■陣地構築や食糧増産にかり出された学校生活
戦争が始まる前、私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)の高等科1年生だった。学校には武(たけ)部隊が駐屯(ちゅうとん)していたが、のちに台湾に移動し、その後に球(たま)部隊が来た。各字(あざ)の公民館にも軍が駐屯していたので、授業は木の下で行われた。
学校に行っても、握り飯1つで兵隊が壕から出した土を小さなざるで外に運び出す作業に動員させられたり、学校の東側の饒波(のは)川の向こう側にあった集団農場(校地だったのか小作だったのかはわからない)で食糧増産の作業をさせられたりした。勉強らしい勉強はできなかった。
のちに沖縄戦が始まったため、私たちは修了証書をもらえなかった。そのため戦後数十年経ってから、大里村教育委員会から修了証書を授与された ※1。
■雨と攻撃の中のやんばる避難
私の家族は、知り合いの兵隊(彼は炊事班だった)から「この戦(イクサ)は見込みがないので早くやんばるに行って」と言われたためやんばるに避難した。やんばるに出発する4日前には、港川(現 八重瀬町)方面から大砲の弾が飛んでいくのが見えた。アメリカ軍が上陸する前、3日ほどは平川の後方の西側に父が掘っていた小さな壕に隠れていた。集落後方の山に大砲陣地があり、アメリカ軍の飛行機が低空で飛んできたので日本兵が鉄砲を撃つと機銃攻撃を返され、機関銃がやられたことがあった。
私たちは家族9人(両親と子ども7人)でやんばるに行った。石川(現 うるま市)の東恩納(ひがしおんな)の手前の坂までは、兵隊が壕に使う松の木を取りに行くためのトラックに乗せてもらった。
私はそこから父と2歳上の兄と一緒に、東村の川田、平良まで2往復して荷物を運んだ。母は身ごもっていたので、1番下の弟(四男)と一緒にその荷物の見張りをしていた。
昼は歩けないので、夜通し歩いて一週間以上かかった。私は小さい時から鍛えられていたが大変だった。
移動中、アメリカ軍の飛行機が飛んできて目の前から機銃掃射されたことが2、3回ほどあった。飛行機が飛んできても「あれは日本の飛行機だ、何でもないよ」と油断していた時、目の前から機銃でパラパラパラと砂煙をあげて撃ち込まれたこともありとても怖かった。
東恩納から石川の橋を通ろうとしたが、その橋が砲弾で穴が空いて通れず、金武の入口のウマイー(馬場(ばば))のところにあった製糖小屋へ行った。そこには採石したあとの場所に、地元の人達が掘ったのかわからないが壕が掘られていて、高宮城(たかみやぎ)の2家族と湧稲国(わきなぐに)の1家族、私たちの家族も合わせて5世帯が避難していた。
ところが艦砲弾が近くに落ちると上から石ころがポロポロ落ちてくるので、父は「ここにいては危ない」と判断し、私たちは壕を出た。その翌朝、壕に残っていた3家族の全員が犠牲になった。私たちは父の判断のおかげで助かった。
戦争中に苦労だと感じたのは、雨が降っていても隠れる場所がなく、疲れと眠気をこらえて濡れながら歩いたことである。寝る時には服を脱いで絞って干し、裸のまま寝ていたが、疲れていたので寝ることができた。雨の多い時期だったが風邪は引かなかった。
■松田での収容所生活
そこから一週間かけて東村の川田、平良まで行った。天仁屋(てにや)(現 名護市)には現在のような道はなく、人が通れるだけの山道を通った。
川田、平良まで行ったがアメリカ兵に会い、大変だと思ってまた同じ道を引き返した。島尻に引き返すつもりで金武を少し過ぎたところに来ると、またアメリカ兵が隊列を組んで上陸して来るのに出くわし、現在の宜野座村松田(当時は古知屋(こちや)と呼ばれていた)に行った。アメリカ軍が両方から侵攻して来るのでびっくりして山の中に逃げたが、そこでアメリカ兵につかまり、宜野座の収容所に入れられた。これは2回目の往復の時だった。
私たちと父は別々の金網(カナアミ)に入れられ、父は民間人か兵隊かを判別するためにいろいろな尋問(じんもん)を受けた。私たちは2日間収容され、父は兵隊ではないとして返された。
父は地元の人達と友達になり、松田で2、3週間ほど暮らした。島尻で負傷した人たちも松田で暮らしていて、2メートルほどの木が生えているところを切り倒し、そこに茅葺(かやぶき)小屋を造って、テントを張ったところに収容されていた。見たことはなかったが、そこで亡くなった人たちはその土地に穴を掘って埋葬(まいそう)されたと聞いた。
地元の人たちのお世話になったということで、大工だった父は家も造ってあげていた。家を造るのは大変で、雨の日は松を担いで浜で転んだこともあり、父は「こうして生きるより死んだ方がましだ」と言っていた。私は子どもだったため言われるままにやればよかったので、それほど苦労だとは感じなかった。地元の人達とは戦後も付き合いがあった。
■「戦果(センカ)あげ」と平川の再建
戦争が終わり、玉城村(現南城市)船越(ふなこし)の収容所に一週間ほどいたのち、目取真(めどるま)の収容所に移されて2週間ほど過ごした。私は子どもなのでそこでの仕事はなかった。だがアメリカ軍のごみ箱あさりや、与儀(現那覇市)までモービルオイル(天ぷらを揚げるのに使った)の入ったドラム缶を取りに行くなどの「戦果あげ」をした。「食べられるオイルは何番、食べられないオイルは何番」だとあらかじめ教えられていた。やんばるにいた時にも兄と一緒に松田の山道を通り、アメリカ軍の部隊がいた西海岸までよく取りに行った。当時は冒険心もあった。
平川に帰ると、集落全体で茅葺の家のほとんどが焼けていて、3、4軒ほどの瓦葺(かわらぶき)の家が焼けずにつぶれているのが残っていただけだった。私たちのアミダイガーラ(軒は瓦、屋根は茅葺でできた家)の家と、2階建ての瓦葺の馬小屋も焼かれて残っていなかった。
父と兄(兄も大工だった)は、初めは電柱やアメリカ軍の払い下げの材料と、アメリカ軍から支給されたトゥーバイフォー(2×4インチ)の角材を使って家を建てていた。ホンダテヤー(トゥーバイフォーの資材で造った規格家(キカクヤー))の配給はその後から始まった。平川でのホンダテヤーの配給は4軒ほどだった。
(知念昌徳による聞き取り 2008~2010頃)
■脚注
※1 昭和19年度の大里第一国民学校、大里第二国民学校の高等科1年生と初等科6年生の修了式、および当時の高等科2年生の卒業式が1996年3月30日に大里村教育委員会主催で行われた(『広報おおざと 平成8年5月号(第195号)』大里村役場企画課編集・発行 1996)。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015719 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 161-164 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-平川 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |