■ダバオ移民の子として戦争を経験
私は家族の移民先であるフィリピンのダバオで生まれた。ダバオでは父(平助)、母(マカト)、2歳年上の姉(弘子)、1歳年下の弟(源次郎)の5人家族で暮らしていたが、昭和16年(1941)に母が他界した。
4、5歳の頃の私は、「君、何になる?」と将来の夢を聞かれると「はい、航空兵になります!」と答えていた。今考えると恐ろしいことだ。
私が5歳の頃、ダバオにも戦争が近づき、父は出征しないといけなくなった。子ども達だけを残していくことはできないので預け先を探したが、なかなか見つからなかった。だが最終的には、祖父同士が友人だった稲嶺出身の人が私たちを引き取ってくれた。
私が6歳の頃にはダバオも戦場となり、私たちは逃げ回った。父と弟は戦争で亡くなってしまった。
捕虜になった人々はダリアオン収容所に集められた。日中、私は収容所から、アメリカ軍の水陸両用車(ダバオでは海上トラックと呼んでいた)が海に入ったり陸に上がったりするのを眺めていた。
するとその日の夕方、収容されていた人々はその水陸両用車に乗せられた。男性たちは他の場所に連行されていて、乗せられたのは子どもと女性たちだけだった。辺りも薄暗くなった夕方、私たちを乗せた水陸両用車は海の方に突っ込んでいった。それまで海を見たことがなかったので、私は「海は広いな 大きいなー」と口ずさんでいたが、お母さんたちはみんな「アイエー、もうみんな海に捨てられる」と言って泣いてしまった。
だがしばらくすると、沖に停まっている大きな船が見えてきた。私たちはこの船に乗れるということがわかり、みんな「わー、日本に帰れる!」と言って喜んだ。私がのちに調べた資料によれば、私たちを乗せた船は昭和20年(1945)の10月15日の夕方にフィリピンを出て、22日に広島に着いたらしい。
■広島から福岡、宮崎へ
広島に着くと、原爆で焼け野原になった光景を見て胸が痛んだ。しばらく経ってから、あれが原爆によるものだと知った。
その後、私たちは汽車で福岡県へ運ばれた。汽車の汽笛は「ウィー ウィー」という音で、当時の私は豚の鳴き声だと思っていたが、のちに汽笛の音だったとわかった。
福岡では欽修寮(きんしゅうりょう) ※1に入れられた。私と姉は稲嶺区のイージョウ(屋号)のお父さん(エイキさん)、お母さんと一緒にいた。その後、私より一回り年上の従兄のお兄さんが欽修寮に迎えに来た。彼は長崎県佐世保(させぼ)の軍需工場で働いていたが、原爆(当時は新型爆弾と呼ばれていた)で解散になったのだと思う。その後家族が疎開していた宮崎県に行き、私たちが欽修寮にいるというのを知って迎えに来てくれた。
彼が来た時は、ちょうどイージョウのお父さんがマラリアの発作のためブルブル震えていて、私と姉が上に乗っかって震えを抑えようとしていたところだった。お父さんに「従兄のお兄さんが連れに来たから行きなさい」と言われたが、すぐに「行きません」と答えた。すると「あんたはお兄さんが連れに来ているのに聞かないのか」と怒鳴られてしまった。そのため心で泣きながら宮崎に行くことになった。
宮崎に向かったのは11月頃だったので、乗り換えのために下りた都城(みやこのじょう)駅(現 宮崎県都城市栄町)で、私と姉は寒さのためブルブル震えていた。お兄さんは少し離れた場所に立っていた。
すると、34、5歳ぐらいの女性が来て、お兄さんに「この子たち親がいないんでしょう?ブルブル震えている。私がもらいましょう」と言った。お兄さんが「母が三財(さんざい)村(現 西都(さいと)市)にいて、連れて帰らないと叱られます」と言って断ると、「じゃあこれを着せてあげてちょうだい」と言ってタイツをくれた。戦争というのはひどい出来事もあるが、こういう経験もあり、涙なくしては語れない。
お兄さんは後年、「あの当時の自分は18歳で、まだ子どもで恥ずかしく感じていたので離れて立っていたのだ」と、お酒を飲むたびにこの時のことを語っていた。
■小学1年生のヤミ商売
宮崎に着いてからは大変だった。1ヵ所に半年や1年留まることはなかった。
私は三財村の三財小学校に昭和21年(1946)4月に入学し、1日だけ通ったが、食料難のため後からはヤミ商売に行くようになった。そこでは供出米をヤミ商売に出してお金を稼ぐ人が多かった。私は3升、小学校5年生の従兄は5升、その姉である高等科2年生の従姉は7升の米をかつぎ、3人で花ヶ島(はながしま)(現 宮崎市)まで売りに行った。
花ヶ島では検問があった。当時、15、6歳ぐらいの背の高い人はもう大人という扱いで、ヤミ商売をすると捕まっていた。検問の人は年上の従兄姉たちではなく、わざと私に「僕、何年生か?」と聞き、「はい、僕1年生です」と答えると「よく勉強するんだよ」と言って通してくれた。
宮崎にいた頃には1つの家に5、6世帯で住んでいた。この頃、私はあまり言葉を発しなくなっていた。だが栄養失調で痩せていたためお尻の骨が痛くて、夜に「おばさんお尻が痛いよー、痛い、痛い」と言った。姉も同様にやせ細っていたが、「泣かないで、みんな寝てるよ」となだめてくれた。
■大阪で姉と離れ離れに
その後、私たちは父方の祖父の弟たちに引き取られて大阪に行くことになった。私たちの祖父は次男で、三男と四男の弟たちが大阪にいた。宮崎のおばさんに、「沖縄が玉砕(ぎょくさい)だったら私たちもそのまま宮崎に住むことにするので、源ちゃんと弘ちゃんは大阪に行きなさいね」と言われた。大阪に行ったのは昭和21年の4月中旬から下旬ごろだったと思う。
大阪では、私は三男おじさんのところ、姉は四男おじさんのところに離れて預けられた。私の感覚では、両家は2キロほど離れていたと思う。姉が預けられた家は夕凪橋(ゆうなぎばし)のところにあった。私は姉に会いたくて、姉の元へ毎日通った。大阪には路面電車があり、速度が速くなかったので電車と追いかけっこをしながら姉の家に通った。
道中にはイチオカビルという焼けたビルがあり、その1階にあった床屋に蓄音機(ちくおんき)があった。ダバオにいた時に近所の家の蓄音機をいじっていたことがあり、床屋のお兄さんに「この蓄音機で音楽を聴きたい」と頼むと「やっていいよ、自分でやりなさい」と言われ、いろんなレコードを聴かせてもらった。なかでも「燦(きら)めく星座」という曲を気に入り、大人になってもカラオケでよく歌った。
■祖母が大事に持ち続けた家族写真
4月下旬に大阪に行ったが、7、8月頃になると、沖縄が玉砕ではないということ、祖母が健在だということを初めて知った。従兄のお兄さんが大阪に来て、「源ちゃん、弘ちゃん、おばあちゃんが生きているけどどうする?そのまま大阪にいる?沖縄に帰る?」と聞いてくれ、沖縄に帰ることになった。
沖縄に帰ると、祖母(ウシ)は私たち家族の写真を持っていた。当間に住んでいた男性(ダバオにいたが、太平洋戦争が始まる頃に沖縄へ帰った)が私の父から預かって祖母に渡していたそうだ。祖母が沖縄戦の中、その写真を大事に持っていたことに驚いた。
■平川(ひらかわ)にいた元日本兵たちとの交流と大砲
平成8年(1996)、私の妻が家の前で掃除をしているとタクシーが停まって運転手が降りてきて、「ここは何という集落か」と尋ねてきた。ここは高平(たかひら)で小字(こあざ)名が平川であることを伝えると、タクシーに乗車していた男性が「これで安心した。思い残すことはない」と言った。
私は家の中にいたが、そのやり取りが聞こえたので外に出た。タクシーに乗っていたのは寒郡(カンゴオリ)さん(千葉県)という方で、戦時中、日本兵として沖縄に来ていた。彼は戦友を弔うために戦後30回以上、毎年の慰霊の日に沖縄に来ていたという。寒郡さんは平川に駐屯していた時に私の祖母の世話になっていたそうだ。
翌年、寒郡さんは戦友である辻さん(山梨県)と横山さん(千葉県)を連れてきて、3人は大里村の小中学生に戦争体験の講演をした。
辻さんは沖縄戦時に平川で戦った兵士の1人で、平川の壕に大砲が1基埋まっていることを教えてくれた。それがきっかけで私たちは色々な要請や手続きをし、平成15年(2003)に大砲を掘り起こすに至った。
(事務局による聞き取り 2015)
■脚注
※1 福岡県の春日村(現 春日市)にあった沖縄県民の引揚者寮。本書第二部収録の亀谷長榮「春日村沖縄寮の生活」の中に関連する記述がある。
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015716 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 153-156 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-平川 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |