■日本軍の駐屯(ちゅうとん)と十・十空襲
戦前、私の父は馬車ムチャー(馬車引き)をしていて、家には馬が1頭いた。父は馬車に荷物を積んで運ぶ仕事をしていて、いろんな場所に行っていた。
私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)へ高等科2年まで通った。国民学校6年生くらいの頃から、私は馬のための草刈りなどの家の手伝いをするようになり、あまり自由に遊ぶことができなかった。戦時中だったこともあり、学校の先生は厳しかった。学校で竹やり訓練をした記憶があるが、よく覚えていない。
戦争が近くなると、平川(ひらかわ)に球(たま)部隊の兵隊が駐屯するようになった。家の隣にあった防空壕にも日本兵が入っていた。兵隊には食料があまり無かったようで、「ご飯があったら下さい」と言って2、3人が家にもらいに来ていたことがあった。
日本軍は高さのある山に壕を掘り、そこに大砲などの武器を隠していた。港川(みなとがわ)(現 八重瀬町)方面に向かって撃つ練習をしていたこともあった。
十・十空襲(1944年10月10日)の時には家にいて、飛行機が飛んでいくのがわかった。だが田舎の方は何も攻撃されなかったので、あまり気にならなかった。
■金武へ避難
当時24、5歳だった長兄は兵隊として沖縄戦に動員され、次姉も軍の炊事班として動員された。長姉は当時20代で、銭又(ぜにまた)に嫁いでいた。
私たち一家は、4、5日ほど先に金武へ避難していた平川の人たちのつてで、父、母、私(次男)、家に残っていたきょうだい達(三男の弟と三女・四女の妹)で金武へ避難した。
銭又を夜中に出発して馬車で向かったが、途中の石川(現 うるま市)にあった橋が壊されていたため遠回りして行った。父は私たちを金武で下ろしたあとに島尻に戻った。
避難した壕の名前は分からないが、自然壕で寺のそばにあった。詰めたら100人くらいは入るような大きな壕だった。金武ではギマさんという人の家を借りていた。昼間は壕に避難し、夜はギマさんの家で食事をしたり寝たりして過ごした。
食事は家から持参したものや、金武で掘った芋を使って芋ジューシーなどを作っていた。炊事は朝早くに母がしていた。当時7歳ぐらいだった弟が壕で座っている時に「ひもじい」と言って泣くのでその子に食べさせ、私たちはあまり食べなかった。
金武にいる間、飛行機が飛んでいくのはわかったが、記憶に残るような攻撃を受けた覚えはなく静かに過ごした。
■焼け野原の平川で必死に生きて来た
戦争が落ち着き、どのような経緯で壕を出たのかは覚えていない。一緒に避難していた家族は全員大きなけがもなく生き延びることができた。のちに金武から、私たちよりも先に避難していた平川の人たちと一緒に目取真(めどるま)へ行った。
目取真の収容所には2週間ほどいたと思うが、金武にいた期間や、目取真へ向かった時期などは覚えていない。食べるのもやっとでそんな余裕はなかった。アメリカの食べ物を食べた記憶はあるが、配給(はいきゅう)されたのか、どのように手に入れたのかは覚えていない。
島尻に戻った父は戦死したようだが、どこで死んだのかも分からず、遺骨も無い。長兄と次姉も戦死した。
平川は焼け野原になっていて、私の家も焼けてしまっていた。家は仮小屋のようなものを自分たちで造った。マラリアなどの病気に罹(かか)ることも無く、戦後は農業をして弟妹たちを養ってきた。
(村田ゆうこ、久場綾音、上石将暉による聞き取り 2015)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015718 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 159-161 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-平川 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |