■陣地構築と日本兵との交流
戦争の時、兄2人(長徳、長孝)は兵隊として出征(しゅっせい)していたので、家には父の長松(49歳)、母のウサ(48歳)、兄嫁のチヨ(23歳)、姪の好子(3歳)、私(18歳)の5人がいた。
私は青年学校に通っていたので、小禄(現 那覇市)の飛行場建設の時には月に10日も家にいないくらい、泊まり込みで穴掘りや土運びの作業にかり出された。西原村(現 西原町)での飛行場建設の時は、8時出勤なので毎日5時に起きて準備をし、徒歩で10日間通った。そこではトロッコで土運びをした。
大工だった父は軍の壕の枠入れに召集(しょうしゅう)され、あちこちの壕で働いていた。ヘンサ森(現在の大里グリーンタウン一帯にかつてあった小山)の壕の枠入れの時、父は武(たけ)部隊の兵隊さん達と知り合った。そこの通信隊は毎日2人ずつ首里(現 那覇市)の本部に連絡に行き、その帰りに洗濯や小休止のためよくわが家に立ち寄っていた。その後武部隊は台湾に移動したが、その中の2人が戦後わが家を訪ねてくれた。
昭和19年(1944)の8月頃から、銭又の高台(銭又毛と上東風平小の西側)にも2ヵ所の重砲陣地が造られた。父や私も動員されて陣地構築のために働いた。
銭又の重砲陣地の構築のため、兵隊さん達(50人ほどいたと思う)は当間区に寝泊まりし、朝早くからやって来ていた。兵隊さん達は毎日夕方5時頃に夕食を済ませ、10時頃まで残業していた。父が「兵隊さん達はあんなに朝早くから働いているし、ろくな食事もしていない。かわいそうだから夜食を作って持っていきなさい。うちも息子2人が兵隊に行っているから、息子達にやるのだと思って出来るだけの世話をするようにしなさい」と言うので、私達はぜんざいや、手作りの豆腐と野菜を煮込んだもの、炊いたお芋などを3日越しくらいに夜食として差し入れていた。
その件で、陣地構築の責任者である谷口少尉(しょうい)という若い方がわが家にお礼に見え、「いつも兵士達がお世話になり有り難うございます」と丁寧にお礼を述べた。ちょうど夕食時だったので、熱いお芋とたまたまあった牛のソーキ汁の夕飯を勧めた。彼はきちんと座って「おいしいですね。私はお礼に来たのに、またご馳走になりますね」と言って夕飯を共にした。彼と会ったのはこの一度だけだったというのに、のちに私達はこの方に命を助けてもらうことになる。
■銭又での壕生活
銭又の重砲陣地が完成する前に戦争が始まり、私たちは壕で2ヵ月間生活した。わが家では十・十空襲(1944年10月10日)の前から、親戚の3家族と一緒に武富森の裾野(すその)に防空壕を掘り進めていた。
壕は畑からトンネルを掘って造った。壕の入り口や内部を保護するため、家にあった材木を中に入れて埋め固め、壕の上部を厚くした。補強した所から出入りできるぐらいの穴を開けてそこからはしごを掛け、下に広い横穴を掘り、4家族が入れる壕を完成させた。そこは外からは絶対に見えないようになっていた。
初めの頃、日中は壕にいて、朝の暗いうちや夜に日が暮れかかってから食料を取りに行った。夜が明けるとトンボグァー(アメリカ軍の小型機)が飛ぶので、それが飛ばないうちに芋や野菜を取ったり、お水を汲(く)んだりした。洗濯も家の井戸に持って行って済ませ、木陰に干していた。その時までは弾はあまり落ちなかった。
この頃、私達は銭又の重砲陣地を構築した時に出たクチャ(粘土質の灰色の土)の色が目立たないようにするため、夜中にサトウキビの青い部分を苅り取り、クチャを覆(おお)って擬装(ぎそう)しに行った。しかしサトウキビの葉は2、3日で枯れるので、擬装のため夜中に出かけたことが4回ほどあった。そこは幽霊やハブも出ると言われていた場所だったが、その時は怖くなかったし、ハブも見なかった。
■南部に向かって避難
そのうち、銭又にもだんだん弾が頻繁に落ちるようになった。壕にいた時、家の前の銭又小の畑に大きい爆弾が落ちて大きな穴が空いた。家につないであった馬1頭も死んでいた。
兵隊さん達がわが家の壕に来て、「5月27日は海軍記念日だから、その時には将校が来てみんなやっつける」と話していたので本当だと思っていた。ところがその日になり、「首里までアメリカ兵が来ているようで、近づくにつれて弾が激しくなる。今のうちに島尻に避難しなさい」と兵隊さんに言われた。
父は大工をしていたため地理に詳しかったので、まず玉城村(現 南城市)の船越(ふなこし)に行くことにした。船越の前の丘に壕が掘られていたが人がおらず、そこで1泊した。そこは高台なので軍の壕かもしれないと思い、翌日にはそこを出た。
朝早くに船越から、前川の「アブチラガマ」と呼ばれていた壕(糸数のアブチラガマとは別)の入口の方に行った。そこに11日間いた。
その壕は、道から降りていくと底が川になっていたが、上は岩で大きい広場があったので、3~4世帯が壕入口の近くにいた。入口は1人が屈(かが)んで入ることが出来るぐらいの大きさだったが、中は20畳ほどの広間になっているといわれていて、石部隊と山部隊の兵隊がいるということだった。時々、2、3人の兵隊が出入りしていた。
ある日、「ここから出て避難するように言われた」と誰かが言ってみんな大騒ぎになった。夕方、モッコに荷物を入れて天秤棒(てんびんぼう)を肩に担ぎ、3歳の姪を負ぶってみんなと逃げた。
アブチラガマから出て、富里(ふさと)に行って1泊した。途中、糸数の山のてっぺんからアメリカ兵が3人歩いているのが見えた。ここも危ないので、翌朝の夜明け前にまた戻り、具志頭村(現 八重瀬町)新城(あらぐすく)の国民学校に行った。そこも避難民でいっぱいだった。
明るいうちの移動は危険なので夕方に東風平村(現 八重瀬町)の富盛(ともり)に行ったが、人がいないのでそのまま世那城(よなぐすく)に行った。そこにも人はおらず、馬のいない馬小屋で一晩泊まった。
朝早くに世那城を出て高良向けに歩いていたら、日本兵が100人ほど、4列縦隊で竹やりを担いで富盛方面に行進しているのに出会った。その時、「日本は兵器もなくて軍隊が竹やりを担いで大変だ、もうお終いだね」と思った。
■けがをして日本兵に助けられる
高良を越えて真栄平(まえひら)(現 糸満市)に向かった。その頃は、そこでは砂糖を作っていたようで、朝早くに畑でカズラを植えている人もいた。また、砂糖を担いで売り歩く人にも出会った。その人から大きい四角の砂糖の固まりを4個買った。
真栄平に着いたら避難民が各家にいっぱい入っていた。入るところが無いのでしかたなく、馬小屋の後ろの少し空いた肥料詰めの所に荷を下ろした。
そこの馬小屋の天井に乾燥させたキビガラ(サトウキビの絞り殻)が積まれていた。「夕飯を炊くので1束譲ってほしい」と頼んだが、「自分たちの砂糖を作る燃料がなくなるから譲れない」と断られた。
屋敷の周囲は全部竹やぶだったので、古い竹の根っこをあちこちから拾い集め、周りの竹に燃え移らないように小さく簡単な竈(かまど)を作った。竹にはすぐに着火しないので、しかたなく天井からぶら下がっているキビガラを小さくちぎって火をつけ、夕ご飯を炊いていた。だがご飯が沸騰したかどうかわからないうちに「アメリカ軍の戦車がそこまで来ているから、早く逃げろ」という声が聞こえた。私はこのお釜をモッコに入れ、もう一方にお椀などを入れて天秤棒を担ぎ、真壁(まかべ)(現 糸満市)に行った。
真壁も人がいっぱいで、食事を作る場所もなかった。ご飯がどうなっているか釜を開けてみたら、まだ炊けておらず水っぽかった。それをそのまま家族5人と兄嫁の家族5人、食料を持っている親族とはぐれた新屋小のウシおばさん達4人、従兄弟のヨシさん達とみんなで分け合って食べた。「食料を持った家族に会うまでは、持っている食料をみんなで食べよう」といっておかゆを炊いて食べた。
真壁に着いて3日目、私は近くの砂糖小屋の井戸に水汲みに行ってけがをした。近くに落ちた弾の破片が足に貫通したが、幸い骨には当たらなかった。傷口を一方から押すと、反対側から膿(うみ)が出た。だが以前に軍属から、一升瓶に3合ほど残っていたアルコールをもらっていたので、それで治療してウジがわかずに済んだ。
私達がいた所は大通りに面していて、重砲隊 ※1 の兵隊たちが米須(こめす)(現 糸満市)へと向かっていた。知り合いの兵隊が「ツルちゃんの顔が見えないがどうしたの」と兄嫁に聞き、私がけがをして歩けないでいることを知ってやって来て、薬を塗って包帯をしてくれた。さらに、「こんなに腫れて歩けないのなら絶対に壕を探さないといけない」と言って、米須と真壁の間の道の下の暗渠(あんきょ)(向かい合って2人が座れるほどの広さで、横になって寝ることはできなかった)を探してくれた。
そこには10人しか入れないので、私達家族5人と兄嫁の家族5人が入った。父は一緒に避難していた新屋小の家族4人と伯父の家族5人に、「私が隠れる所を探して迎えにくるから、どこにも行かないでよ」と言って、彼らを瓦葺(かわらぶき)の母屋に残した。
その暗渠にはすでに負傷兵が2人いた。彼らが「食事を食べさせてくれるならここに入れてあげる」と言ったので、一緒に食事をする約束で入れてもらった。そこでは向かい合ってじっと座ったままだった。
父が少し離れた所に同じような暗渠があるのを探し出してきた。翌朝、夜明け前に残っていた親戚を呼びに行くと、瓦葺の大きい母屋は直撃を受けてたくさんの人が亡くなっていた。誰もいないので逃げようとしていた時に伯父の家族と会い、爆風にやられた伯父を担いで帰ってきて、探しておいた暗渠に入れた。
■いとこの死と海岸沿いの避難
12日間その暗渠にいたが、兵隊たちが「そこから早く避難して」と言うので、準備して暗渠を出ようとしていたところ、父の頭の後ろ側に破片が当たって血が噴き出した。とてもたくさんの血が噴き出したので私はびっくりしたが、傷病兵の北川さんが止血してくれた。
父は、「自分はけがをしているからここにいるので、あなた達だけで逃げられる所まで逃げるように」と言った。だが私や兄嫁も足をけがしていたので、「私達だけで逃げるのはいやだ」と言うと「しかたがない。行けるところまで行ってみよう」と、父も一緒に山城(現糸満市)に向かった。そうこうしているうちにあたりが真っ暗になり、私は担いでいた棒を杖にして救急袋を担いで、アルコールの入った一升瓶を抱いてゆっくりゆっくり付いていった。
山城で歩いていたら、死体の臭いはするし、とても疲れていたので座るところがないかと思って後ろを見たら、黒く盛り上がっている所があった。腰を下ろそうとしたら、ブゥーとゆっくり沈んでいった。私は膨らんだ死体の上に座っていた。「ごめんなさい、私は疲れきっていて人とは思わずに腰掛けてしまった。本当にすみませんでした」と、涙を流して詫びた。暗闇だから何がどこにあるかわからない。この頃には真っ赤な曳光弾(えいこうだん)はあがるが、照明弾はあがらなかった。
