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与那嶺千代(旧姓玉城 昭和5年生まれ 大里・真境名)【キーワード】軍属/玉城村へ避難/収容所

■武部隊の炊事係と看護教育
私は昭和19年(1944)3月に大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)を卒業したが、その年の夏から、学校には武(たけ)部隊(一五二八部隊で、タニハジメという隊長がいた)の本部が置かれるようになった。高等科2年の時の担任の先生の紹介で、私を含めて真境名(まじきな)から2人、当間から3人が軍属(ぐんぞく)(給仕係)として勤めることになった。私たちは軍属の腕章と名札をつけ、朝食の後片付けや食器洗い、事務室の手伝いなどをしていた。
武部隊がのちに台湾に移動してからは軍属をやめ、大里村役場(当時は南風原区にあった)の隣にあった補習科に入ったが、その頃には勉強どころではなかった。私たちは南風原村(現 南風原町)の宮城(ナーグスク)にあった医務室で、午前と午後に交替で止血法や包帯の巻き方など看護の仕方を習った。

■父がカンポウの直撃で亡くなる
私の家では昭和13年(1938)にセメント瓦葺(かわらぶき)の大きな馬小屋を造り、同時に屋敷囲いも港川(みなとがわ)の粟石で造っていて、真っ白で大きく目立っていた。家は茅葺(かやぶき)のターチーヤー(2棟続き)で、もうやがて造り直そうかという時に戦争になった。
私たちは7人家族(父母と1男4女。長男は出征(しゅっせい)、三女は結婚していた)で、父は村会議員をしていた。三女の姉(ヨシ)は隣の志利(屋号)の長男に嫁いでいて、子どもが生まれて3ヵ月ほどだった。
昭和20年(1945)4月10日、その日は運が悪いことに、村会議員の同僚(その人は与那原に住んでいた)が家に訪ねてきたそうだ。それまでは空襲の時はすぐ壕に避難していて、その日も志利のお父さんが「今日はパンパンするから壕に行こう」と言ったようだが、父は「何でもないよ、あんたも泊まりなさい」と答えたという。志利のお父さんが帰り際、門の近くまで来た時にカンポウ ※1が馬小屋を直撃し、「助けてくれー」と叫び声が聞こえたので戻ってみると、父は家の中で側にあった火鉢(ひばち)の灰を被って、顔かたちがわからないほどやられて即死状態だったらしい。同僚議員はけがをしたが無事だったようで、後で与那原の人に連れて帰ってもらったが、その人も後に亡くなったと聞いた。馬の親子もいて、親馬はカンポウにやられたが、子馬は生きて動き回っていたそうだ。
私たちは壕に隠れていた。志利のお父さんは「爆弾は多分あなた方の家の近くに落ちたはずよ」と、現場を見ていたが遠回しに言っていた。翌朝に家族で様子を見に家に行き、父が亡くなっているのを発見した。隣のおじさん達が父をモッコで担ぎ、墓に葬ってくれた。父は真境名で1番最初にカンポウの犠牲になった。それまでは荷物の晩をするために1人ずつ家に泊まっていたが、父が亡くなってからは怖くなり、誰も泊まらなくなった。
私の同級生は真境名に6人いて、軍から手伝いに呼ばれたら行くべきだったが、父を早くに亡くした私が「行かない」と言ったのでみんな行かなかった。私はそのまま家族と一緒に壕に避難していた。
私たち家族は、真境名の東側にあるティンジャーラガマという自然壕に60人くらいの人達と一緒に避難していた。入口と裏口があり、最初に入った人達が良い場所に入っていた。私たちは後から入ったので裏口の方にいた。壕の中は広々としていた。壕は志利の屋敷のずっと上辺りで真境名のトゥン(殿)の近くにあり、志利の屋敷の前を通って行った。あとから聞いた話では、裏口の方に日本兵が死んでいたそうだ。

■軍に荷物運びをさせられる
5月の末になり、アメリカ軍が近くまで来ているということで、稲福(旧集落)を通って玉城村(現 南城市)の中山に避難した。その時、稲福から見えた中城湾にはアメリカ軍の軍艦がいっぱいあった。中山に来てからはとても静かだった。私たちは姉の嫁ぎ先である志利の人達を頼って逃げるしかなかった。そこに何日いたかはっきり覚えていないが、小満芒種(スーマンボースー)(梅雨)の時期で、雨に濡れながら逃げた。山の中はまるで運動会みたいに、避難民がぞろぞろと大勢いた。
雨に濡れながら中山で隠れていた時に、「軍に協力しなければここから出て行け」と言われ、食料品か何かがカマス(わらむしろで作った袋で、穀物や塩、石炭などの貯蔵や運搬の際に用いる)に入れられているのを頭に載せて運ぶのを手伝った。アメリカ軍は具志頭村(現 八重瀬町)港川から上陸すると考えられていたので、通った道には戦車をくい止めるために石積みがされていた。石積みの上に荷物を下ろして、そこを越えたかと思って少し歩いたら、また前にも石積みがあった。石積みの側には地雷が埋められていると聞いた。夜だったからどこをどう通ったのかわからないが、照明弾(しょうめいだん)があがると「伏せ!」と荷物を降ろして伏せるように言われた。荷物は壕の中に運んだが薬品の匂いがした。中山に引き返して来るまで、生きて帰れるのかと思うほど心配だった。現在でいう中学3年生の歳だったが、雨ガッパもなく、大人と同じように扱われていた。地面には木の葉っぱを敷いて、岩陰にうずくまって座っていた。夜もほとんど寝ないで、山の中で過ごすのが大変だった。

■避難中に母たちとはぐれる
中山の山の中を逃げる最中、私たち4人の若い娘は足が速く、姉が子どもを負ぶるわずかな時間で母たちとはぐれてしまった。はぐれたのは私と長姉(春子)と次姉(トミ)、新屋小(屋号)のミネコさんの4人だった。ミネコさんは捕虜になってからもやんばるまで一緒だった。
私たちはそこから具志頭方面に逃げて行った。中山にいた時、防衛隊の人(与那原の当添(とうそえ)の人)が私たちを間に挟み、6人で避難した。途中、10間(けん)(約18メートル)離れているところにアメリカ兵がいるのもわからず、そのまま通ろうとしたら弾がパラパラと飛んできたので、並んでいた列を反対にして引き返した。先頭を歩いていた人が最後を歩いていたが後から来なかったので、その人は銃で撃たれて亡くなったと思った。夜でもあり、逃げるのに精いっぱいで分からなかった。戦後になって後方を歩いた当添の人と避難経路を歩いてみたが、戦前には通ったこともなく、ただやみくもに歩き続けていたので分からなかった。
それ以上は前に進めなかったので知念村(現 南城市)方面に避難しようと、玉城村新原(みーばる)の浜に下りて、私たち女性4人はアダンの木の茂みの中に石を積んで隠れていた。新原の浜では月夜の中、包帯を巻いている負傷兵がいてびっくりした。
アメリカ兵が船から来るのが見えて、話し声も聞こえるほど近くに止まっていた。一緒に逃げてきた防衛隊の人は「知念村に逃げる」と言ってアダンの中から出て、満潮だったがそのまま海から逃げた。「この人たちが下りてきたら私たち4人はどうされるのか」と、岩陰の中で抱き合ってガタガタ震えていた。私が1番年下だったが、あの時の恐怖感は何とも言えなかった。

■捕虜になる
私たちはアメリカ兵に見つかって捕虜になったわけではなかった。浜にいた時、那覇から来たというおばさん達に親とはぐれた話をしたら、「あんた方はこんなにして大変だよ、捕虜になりなさい。皆いっぱいいるから、捕虜になったら親たちに会えるかもしれないよ」と勧めてくれた。彼女たちはすでに捕虜になっていた。私たちは戦前の教育が大変だったので、捕虜に取られることを考えなかった。兄は日本の軍人であるし、「敵の捕虜になることは兄と敵同士になることだ」と思い、私は泣きながら「ごめんね、ごめんね」と心の中で兄に謝りながら那覇のおばさん達について、新原から玉城村百名(ひゃくな)に連れて行ってもらった。
百名の手前でアメリカ兵が迎えていた。初めて見るアメリカ兵は目も青くて怖かった。英会話の本も見せていて何か書かれていた。「水を飲みなさい、チョコレートを食べなさい」と言っていたが、毒が入っていると思って絶対口にしなかった。その時には足の裏も化膿していて、髪も振り乱して顔も上げることはできなかった。
百名には多くの捕虜が座っていたが、知っている人は1人もいなかった。ところが偶然にも、真境名の2人のおばさんたちが玉城村富里(ふさと)に荷物を取りに行って、知念村志喜屋(しきや)に帰る途中だったところに出会った。自分の親に会ったみたいに道の真ん中で抱き合って泣いた。そこで芋も食べさせられたが、避難した後から初めて食べた芋だったので、空きっ腹で皮も剥かずに食べて下痢をした。

■母たちと再会
その人たちに「あなた方の母親は垣花(かきのはな)(玉城村)にいるよ」と教えられた。垣花に連れられて行こうとしていた時に、今度は同じ集落の男性たちと会った。垣花では母が「自分の子どもたちを見つけたら連れて来てちょうだい」とその人たちに頼んでいたようだ。母は「アメリカ兵に殺されたのか、3人とも壕にこもって生きているのか、どんなにしているか」と、毎日1日中泣いていたそうだ。
垣花に行くには女だけで歩いたら危ないからと、おばさん達がその男性達に頼んで一緒に連れて行ってもらい、その日のうちに母たちと再会した。志喜屋から垣花に行く途中の道の両側には方々に死体が横たわっていた。垣花には大きな瓦葺(かわらぶき)の家が残っていて、捕虜になった人がいっぱい集まっていた。
母たちは、中山にいた時に志利のお父さん達が「どうせ死ぬなら真境名に帰って死んだ方がいい」というので、志利の家族と一緒に大城から泥んこ道を通って真境名に帰ってきたが、避難している途中で仲間の2人が亡くなったようだ。真境名に帰った人はそこから捕虜になって垣花に収容されたとのことだった。

■やんばるに収容される
その後、「垣花から全員移動しなさい」と佐敷村(現 南城市)の馬天(ばてん)まで歩かされ、大きな船に乗せられて久志(くし)村(現 名護市)に連れて行かれた。最初は嘉陽(かよう)(現 名護市)に着いて、1泊は浜のテント小屋で寝かされた。2日目は少しでも島尻に近いところが良いと安部(あぶ)(現 名護市)に入り、そこで志利の家族と共同生活をしていた。炊事も食事も一緒だった。
安部で生活していた頃まではお金は使えず、物々交換しかできなかった。私たちは姉がシンタ(ススキを竹の皮で編みこんだ大きな鍋のふた)を作っていたので、シンタを芋などの食べ物と交換していた。野菜もないので、原野の中からニービラ(野蒜(のびる))を午前中に取って来て野菜代わりにしていた。そこの集落の人達は畝(うね)立てをしてカズラを植えていたが、よそのものは取れないので、その人たちが芋を洗った後に流れてきた小さな芋を取って来て食べたこともあった。安部の集落の清掃に出たら、その手間賃代わりに米2合ほどをもらい受けていたので、それで毎日おかゆを作っていた。朝から晩までおかゆばかりの食事だった。
またマラリアがとても流行っていて、1人が治ったらまた誰かが罹(かか)るというように、1部屋の中で常に誰かが罹っていた。1つの屋敷に4棟の仮小屋があり、中城村の2家族と東風平村(現 八重瀬町)の家族と合わせて4家族が住んでいた。東風平の人達はマラリアに罹って亡くなる人もいたが、真境名の人達は皆無事だった。
姉のトミは骨と皮だけにやせ細ってふらふらしていて、母が「この子を家に連れて帰ることができるか」と思ったほどだった。私もマラリアに罹ったがよく食べていたので元気だったが、大城に帰って来る頃まで治らなかった。マラリアに罹ると床の上にではなく、志利のお父さんが竹を取って来て編んだ敷物の上にカッパを敷いて寝かせていた。私たちは1部屋を荷物で仕切り、新屋小の家族と暮らしていた。

■故郷へ
大見武(おおみたけ)(現 与那原町)の収容所に収容された。大見武に来てから、母が「今日は旧正月だから白いご飯を炊いて食べようね」と言い、避難生活を始めて以来初めて白いご飯を食べた。やんばるでは毎日米を2合ずつもらっていたので、大見武に来る前から少しずつ蓄えてあった白米を炊いた。後からはおかゆは見たくもないくらい大変だった。毎日おかゆだけ食べていたので体力がなく、マラリアに罹る人が多かった。
大見武の次に大城に収容され、その後真境名に帰ることができた。

■いつまでも平和を願う
私の兄(福正)はブーゲンビル島で亡くなった。ブーゲンビル島で亡くなった人達の遺骨は熊本県に安置されていたが、のちに集落の男性が遺骨を持ってきてくれた。
兄は日中戦争が始まる前に華中(中国中東部)の第六師団にいて、太平洋戦争が始まってからブーゲンビル島に派遣されたようだ。摩文仁(現 糸満市)にブーゲンビル島で亡くなった人達を祀(まつ)った碑があり村別に名前が刻まれているが、兄の名はどういうわけか刻銘(こくめい)されていなかったので、私が申請して「大里村 玉城福正」と追加刻銘させた。
私は、家族が一緒だったらいつどこで死んでもいいといつも思っていた。母は夫と1人息子を戦争で亡くしたため、とても苦労していつも気が沈んでいた。帰還兵(きかんへい)が帰って来るのを毎日見ていて、「息子を見かけなかったか」と尋ねていた。私が何気なく「私が男だったらいいのにねー」と言うと、「あなたが男だったらなんでこんなに苦労するか」と母を怒らせてしまった。慰めるつもりで言ったことが母を傷つけてしまった。息子が生きていたら子や孫に囲まれて幸せだったと思う。母は戦後4年後に、心労で1ヵ月入院してすぐに亡くなった。母が亡くなったのは、姉が現在の夫と再婚し(前の夫は沖縄戦で戦死した)、長男が生まれた頃だった。
戦後になり新原付近の壕を見るたびに、「どこから歩いていたか、この辺りの壕に隠れていたのか、その壕で死んだ人はいなかったのか」と考えると、当時の状況を思い出して胸がどきどきして、夜も眠れなくなる時がある。今の平和な世の中がいつまでも続いてほしい。子どもや孫たちにこんなむごい戦争は体験させたくない。「父や兄の誰か1人でも生きていたらこんなことにはならなかったのに」と考えると、真境名に行く時も姉たちの家に用事で行くことしかできない。戦争のことはもう話したくない。
(知念昌徳による聞き取り 2008~2010頃)

■脚注
※1 沖縄戦体験者の語りの中で、空襲による爆撃や艦砲射撃などのアメリカ軍の攻撃全般を「カンポウ」と表現することがある。本書では、話者が「カンポウ」と話しているものの、それが艦砲射撃か空襲かを事務局がはっきり判断できなかった場合に「カンポウ」と表記している。