大城に変えたようだった)。大城さんを通じて、園田さんが出征(しゅっせい)した直後に生まれた娘さんとその子ども(園田さんの孫にあたる方)とお会いすることができた。写真を見ながら園田さんのお話をした。それから、勇さんの母が持っていた園田さんの位牌(いはい)に、「あなたの遺言をちゃんと娘さんに伝えました」と言って線香をあげた。
■毎日、死ぬのが怖かった
3月23日の朝、兵隊の「第1線突入、戦闘開始」の号令のもと、私の家にいた日本兵らは出発した。
5月に入って攻撃が酷くなってきてからは、自分の家の防空壕や親戚の防空壕に避難していた。だが、5月27日には銭又を出て避難した。その際、親戚に小児麻痺(まひ)で足を動かすことが難しい15歳の子がいたが、その子と5歳になる妹(トシコ)の2人を壕に残した。
それから玉城村親慶原(おやけばる)の親戚の家へ行った。そして、船越城跡近くのメーコーヤマ(屋号)家の裏側にある自然壕に避難した。毎日死ぬのが怖くて、置いていった2人のことは忘れてしまっていた。このことを今でもとても悔やんでいる。
船越の自然壕には6月10日までいた。その後、具志頭(現 八重瀬町)を通って真栄里(まえざと)(現 糸満市)の壕に避難した。学生5人、大人11人での避難だった。
真栄里に行った初めのうちは空襲もあまり無かったが、アメリカ軍のバックナー中将(ちゅうじょう)が戦死した頃から攻撃が激しくなった。壕から、比嘉さんという方の家の馬小屋などに移動したり、土を掘ってその中に隠れ、入口を荷物で隠したりして逃げた。飛行機からの攻撃もあるので昼は隠れて夜に移動していたが、夜間も艦砲射撃があった。
6月19日、土を掘ってできた場所に隠れているとき、すぐ近くをアメリカ軍の戦車が通った。みんな手榴弾を持っていて、「どうせ死ぬから」ということで自決(じけつ)も考えたが、私の母親が必死に説得したこともあって事なきを得た。この日、壕から出ると知人女性が倒れていた。私の母は「ウフアンマー、安らかに寝ていて下さいね。戦争が終わったら迎えに来るからね」と声を掛けていた。
橋に隠れたりキビをかじったりしながら、住民が行く方向に避難した。避難中には、母と私がけがをしたこともあった。
■母に生き抜くよう叱咤される
現在の平和祈念公園あたり(現糸満市摩文仁(まぶに))に来たとき、何気なく避難民らと立っていると、ふんどし姿の人が出てきて「もうアメリカの捕虜になりましょう」と言った。すると2人の日本兵が出てきて、「こんな馬鹿がいるから沖縄は戦争に負ける」と言い、ふんどし姿の人の首を斬ってしまった。この様子を見ていた避難民は右往左往(うおうさおう)していた。
ふんどし姿の人の言うことを聞こうと、穿(は)いていたズボンを脱ごうとしたおじさんがいたが、「ここでズボンを脱ごうとしている馬鹿がいるね」と言われ、すぐに穿きなおしていた。のちに分かったことだが、このふんどし姿の人はみんなを救うためにアメリカ軍の指示を受けて来ていたらしい。
当時、その場所は死体の山になっていた。死体のお腹は膨(ふく)れて悪臭もすごかったため、ヨモギの葉を鼻に入れて避難していた。私はけがで足が痛いし、そこで死ぬつもりでいた。しかし母は私に「歩け」と言い、私が「どうせ死ぬんでしょ」と言うと、「あんたが死んだら(私も)ここで死ぬよ。やなわらばーが。生きても死んでもね、お墓でも一緒だよ。あんた1人死んで、どうやって生きるか」と言われた。崖を登って上の方に行ったが、そこも死体だらけだった。
その後、沖縄の女性の着物を羽織(はお)った日本兵に出あい、彼は私の母に「おばさん、アメリカ軍は住民を殺さないから、捕虜になりましょう」と言った。このときアメリカ兵は宣伝ビラを飛行機からばら撒き、手を挙げて海岸に出るよう、マイクでアナウンスしていた。この日本兵は、ハワイの人から密かに情報を聞いたということだった。
元々、捕虜になると女は強姦(ごうかん)される、耳や鼻を切られると言われて洗脳されていたが、日本兵の言うことを信じて出ていくことにした。そして、6月25日にギーザバンタ(現八重瀬町)で捕虜になった。
■百名収容所へ
捕虜になってからは、見た目が日本人で日本語を話しているが、服装が日本兵ではない兵隊がいてびっくりした。「僕はアメリカの兵隊だよ」と言っていた。白人も初めて見たが、青い目をしていて怖かった。「水を飲みなさい」と言われたが、毒が入っているかもしれないと思って飲まなかった。黒人も見たが、唇だけが赤く、こちらも初めて見たので怖かった。
それから捕虜になった人たちは海岸に集められ、水陸両用戦車に乗せられた。「そのまま海に沈められる」と思って泣いている人もいた。しかし、到着したのは港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)の海岸で、そこからトラックで玉城小学校近くのキャンプ(収容所)まで移動した。そこに一晩泊まり、煮物を食べさせてもらえた。
親戚とも再会し、翌日には徒歩で玉城村百名(ひゃくな)へ移動した。捕虜になることを勧めてくれた日本兵も百名にいたが、彼は金網(カナアミ)の中に入れられていた。戦後、この日本兵に会えないかと思って毎日新聞に投稿したが探し出せなかった。
百名ではおじさん達が造っていた仮小屋や、焼け残っていた民家(17世帯が入っていた)に収容された。大きなガジュマルの下に茅(かや)を敷いて寝たこともあった。住む場所がないので、みんな山の中に小屋を造っていた。
百名収容所には1ヵ月ほどいたと思う。弟2人(長方、チョウシュン)は百名初等学校に通ったが、学校と言っても畑の中での青空教室だった。
百名には学校以外にも診療所や警察署があった。けがの治療はアメリカ軍の診療所で、濱松病院の医師が行っていた。
■食料を得るための軍作業
私は食料を貰(もら)うために軍作業に参加した。本部のある広場に集まり、アメリカのカードを身に着け、現在の琉球ゴルフ倶楽部のあたり(戦前は玉城村仲村渠(なかんだかり)2区の上江洲口(イージグチ)だった)にあったアメリカ軍のレストランで1、2ヵ月ほどウエイトレスとして働いた。朝食はレモン水とハム、卵、パンで、沖縄の料理とは全く違うことに驚いた。そこでは後片付けや鍋磨きなどをした。
アメリカ人からは、鶏の頭や一度使っただけの油などを処分するよう指示された。だが私はそれらの廃棄になったものを缶に詰め、帰るときに箱に隠して持ち帰り、近隣のみんなで分けていた。給料はなく、与えられた食料や廃棄になったものなどを食べて生活していた。
さらに玉城村字玉城(あざたまぐすく)のMG(軍政府)本部で洗濯の仕事をした。それから前田(現 浦添市)にいた部隊の洗濯仕事もし、小禄(現 那覇市)では軍の道具などを井戸に投げ捨てる作業をした。小禄での作業は、日本軍の敗残兵が残った道具を使って生活しないようにという理由だったらしい。1ヵ所で2ヵ月ほど働いた。
軍作業を通して知り合ったアメリカ兵から英語を習うこともあった。優しくしてくれるアメリカ兵もいて、お米1俵を特別に分けて食べさせてくれた人もいた。
■銭又への帰郷
百名からは目取真(めどるま)の大きな収容所へ移動した。目取真では、アメリカ軍のテントの中に2世帯ずつ入って生活していた。テントの中には軍事用の寝台などがあった。目取真では私は本部に採用され、産業課(現在の役所)に配属された。
破壊された道路を皆で整え、それから規格(きかく)小屋の資材がやんばるから届いてある程度生活できるようになった頃、目取真から銭又(ぜにまた)へ集団で移動した。その頃には古堅(ふるげん)に庁舎ができていて、私は臨時の職員として働いた。その後、戦前に役場で働いていた人たちが戻ってきたため臨時の仕事はなくなった。
その後中央売店ができて各字(あざ)から1人ずつ採用され、私も採用されて働いた。今で言う地方公務員、役場職員として働くことになった。
■戦争の語り部として
昭和55年(1980)頃、大分県の公明党より声がかかり、私は講演の依頼を受けて講演をした。その後、創価学会の本部からも依頼があり、全国各地で講演をした。また、創価大学の学校行事で戦争体験を語る活動も20年間してきた。
そのほか摩文仁の平和祈念資料館でも、平和ガイドになるために学ぶ人に向けて講義をしてきた。また、修学旅行生にも戦争の悲惨さと愚かさを、45分や1時間などと時間を決めて語っていった。
だがある時、ある人に「仲程さんがこんなに昔のことをよく覚えているというのは考えられない。また、仲程さんはどうして、日本人(日本兵)に良い人がいたと言うのか?」と言われたことがある。私は、悪いのは一部の人であって、日本兵の中にも良い人はいっぱいいたと考えている。
■戦没した日本兵たちとのつながり
私は国吉勇さんという方と遺骨収集もしてきた。だが遺族の中には、遺骨の受け取りを拒否する人もいた。また、遺骨が見つからず歯ブラシぐらいしか遺(のこ)っていない人もいた。
昭和20年3月に私の家を利用していた宮城県出身の遠藤さんについての情報は何も分からなかった。しかし、ある年の慰霊祭に来ていたタマムラさんという元日本兵に、「当時あなたの家に3日間いたよ。いつもお母さんがね、『明日は糸満から魚が来るから美味しいお汁があるよ』と言ってね」と言われた。遠藤さんについても話を聞くことができ、遠藤さんの名前と、見習士官(みならいしかん)であったことが分かった。
また、私の家に弾薬の監視に来ていた石津さんのことも調べた。2014年頃には石津さんの甥が沖縄へ来て、私はご家族に会って石津さんのことを話すことができた。石津さんは、昭和20年の5月半ば頃に津嘉山で戦死したとのことだった。
■戦後50年の節目に
戦後50年目に平和の礎ができた時にはすぐに、ふんどし姿で投降を呼びかけていた人に手を合わせに行った。「50年前の今日のこの日でしたね。あなたがどこの誰か知りませんが、みんなを救うために、日本兵に首を斬られましたね。この目で見ています。あなたの声なき声、私は全国の人に訴えます。成仏(じょうぶつ)して下さい」と語りかけた。
また、同じく戦後50年経った頃に大里第二国民学校の卒業式・修了式が行われ、当時の金城和信校長のはんこが押された小さな卒業証書をもらった。私は、戦時中に疎開(そかい)で県外に行き、そのまま現地で生活していた同級生にも連絡を入れて呼んだ。
2007年頃には、脳の検査をした時に頭の中に戦時中の破片が入っているのが見つかった。破片は30分ほどかけて取り出した。
■何よりも生命の尊厳が大切
戦時中は、軍需工場で武器などを造るためなど、人殺しにばかりお金が使われたが、それを指示する人たちは弾にも当たらない。何よりも生命の尊厳が大切で、命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)である。私はこの世に生き残っているので、戦争のことを伝えていく使命がある。
(事務局による聞き取り 2017)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015723 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 182-191 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-銭又 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |