■父の出征とムラヤーでの軍国主義教育
戦前、私は父、母、弟、祖母と暮らしていた。
父は農業をしていたが、海軍兵として長崎県佐世保(させぼ)に出征(しゅっせい)した。出征の時には集落の住民が軽便(ケービン)鉄道の稲嶺駅に集まり、旗やのぼりを立ててみんなで見送った。父以外にも誰かが出征する時には同じように見送りをしていた。
戦前はムラヤー(公民館)が現在の保育園や幼稚園のような役目も果たしていて、母親たちが畑仕事をしている最中、子ども達は自然にムラヤーに集まって過ごしていた。ムラヤーには先生のような人がいて、その人からいろんな軍歌を教えてもらってみんなで歌っていた。当時は「大きくなったら兵隊になって、剣を下げた海軍士官(しかん)になりたいなー」というような内容の軍歌しか教えていなかった。軍歌を習っていたことで、兵隊に行くのは戦場に戦いに行くことなのだと分かっていた。だがムラヤーで友人たちと一緒にいたので、父が兵隊に行ってしまっても「寂しい」などの感情は抱かなかった。
私は小学校に上がる前だったが、ムラヤーで兵隊を称える軍歌を教えてもらっていたし、周りの人たちも「自分たちは勝つ」と思っている人ばかりだったので、「鬼畜米英(きちくべいえい)」という考え方や雰囲気を感じ取っていた。
当時は広場などが少なかったので、青年や大人たちもみなムラヤーに集まっていた。ムラヤーには鉄棒や、さまざまな重さの石(50キロ、120キログラムなど)があった。青年たちは夕方になるとムラヤーに集まり、鉄棒や石担ぎの勝負、沖縄相撲などをしていた。
■平川への日本軍の駐屯
平川にも兵隊が駐屯(ちゅうとん)するようになり、大砲の陣地も造られていた。集落に日本兵が来たばかりの頃、何のお祝いだったのかはわからないが、陣地のところで芝居などの余興をしていたのを見たことがある。舞台を設置して紅白の幕も取り付けられていた。区民もみんな集まってそれを見物していた。
頼まれたわけではないが、平川の上の陣地にいた日本兵に芋を持って行くと「お利口さん」と言って頭を撫でてくれた。彼らは皮も剥(む)かずにパクパク食べていたので、満足に食事を取っていなかったのではないかと思う。当時5歳だった私は褒められて嬉しかったので、また芋を持って行っていた。
■平川での壕生活
平川の小高い場所に壕が3つあり(現在1つは埋まって2つは残っているが、そこもだんだん崩れてきている)、そこはわが家が所有している土地でもあったので、私たち家族(当時私は5歳、弟は2、3歳ぐらいだった)はそこに避難していた。母は体が弱く、弟も栄養不良のため自分で歩けなかった。女性と小さな子どもだけだったので、壕を出て他のところに避難することがなかなかできず、平川の住民の中でも最後まで集落に残っていた方だと思う。「どうせ死ぬなら自分の集落で」という覚悟もおそらくあっただろう。
壕で生活していた時には食料があまりなかったので、冬瓜(とうがん)に黒砂糖をまぶして食べた覚えがある。壕の中でも弾の飛ぶ音が聞こえていた。
■大城で捕虜になる
その後、大里南小学校裏の「ティンマブイ」と呼ばれている道を通り、親戚のいる大城へ向かった。
私たちが壕を出る頃には、平川は木の葉っぱ1つもないぐらい焼かれていた。平川には日本軍の陣地があったため、アメリカ軍の攻撃により爆弾の穴がたくさん空いていた。当時は、爆弾で出来た穴も艦砲弾でできた穴もまとめて「カンポウ穴」と呼んでいた。アメリカ軍は日本軍の部隊が陣地から撤退したあとも、逃げ遅れた兵士を掃討するために民家を焼き払っていたようだ。
大城に向かう途中、饒波(のは)川に掛かっていた橋が壊れていた。水かさがあまり高くなかったので、歩いて渡ることができそうだった。すると、アメリカ軍が照明弾を打ち上げて周りが明るくなった。今考えると怖いことだが、その時は祖母が「天の助けだ。今だ!」と言って手を繋いで川を渡った。アメリカ軍も、民間人だと気づいて攻撃しなかったのかもしれない。途中、祖母は自分のお墓の方向に向かってウチナーグチで「私たち親子を見守って下さいね」と手を合わせていた。
死体をまたいで逃げていたが、自分が逃げるのに精一杯で何とも思わなかった。弾の破片が飛ぶ音がピューピュー聞こえていて、この音で弾が近くを飛んでいるのか、遠くを飛んでいるのか判断していた。
大城はほとんど攻撃されておらず、民家もけっこう残っていて、馬の肉を売りに来る人もいた。初めのうち、私たちは昔の豚小屋のような場所に隠れていたが、弾が飛んでこないので空き家に入って生活していた。
ある日GMC(アメリカ軍の大型トラック)がやってきて近くに停まり、アメリカ兵が集落を歩き回った。彼らはお菓子を投げて後ずさりした。私たちはこれにびっくりし、初めて見る黒人兵の肌の黒さや背の高さにも驚いて恐怖を感じた。彼らが銃を向けることは無かったが、おそらく銃は持っていたのだろう。
