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金城善一(昭和9年生まれ 大里・高宮城)【キーワード】皇民化教育/軍国主義教育/一般疎開

■皇民化教育・軍国主義教育と軍隊の駐屯(ちゅうとん)
戦前、私は大里第二国民学校(大里南小学校の前身)に通っていた。当時の大里第二国民学校には、天皇の御真影(ごしんえい)を奉(たてまつ)った奉安殿(ほうあんでん)という建物があり、そこの前を通ると必ず礼をした。当時の教育は戦争を勝ち抜くという内容で、まず教育勅語(ちょくご)を覚えることから始まった。低学年の頃は戦争ムードを高めていくということで、紀元節(きげんせつ)や明治節(めいじせつ)などの天皇を賛美するような行事が執り行われた。学校行事としては一番大きな行事だったと思う。軍歌も合唱させられた。
また「鬼畜米英(きちくべいえい)」、つまりアメリカ人やイギリス人は家畜みたいな程度だと強制的に教えられ、学校の正門のところにアメリカ人やイギリス人の人形を置き、竹やりで生徒に突かせていた。子ども心にも「敵に憎しみを植え付ける教育内容だなぁ」と変に思った。
宮崎県へ疎開する前には、たぶん4年生に進級した頃だったと思うが、学校は武(たけ)部隊(のちに台湾に移動した)の駐屯地にされた。学校は休校状態になり、4年生以上の生徒は毎日のように学校近くの保地(ボージ)山の「避難壕」造りのため、小さな竹かごでの土出し作業に参加させられた。

■宮崎県へ疎開(そかい)
アメリカ軍が沖縄に上陸するという情報が次第に確実性を増してきた昭和19年(1944)8月、母、姉1人、私、妹3人の計6人で宮崎県児湯(こゆ)郡三財(さんざい)村の上之宮(かんのみや)(現 西都市上三財上の宮)に疎開した。この時私は国民学校の4年生だった。
宮崎では最初は集落の公民館に入れられていたが、小森實さんという非常に心の温かい区長が「沖縄の皆さんには家を造ってあげよう」と呼びかけてくれ、集落の共同作業で家を建ててもらった。あの区長さんには感心した。[妹の幸子による補足:床は板の代わりに竹を半分に割って作った竹床(ダキユカ)で、とても寒かった。]
母は女手一つで5人の子どもを育てるのに大変苦労し、毎日というほど日雇いで頑張ってくれた。私たちも、学校を終えた後や休みの日には田植えの手伝いや芋掘りをしたり、山で山菜や薪を採ったりして暮らした。食べ物も買うことはできないので、区長さんが「ひもじい思いをしているでしょう、子どもたちにあげて下さい」とくれた種芋(たねいも)(地元の人たちがカズラを植えるために埋めた苗床(なえどこ)のもの)や、収穫後の田んぼから落ち穂を拾って飢えをしのいでいた。[幸子による補足:私たちは、米が少しだけ入った芋のおかゆを食べていた。]
疎開先ではそのようにして2ヵ年生活してきたが、学校では勉強らしい勉強はしていない。疎開中は何もない中で食べるのに一生懸命だったし、戦時中で落ち着いて勉強できる状況ではなかった。終戦前には学校の運動場に竹で大きな飛行機の模型を生徒に作らせて、それにアメリカ軍に爆弾を落とさせようという試みなどもしていた。空襲も2回ほどあった。大きな川の堤防(ていぼう)の上から飛行機が飛んできたので、日本軍だと思って「バンザイ、バンザイー」と手を振ったら機銃掃射され、あわてて集落のある家に飛び込んだことが2回ほどあった。
宮崎では冬になると雪が何回か降った。冬の期間はずっと霜(しも)が降りていたので、寒かった思いとひもじかった思いでいっぱいだった。[幸子による補足:母はとても寒い時にも切り干し用の大根洗いをしていて、手がいつもあかぎれしていた。]

■家族3人が沖縄戦の犠牲に
疎開を終え沖縄に帰ってきたら、沖縄に残っていた父と祖母、兄はすでに亡くなっていた。同じ集落の人から、父たちが糸満の真栄平で戦死して新垣(アラカチ)という集落に埋められていることを聞き、戦後に遺骨を拾った。[幸子による補足:生き残った区民から「兄は顔に破片を受けている」と聞いていたので、遺骨はすぐにわかった。]
兄は沖縄県立工業学校に在学していて、母に「3月には卒業する」と手紙が来ていた。母が「宮崎に来なさい」と何度か誘っていたが、「沖縄に残って頑張る」と従軍し、のちに家族と避難して亡くなった。
[幸子による補足:宮崎から帰ってくると、わが家は石柱1本だけが残っていた。母は男性たちと、クチャ(粘土質の灰色の土)で傷んだ木を防空壕から掘り起こして最初の家を建てた。2番目に建てた家はトタン屋根で、台風の時には一晩中、みんなで柱をつかまえていた。
母は日雇いでキビ刈りや田植えをして働いた。1日1ドルの日当は、塩、味噌、ソーメンなどを買うとすぐになくなった。長女の姉がミンジャー芋のカズラと虫の入った芋を探してきて、ンムニー(芋煮)1個で1日を過ごしたこともあった。また、「これはとてもよいカズラだ」と思って掘ると、戦死した人の骨が見つかったこともあった。]
私の経験からしても、小さな頃から「日本は一等国だ」という精神を植え付けられ、頭の中にはこれしか持っていなかった。自国の力をわからず、竹やりで人形を突くことなどを子どもたちにさせるくらいだから大変だった。子どもたちが小さい頃には、「一番なりたいのは陸軍大将、海軍大将」という夢を持つように仕向けられ、友達同士でもそういう話しかしなかった。教育は恐ろしい力やすごい力を持っている。

幸子が戦後75年に詠んだ短歌
・卒(そつ)待たず 逝きし兄は 学徒兵
  摩文仁の丘に 土となりいて
・顔に破片(きず) 目印ありて 拾い上げ
  あまりに小さき カマジーひとつ
(知念昌徳による聞き取り、事務局による聞き取り 2020)