その後からは昼もずっと逃げた。ウールバマ(現在の魂魄(こんぱく)の塔があるところ)に行くとモクマオウ林に着いたので、昼中はここにいようと決めた。そこは弾も、弾や石の破片もたくさん落ちてくる場所だった。そこで、真壁で別れたいとこ達と一緒になった。
「あなた達も元気で助かっていたんだね。また一緒になったね」と再会を喜んでいた時、いとこのキヨ子がお腹をやられ内臓も出てしまった。お水を欲しがったが水が無いので、近くのサトウキビを絞って与えたら亡くなった。また、いとこのヨシ子も足の骨をやられて歩けなくなった。ヨシ子が足の悪い伯母を負ぶってここまで逃げてきていて、他には伯母を負ぶれる人はいなかった。父が伯母たちに「歩けないからどうなるか分からないけど、陸を東側に歩いて行ってね」と言って別れた。
この時には食料も食べ尽くしていて、母はユナバーキ(米を入れるざる)にお釜をのせて好子を負ぶった。どこに行こうか考え、魂魄の塔の東側のモクマオウ林の所から海に降りた。海岸に降りたら避難民がいっぱいいた。途中でいとこの正子が泣き出して歩かないので、「戦争だということも分からないでこんなに泣くか。泣かないでよ」と諭した。実は正子は足をけがしていたのに、誰も気付かずにいたのだった。
夜が暮れかかった時に海に降り、一晩中、珊瑚礁(さんごしょう)だらけの海岸を裸足で、棒を使いながら歩いた。潮が満ちていたので浅いのか深いのか分からず、棒を頼りに歩いていたので、棒が深みに入ると溺れかかった。その時は周りの知らない人たちが引き上げてくれた。
「夜が明けるから早く隠れなさい」と言われ、着いたところはギーザバンタ(現八重瀬町)だった。裸足なので足はすり傷だらけで、もんぺもすり切れていた。
夜が明けてから「私のもんぺはどうしよう」と困っていた時に、母が雑木林から白いワンピースを拾ってきてくれたのでそれを着た。
その時は四日三晩飲まず食わずだった。母は、近くに捨てられていた裸麦の穂とやかん、湯飲み茶碗も拾ってきた。麦湯を作って子ども達5人に2日間飲ませた。3日目に、食べるものがないので「出し殻の麦の穂でも腹の足しになるかもしれない」と与えたら、子ども達は全部食べた。
■谷口少尉の言葉で捕虜になる
前方は海でアメリカ軍の軍艦がいっぱいだし、道を探して国頭へ突破しようか。でも国頭は遠いから、そこまで突破できるはずがない。行くところがないから戻るしかないか。父が思案しながら暗闇で道を探していたら、暗闇から「誰か」と怒鳴られた。「私ですが」と父が答えると、父の言葉は独特なので「今の言葉は銭又大工の言葉だが、違いますか」と聞かれた。父が「そうです。兵隊さんですか」と答えると、「はい、私は銭又陣地の谷口です。覚えていますか」と言う。父が「ああ、覚えていますよ」と答えると、「なぜそこを歩いているのですか」と聞かれた。「もう行くところがない。前は海だけだし、食べ物もないし、戻るしかないので道を探しています」と答えると「今は上に上がっても敵がいる。海に出ることも出来ない。避難民には何もしないから、明日の朝10時ごろ、家族みんなを引き連れて、東側で海岸を歩いて行きなさい。私達軍人はどうすることも出来ないが、アメリカ軍は避難民には何もしないから、安心して行きなさい」と言ったそうだ。父は戻ってきて谷口少尉の言葉を家族に話し、東側に行くことを決めた。
翌日(6月27日頃)、「捕虜になったら別々にされるかもしれないから」と、少ないお金をみんなで分けて海岸を東向きに進んで行った。私たち家族の後から、いろいろな服に着替えた兵隊達が仮装行列のように付いてきた。
しばらく行くと、上半身裸で鉄砲を肩に掛けたアメリカ兵が3人やって来た。父達は両手を挙げていたが、私は小さくなっていた。具志頭村で捕虜になって1ヵ所に集められ、午後4時頃、トラックに乗せられて玉城村の當山(とうやま)に連れて行かれた。そこではアメリカ軍の携帯用食料の配給があった。當山で一晩過ごし、玉城村垣花(かきのはな)に連れていかれた。
垣花の収容所では大きなテントが張られていて、1つのテントで具志頭の人たち5、6世帯と一緒に約2ヵ月過ごした。そこでは軍の携帯用食料と米も配給された。ご飯を炊く釜がないので、軍の飯盒(はんごう)や穴のあいたなべなど、いろいろなものを使っていた。具志頭村後原(クシバル)の人達が弾薬の入っていた空き箱でご飯を炊いた時、炊きあがったが蓋が開かないので、2人で引っ張って開けようとし、1人は顔に、もう1人は腿(もも)に大やけどをした(腿に大やけどをした美人のお姉さんは診療所に薬をもらいに行き、牛乳のような白い薬を飲まされて亡くなった。顔にやけどをした人は、薬をもらいに行かなかったので助かった)。
■やんばるへの立退きと兄たちの復員
8月15日に、捕虜をやんばるに連れて行くと言われた。荷物はトラックに乗せて運んでくれて、私達は歩いて佐敷村(現 南城市)新里まで行き、輸送船に乗せられた。その時、私は杖をついて姪の好子を負ぶって歩けるようになっていたので、途中でアメリカ兵から水筒2個をもらった。
輸送船に乗せられて陸が見えない所まで来た時、「やんばるに連れて行くと言うが、本当は海の真ん中でみんなを放り投げてしまうはずだよ。どうせ戦争で痛めつけられた体だから、どうなってもいいさ」と、船底の船室でみんなが諦めていた。
輸送船のトイレは上の方にあった。2、3時間後、トイレに行った人から「島が見えるよ」と合図があった。着いたところは辺野古(へのこ)(現 名護市)だった。
辺野古から、トラックで嘉陽(かよう)(現 名護市)の収容所に連れていかれた。初めは海岸にテントが張られていたが、父達が山から焼かれた木を切ってきて茅葺(かやぶき)小屋を集落に造り、4世帯ぐらいで住んでいた。嘉陽の収容所では2日に2合ぐらいのお米の配給で、食べ物も少なかった。父は山の木で女性用の下駄を作り、福地や安部(あぶ)、天仁屋(てにや)(現 名護市)の知り合いを頼りに、お米やお芋に換えてもらっていた。
嘉陽ではマラリアが流行り、1日に多くの人が目の前を運ばれていった。栄養失調で体が弱っているので、マラリアになると多くの人が亡くなった。
やんばるに連れて行かれてから4ヵ月後の12月25日に大見武(おおみたけ)(現 与那原町)に移動した。その時おじ達が目取真(めどるま)にいたので、そこに1ヵ月ほどいて銭又に帰った。
稲の取り入れの頃、便りが無くて心配していた長男兄さんが復員(ふくいん)してきた。知らせがあった時には収穫中の稲も放り出して、兄の所に駆け出したことをしっかり覚えている。少し後、元気だと便りのあった次男兄さんも復員してきてやっと家族がそろった。
私達は沖縄戦で色々な苦労をしてきたが、日本兵には助けられた。だけどこんな戦争は、地球のどこにも二度とあってはならない。
(仲原節子による聞き取り 2008)
■脚注
※1 重砲隊は重砲兵隊のことを指すと考えられる。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015722 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 175-182 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-銭又 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |