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瑞慶覧ヨシ(大正14年生まれ 大里・銭又)【キーワード】十・十空襲/玉城村・知念村へ避難/収容所

■夫の出征
昭和19年(1944)当時の私の家族は、祖母のウシ(71歳)、義父の長次(45歳)、義母のカメ(41歳)、夫の長仁(21歳)、私(19歳)、義弟の長弘(1歳)、娘の節子(1歳)だった。
私は昭和17年(1942)に嫁ぎ、翌年4月に長女の節子が生まれた。義母も同年8月に次男の長弘を出産した。昭和19年6月には夫が出征(しゅっせい)し、さびしく忙しい毎日だった。
私と義母は毎日農業で忙しいため、節子と長弘の2人は祖母ウシに子守をしてもらっていた。義父は区長をしていたため役場から情報を得て、「沖縄に戦争が来るかもしれない」と話していた。
その後、役場から「子どもの多い家族は内地に疎開(そかい)するように」と勧告があった。「自分たちも行きたい」と頼んだが、義父は「子どもの多い家族が優先で、うちは子どもがそれぞれ1人ずつだから負ぶって逃げられる。疎開しないでいい」と言って受け入れなかった。
その頃、作物としてサツマイモを栽培して供出(きょうしゅつ)するようになった。だんだん食べ物も物資も少なくなり、マッチなどの物資は配給制(はいきゅうせい)になった。その頃の役場からの情報は「日本が勝った」ということだけで、皆喜んでいた。

■十・十空襲と壕生活
昭和19年10月10日の朝早く、夫の武運長久(ぶうんちょうきゅう)と一家の健康祈願をしに普天間神宮(現 宜野湾市)に行くため、子ども達を背負い、義父母と親戚の君子姉さん達と一緒に喜屋武(きゃん)駅から那覇行きの軽便(ケービン)鉄道に乗った。汽車が南風原村(現 南風原町)の山川駅を過ぎたとき、たくさんの飛行機が見えた。そのときは日本軍の演習だと思っていたが、那覇のほうからドドーン、ドドーンと爆発音が聞こえた。同時に汽車が急停車した。義父の指示で、飛行機におびえながら走って家の近くまで帰り、しばらくは鉄道下の川(暗渠(あんきょ))に隠れた。後で聞くとそれが十・十空襲だった。
「いよいよ銭又(ぜにまた)にも空襲があるかもしれない」ということで、長雄おじさんの家の後ろの小山に、長雄おじさん達と義母の従兄の長喜おじさん、私達家族の3家族で防空壕を掘ることになった。そこは土質が堅い粘土質で、地中に木の根が伸び作業は容易ではなかった。いざというときに逃げられるように出入り口を2ヵ所とした。大人7人で1ヵ月ほど頑張って、十数人が生活できる壕を完成させた。さらに、壕内に衣類や味噌、黒糖、サツマイモ、サツマイモのデンプン等の食料を蓄える物置も造った。
その頃、那覇の兵器修理の工場(国吉鉄工所)が爆撃を避けるため、銭又近くの武富森の西側に移って来た。そこの工場関係者や守備兵のうち数人が家に下宿することになり、生活を共にする中で彼らとだんだん親しくなった。
壕が完成してもしばらくは、下宿人の食事の準備や家畜(馬、牛、山羊、豚など)の世話などで家と壕を行き来していた。
空襲や艦砲射撃(かんぽうしゃげき)の危険性がだんだん高くなってくると、3家族17人は壕に移り、家は国吉鉄工所の人達に貸すことになった。(のちに彼らの所属する工場はアメリカ軍の攻撃を受けて守備兵のほぼ全員が玉砕(ぎょくさい)、工場関係者も大半が死亡したが、運よく生き残った人達とは戦後もずっと交流が続いた。)
与那原の親戚が5人、避難のために銭又の壕にやって来た。壕での食事は主にサツマイモや野草を入れた雑炊になった。だんだん衛生状態が悪くなり、ノミやシラミも発生した。

■姉との別れ
昭和20年(1945)5月下旬頃、「運玉森(ウンタマムイ)(現 与那原町)にアメリカ軍が来ている」という情報が入り、銭又も危ないということになって壕を出ることになった。食料や着替えをまとめて荷物と子どもを背負い、家族と共に玉城村(現 南城市)のザンヌスク(現在の玉泉洞の上流側にある深い谷)という所に向けて夕方に壕を出た。
稲嶺の十字路近くで、一行の最後尾を歩いていた義母と私との間に砲弾が突然落下した。幸いにも砲弾は不発で、親子4人けがもなく無事だった。義母と共に抱き合って喜んだ。
私たちはザンヌスクの2ヵ所の墓に分かれて8日間過ごした。墓の近くには小川が流れていて水は確保できた。しかし墓の入口は小さく、出入りは困難だった。また、向かいの丘には銃弾も飛び交い、日中はほとんど墓の中で過ごすのでとても大変だった。そこでの食事は主にウムクジプットゥルーだった。火が使えないときは、デンプンと黒糖を水に溶かしただけの食事のときもあった。
そうして過ごしていたが、「アメリカ軍が糸数に迫っている」という情報を得た義父の指示で、皆で玉城村百名(ひゃくな)に向かった。暗い山道を急いでいると、途中で別の避難民たちの声が聞こえた。姉のウシーの声に似ているが顔は見えない。近づいて見ると姉だった。姉たちは島尻の南部に行くという。姉は家族や親戚の人達と一緒で、娘の初子(5歳)も連れていた。私も姉たちと一緒に行きたかったが、家族と一緒でないと怖いと思い、「百名に来てね」と言って別れた。これが私たちの最後の別れになった。

■知念で捕虜になる
夜通し歩き、明け方に百名で休憩した。海にはたくさんのアメリカ軍の軍艦が黒山のように群がっているのが見えた。でもこちら側への攻撃はない。義父が「大丈夫だ」と言って知念向けに進んだ。知念村(現 南城市)の志喜屋(しきや)で弾の音が聞こえたので、精米所跡の小屋に逃げ込んだ。しばらくして義父が、「荷物を持って先に出るから、弾が来なければついておいで」と言って先に出た。弾の音が止んだので、皆ぞろぞろついて歩いた。字(あざ)知念に着き、馬小屋跡で一晩過ごした。
目が覚めるとアメリカ兵が4、5人、どやどやと馬小屋に入ってきた。今日が終わりかと思った。しかしアメリカ兵は男たちにタバコを渡して吸わせている。そして「荷物を持て」と言うので、おそるおそる子どもを背負い、皆と一緒について行った。義父が「荷物を持たせるということは、殺すつもりは無いかもしれない」と言った。
道の側に瓦葺(かわらぶき)の家があった。そこに入ると先に集められた捕虜の人達がいて、その中に兼浜トミ姉さんがいた。若いのは私とトミ姉さんの2人で、他は年配の方々だった。トミ姉さんも1歳の女の子(カズコ)を連れていた。トミ姉さんは「どんなことがあっても一緒にね」と話していた。
その翌日は荷物を持ち、百名の収容所に移動になった。百名では1軒の空き家に入った。その当時、家主の儀武さんは他の場所に避難していた。翌日からは島尻南部から来る避難民の中に親戚たちがいないか道に出て探した。

■実家の家族との再会
百名で数週間過ごした頃、アメリカ軍のトラックの荷台に乗っている避難民の中に父の實吉と弟2人(實英と實功)を見つけた。母の姿は見えない。實功はけがをしているようだった。百名の収容所に降ろしてくれると思ってついて行ったが、トラックは荷物だけを降ろして走り去ってしまった。
その日から、娘を背負って従弟の長徳と一緒に方々探したが父達は見つからなかった。だがある日、捕虜になって入って来た知人が「3人は佐敷の仲伊保(なかいほ)にいる」という情報を持ってきた。私は長雄おじさんと長徳と一緒に佐敷村(現 南城市)に行き、親子3人を見つけた。實功の腿(もも)の傷は化膿し悪化していた。父も腕が動かない状態で元気が無かった。母は弾の破片が肩から入り、内臓まで達して亡くなったということだった。もうかわいそうで、「早く探せなくてごめんね」と詫びた。
長雄おじさんが實功を背負って百名に連れ帰り、実家の家族も一緒に暮らすことができた。だんだん實功の傷もよくなり、3人とも元気になって安心した。親戚の皆さんのおかげで助けることができた。
その後、従妹の千代が子守をしながら孤児院(こじいん)に遊びに行き、「子どもたちの中に見たことのある女の子がいた。あれは初ちゃんではないか」と言ってきた。行ってみると、玉城の夜の山道で別れた姉の娘の初子だった。話によると、島尻南部で一緒だった家族が皆亡くなり1人だけになったという。運よく千代が見つけてくれて姪を助けることができた。
戦後は夫も無事に復員(ふくいん)し、4男2女の子宝にも恵まれ、現在は孫18人、ひ孫19人の大世帯になった。戦争で助かった弟達や姪も、子や孫に恵まれて幸せに暮らしている。
戦争から63年経った今でも、想い出すのは戦争で亡くなった肉親、親戚、友人達の事である。
(仲原節子による聞き取り 2008)