アメリカ兵が投げたお菓子は、祖母が「毒が入っている」と言って食べなかった。するとアメリカ兵が食べて見せてくれたので私たちも食べた。ガムももらったが、当時は噛むだけのものとはわからず、2、3回噛んでから飲み込んでいた。GMCが停まっているところには他の避難民たちも集められていて、祖母や母も抵抗しようがなく、私たちは捕虜になった。
集められた人たちはアメリカ兵に抱えられてGMCに乗せられた。この時「殺されるかもしれない」と思った人はいっぱいいたかもしれないが、逃げる人はいなかった。
記憶はないが、この頃アメリカ軍はおそらく糸満方面に侵攻し、大里は制圧されていたのではないか。家族の中に大人の男性がいたら摩文仁(まぶに)(現 糸満市)方面へ避難していたかもしれない。女性と子どもだけで避難していたのが幸いして助かったと思う。4人で避難していたが誰も弾1つ当たらなかった。平川の住民の中にも、摩文仁方面まで逃げて亡くなった人が大勢いた。
■知念と目取真での収容所生活
大城からGMCで玉城村(現 南城市)百名(ひゃくな)まで移動した。百名には大きな病院があった。当時はシラミやノミが原因で皮膚病にかかる人が多く、容器が無かったからか、貝殻にオロナイン(軟膏)のような薬を詰めてみんなに渡していた。
その後、百名から知念村(現 南城市)へ移動した。知念には避難民がたくさん集められていた。配給物(はいきゅうぶつ)もいっぱいあり、四角い一斗缶に入った乾燥じゃがいも(小さくスライスされていた)などの缶詰類が多かった。この一斗缶の空になったものをいくつか集め、天秤棒(てんびんぼう)のように棒にくくりつけて水汲みに使った。他にも水タンクやお米が配給された。お米には雑草の実や石ころが混ざっていたため、竹で編んだざるを使ってそれらを取り除いてから炊いた。配給は贅沢(ぜいたく)できる量では無かったが、ひもじい思いはしなかった。
アメリカ軍は物量が豊富で、捕虜になった人々を餓死させないような配慮を相当していたし、けがの治療もしてくれた。今考えると勝つよりも負けて良かったと思う。日本が勝っていたら負けた国の人のものをみんな取って、捕虜たちも殺したかもしれない。私も兵隊に取られて生きていなかっただろうと思う。
知念でしばらく過ごした後、大里村目取真(めどるま)へ移動した。この頃、平川に帰る許可はまだ下りていなかった。稲嶺十字路の道の真ん中にはMPが1人入れるほどのボックスがあり、MPは通行人の検問や交通整理をしていた。
知念も目取真も、焼け残った民家が配給所として利用され、人々はそこに配給物資を取りに行った。避難民たちはいっぱい残っていた空き家に生活していたが、1軒の家に数世帯が寄り集まって生活していた。私たち家族も首里や糸満から来た家族と一緒に4世帯で入っていた。小さな子どもが泣きじゃくった時などは、迷惑をかけないよう外に出てあやさなければならず、周りに気を遣うので大変なストレスだった。
働ける人は軍作業に動員されていた。軍作業の時に食料を盗んでくる人も多く、窃盗ではなく「戦果(センカ)」と言っていた。MPが来た時も、「とった食料を齧(かじ)れば問題ない」と言われていたそうだ。
■平川での戦後生活
平川はアメリカ軍の攻撃で何もなくなっていた。家の再建のため、各集落にはトゥーバイフォーという規格住宅の建築資材の割り当てがされた。全世帯に配布されたわけではなく、集落に4、5軒から10軒ほどだった。
戦後は青年会などで集まり、機械もないのでショベルで畑を耕し、自力で開墾(かいこん)していった。その時に不発弾が爆発して亡くなった人もいた。山火事の時には必ずあちこちで不発弾が爆発するので、山火事が起こると近づかなかった。
住民たちはサトウキビや芋を栽培した。集落には馬が引っ張ってサトウキビを絞るサーターヤー(製糖場)が4ヵ所(1号~4号と呼んでいた)あった。「お金になる」という理由で、田んぼを潰してサトウキビ畑にした人も多くいた。のちに馬でなく、集落で1基の発動機(はつどうき)の圧搾機(あっさくき)を使ってキビを絞るようになった。
収穫した芋やキビは徒歩で那覇へ売りに行っていた。国場(こくば)(現 那覇市)を上がったところにいた仲買人に売る人もいれば、仲買人を利用せずに現在の与儀公園近くに売りに行く人もいた。私はまだ小さかったので母について行くだけだったが、7、8歳くらいからは一緒に芋を担いで手伝っていた。那覇に売りに行った時には母と一緒に沖縄そばを食べた。2人分買うお金が無かったので、1杯を2人で分けて食べた。
その当時は電気や水道も普及しておらず、バスなどの乗り物もなかった。最初に普及した乗り物はオート三輪と呼ばれる三輪車だった。終戦後には日本軍のトラックの部品を利用した組み立てトラックというものもあった。
戦後4、5年経った頃にはスクラップブームが始まり、弾の破片であるスクラップ(くず鉄)を集めてお金に換金する人が増えた。私もスクラップを集めて売り、そのお金でそうめんを1箱買ってよく食べていた。畑を開墾する時に掘り起こされた破片を集め、そこの破片が無くなると山に行った。爆弾が落ちた跡の大きな穴をショベルで掘り起こし、埋まっている破片を探した。爆弾の穴は、日本軍の陣地があった平川が村内で一番多かったと思う。
爆弾の穴はのちに大きな池のようになったので、各集落の青年会はそこで鯉を飼育して販売するようになった。熱が出た時には鯉とハママーチ(リュウキュウヨモギ)を煎じて飲むと熱冷ましになるということで、鯉を買いに来る人がいた。
■苦労しながら必死に働いてきた戦後
戦争が終わった時には、「負けた」とか「戦争が終わってよかった」とは思わず、「やっと終わったんだね」ということと、「自分の父親がいつ帰ってくるか」ということしか考えなかった。私が7、8歳の頃に父の戦死を知らせる戦死公報が届いた。父はソロモン諸島付近で乗っていた船が攻撃を受けて戦死したそうだ。遺骨は帰ってこなかった。母も栄養失調とマラリアで亡くなった。
戦後落ち着いてからは、配給もなくなった上に働き手もいないので生活に苦労した。味噌が買えず、料理も塩だけで味付けをして食べるぐらい大変で、困窮家庭に支給された手当(「救済」と呼んでいた)をもらいながら生活していた。中学も3年生の3学期から行けなくなり、出席日数も足りなかった。そのため先生に、「落第するとあと1年学校に通わないといけないが、それはできません。先生の力で卒業させてください。卒業後、絶対に先生に迷惑をかけません」と手紙を出した。すると先生は卒業証書などを持ってきてくれた。そのおかげで、中卒以上でないと受けることができなかったクリーニング師の免許を取得できた。先生には非常に感謝している。
卒業後は高校へ進まず、丁稚奉公(でっちぼうこう)として知り合いのそば屋に住み込みで働いた。そば屋で出た廃油は持ち帰って家で使っていた。
そば屋のあとはクリーニング屋に住み込みで働いた。復帰前まではアメリカ軍相手の大きなクリーニング屋がたくさんあり、アメリカ軍は下着や靴下もクリーニングに出していた。結婚してからは糸満で小さなクリーニング店を開業した。クリーニング店をしながらバスの運転手も始めたが、クリーニング店は10年ほどで閉めた。
幼いころに「救済」を受けて多くの人たちにお世話になったので、青年会長やPTA会長、区長、村議員など、お願いされた仕事は恩返しのつもりでやるようにしてきた。
■平川での戦没者慰霊と大砲
平川では戦後10年も経たない頃に慰霊塔が建立された。初めは区民を祀(まつ)るためのものではなく、散らばった遺骨をまとめてつくった慰霊塔だったと思う。後から区民116人の名前が刻銘された。戦前の平川は50戸前後の戸数だったと思うが、これだけの戦没者がいるということは戦争の激しさを物語っていると思う。
毎年の慰霊の日には、16時から集落で慰霊祭をしてきた。摩文仁(まぶに)での県の慰霊祭と時間がかぶらないように16時から開始していたが、現在は遺族も高齢化しているため、摩文仁まで行く人は少なくなったと思う。
平川では、アメリカ軍の攻撃が激しくなってから日本軍が撤退した後の壕に、民間人の避難民が入っていたようだ。そこでも多くの人が亡くなったらしい。戦後に村外から拝みに来る人がたくさんいて、中でも中頭方面からくる人が多かった。現在は開発でなくなっているが、壕には戦死者の名前を書いた札もいくつもあった。現在は彼らの肉親が高齢になったからか、拝みに来る人を見ることはなくなった。畑を耕す時に出てきた遺骨はカマスに入れて集落の1ヵ所に集め、のちに県の収骨所に持って行った。
また、平川の陣地があった場所からは約80柱の遺骨が出てきた。厚生労働省が遺骨収集をしている時に大砲が埋まっているのも発見された。この大砲には台もついていて、土中に埋まっていたのであまり朽ちていなかった。その後、自衛隊が陣地のあった山から一週間かけて大砲を運び出し、展示するに至った。
■若い世代の人達へ伝えたいこと
国がやるべきことは、外交、国防、経済という国の特権を十分に発揮して平和な世の中をつくり、国民の生活を豊かにすることである。平和を維持するためには国防も必要だ。沖縄だけのことを考えるのではなく、世界情勢も理解しなくてはいけない。軍隊はない方が理想的ではあるが、現実に合った考え方を持ってほしい。
(榮野川彩、眞﨑陽介、簡佳真による聞き取り 2015)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015720 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 164-170 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-平川 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |