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玉城春子(旧姓玉城 昭和4年生まれ 大里・真境名)【キーワード】十・十空襲/南部避難/収容所/マラリア

■日本軍の手伝いや奉仕(ほうし)作業への動員
私は大里第二国民学校(現在の大里南小学校の前身)に通っていた。日本軍が学校に駐屯(ちゅうとん)し始めると、授業は外の木の下で行うようになり、十分に勉強することはできなくなった。
この頃から、大城から現在のグリーンタウンへ向かう途中にある丘にあった日本軍の壕(現在は家が立ち並んでいる)や校内で松の皮剥(は)ぎをしていた。
それから出征(しゅっせい)兵士の家の水汲(く)み、芋洗いなどの奉仕作業もした。作業はその家の人と一緒におこなった。男性は芋掘りもしていた。

■十・十空襲で親戚たちが犠牲に
昭和19年(1944)10月10日に那覇で十・十空襲があった時には、たまにしか飛行機を見ないので「日本の飛行機が通っている」と言って高い山に登り、「万歳、万歳」としながら見ていた。だが、煙が出て那覇の方が空襲されているので「なんでかね」と思っていたら、大人が「えぇ、わらばーたーむるあまんかいばんざいばんざいする(子ども達がみんなあっちで万歳している)、戦(イクサ)やんどーひゃー(これは戦争だよ)!」と言って連れに来て山から下りた。
この時の空襲で私の親戚たちも犠牲になってしまった。当時、私のおばの家に嫁いだお嫁さんが手術を受けて那覇の病院に入院していたが、お嫁さんの両親、おばとその子どもたちが見舞いに行っていて、あわせて9人が亡くなった。馬車で遺体が運ばれてきたが、ヤギの丸焼きのようになっていて見るに堪(た)えなかった。「戦とはこのようなものか」と、この時から恐怖心が芽生えた。
この亡くなったおばさんには双子の子どもがいたが、1人は私の家、もう1人は稲福のある家に預けていたため幸い助かった。

■いとこを背負って避難
わが家では、父が妹2人(シズと信子)を連れて宮崎県の小林町(現 小林市)へ疎開していた。
昭和20年(1945)3月23日の艦砲射撃(かんぽうしゃげき)のときは、真境名(まじきな)北側のアカバンターというところにある自然壕へ避難した。昼は壕にいて、夜は家に帰っていた。飛行機が来たら壕に避難するという生活を1ヵ月ほど続けた。
5月頃になると、母(カマ)、姉(チヨ)、私、妹(シゲ)、いとこのヒデ子(十・十空襲で亡くなったおばの子)、そして東徳門の正勝さんの父親と一緒に真境名を出て避難した。
「どこへ行こうか」と皆で手をつないで1ヵ所にかたまっていたが、攻撃が激しくなってきたので、稲福を通って玉城村(現 南城市)の船越(ふなこし)から前川へ避難した。途中で壕などに隠れることはなく、ずっと歩いていた。私はヒデ子を背負いながら避難していた。爆撃があるとヒデ子とともに地面に伏せ、ヒデ子の亡くなった母に「おばさん、私たちを守ってよ」と心の中で念じていた。
前川の坂を避難している途中、ずっと雨が降っていたが、歩けなくなっていざり歩きしている日本兵や、負傷して「アイエー、アイエー」とうめいている人を見た。「自分たちもあんな風になるのか」「かわいそうに」とは思うが、逃げるのに必死で歩き続けた。
真境名を出て最初に入ったのはギーザバンタ(現 八重瀬町)にある壕で、それから与座(よざ)・大里(現 糸満市)では小さな壕に入っていた。その後は糸満方面へと避難し転々としていたが、場所はあいまいでよくわからない。艦砲射撃が続くので昼間は隠れ、夜は歩いて移動し、毎日ほとんど寝ずに過ごした。夜になると艦砲射撃はやんだが、照明弾(しょうめいだん)がずっと上がっていて、昼か夜か分からないくらいの明るさだった。夜間は照明弾の明かりで移動したが、行くあてのない避難だった。
避難中はほとんど食べる物もなく、水ばかり飲んで過ごしていた。当時はほとんどの集落にクムイという大きな池があり、そこで水を汲んでみんなで少しずつ分け合って飲んでいた。残しておいた水を翌朝見ると、色が青く虫が浮いていた。せっかく残しておいた水だが、「こんな水を飲んでいたのか」と思いもう飲まなかった。
ある時は、真境名の人たちがどこからか取って来た芋を持ってきてくれた。馬の骨もあったということで、拾ってきた鍋で味付けはせずに煮て飲んだ。その他に何か食べた記憶はない。水ばかり飲んでいたのでふらふらして、声もあまり出なかった。そんな生活でも生きていたので不思議に思う。

■激戦地をさまよう
真栄里(まえざと)(現 糸満市)である家の軒下に隠れていたとき、2軒隣の家が爆撃を受けた。この家には井戸があり、水を汲む人がたくさんいたので狙われたのかもしれない。その家の中にいた30人ぐらいの避難民が黒焦げになっていた。2、3歳くらいの男の子3人が、この子たちも顔かたちがわからないくらい真っ黒になっていたが、「アンマー、アンマー」と言って這(は)っていた。「かわいそうに」と思い私も一緒に泣いたが、自分の身を守るのに必死でどうすることもできなかった。
おそらく同じ日だったと思うが、妹も爆弾の破片を頭に受けてしまった。妹は頭巾(ずきん)をかぶっていたが出血し、布で拭くことしかできず、ほとんど手当もできなかった。「痛いよー痛いよー」と言っていたが、「我慢して、我慢して」と言って避難を続けた。爆弾が落ちると、破片や石ころがパカナイ、パカナイ(どんどん)飛んでくるから怖かった。
糸満あたりにいたとき、姉の夫が兵役(へいえき)から逃げて家族のもとへ戻ってきていた。姉はたしか摩文仁(まぶに)(現 糸満市)あたりを歩いていたとき、足に破片を受けてけがをしてしまったので、姉の夫がおぶって移動していた。
避難中に会った兵隊の中には、「攻撃されるから後戻りした方が良いよ」と言う人もいたが、壕から避難民を追い出すような日本兵もいた。ギーザバンタでは、姉の夫が「いい場所がある」と言うので、みんなで綱や帯を腰に巻いて崖から下りた。目の前が海で岩も多く、見つかりにくいと思っていた場所に隠れていたが、日本兵に「今から兵隊が来るから出なさい」と追い出されてしまった。
今度は1人ずつ崖を登り、セメントでできている豚小屋(フール)を見つけ、そこへ避難した。男性たちが木を切ってきて屋根を造り、10人でこの中に入っていた。親戚で兵隊から戻ってきた人が入口付近にいたが、艦砲弾の破片か何かがこの人の耳に当たり、血がブワーッと出てかなり出血していた。この人の両親や子どももいたので、普通なら「お父さん、お母さん」と言いそうだが、彼は「天皇陛下万歳」とだけ言い、そのままその場で亡くなった。

■新城で捕虜になり収容所へ
戦(イクサ)が激しくなってから仕方なく、「どうせ攻撃されるなら、家でみんな一緒に死ぬ方が良い」と考えて戻ることにした。降参旗(こうさんき)のつもりで、男性が死んだ人のふんどしを取ってきて竹にくくりつけたものを私が持って歩いた。「若い女性はアメリカ兵に捕まるといたずらをされる」という風に聞いていたので、私は頭に他人の汚れた風呂敷を被り、顔に煤(すす)を付けて真っ黒に汚し、顔を隠して歩いた。どうすれば命が助かるか、そればかり考えていた。
具志頭村(現 八重瀬町)新城(あらぐすく)まで来るとアメリカ兵に会い、怖くてガタガタ震えたがアメリカ兵は何もせず、「ここに行くように」と誘導してくれた。こうして私たちは6月19日、新城で捕虜になった。
新城の馬場(ばば)(ウマイー)の井戸のあるところへ行くとたくさんの捕虜が集められていた。馬場の湧水をお腹いっぱい飲むことができ、アメリカのクラッカーももらった。はじめは毒が入っているのかと疑ったが、アメリカ兵が食べて見せてくれた。
一息ついてからアメリカ軍のトラックに乗せられ、玉城村の百名(ひゃくな)へ連れて行かれた。百名では民家に入っていた人もいたが、私たちはテント小屋に入っていた。
一週間ほど百名で過ごしたあと、アメリカ軍のトラックで知念村(現 南城市)志喜屋(しきや)へ移動した。志喜屋ではウマイーの上にあった、焼けた大きな屋敷跡(塀だけ残っていた)にテントを張って生活した。床は無いのでぼろ切れかススキを敷いていた。
避難中に足をけがしていた姉は破傷風(はしょうふう)に罹(かか)り、志喜屋で亡くなってしまった。男性2人がモッコで遺体を担ぎ、志喜屋の浜に埋葬(まいそう)した。1年後に遺体を洗骨したが、砂の中に埋葬したため潮水がかかり、皮膚が残っていた。
志喜屋にいた時には軍作業にも参加した。那覇の二中前(にちゅうまえ)(現在の那覇高等学校付近)で兵隊の住宅の片付けや、家が残っているところの掃除、花木の手入れなどをした。開墾(かいこん)などの共同作業にも出た。
志喜屋で20日ほど過ごし、玉城村富里(ふさと)、船越、そして大里村目取真(めどるま)に移った。目取真では10日ほど過ごして大城へ移動した。大城では民家の敷地にテントを張って2、3ヵ月住んでいた。大城から真境名に通い、みんなで一緒に畑仕事をしたこともあった。

■真境名での戦後生活
集落ごとに帰村の許可が下りて、真境名に帰ることができた。真境名に戻ってきた時には家は無くなっていた。戦争で何もかもなくなっていたので、山から木を切ってきて茅葺(かやぶき)小屋を造っていた。壁も床も茅でヤギ小屋のようだった。どこの家も最初はこのような感じだったが、その後本建家(ホンダテヤー)(規格家(キカクヤー))の配給(はいきゅう)が始まった。私の家族は人数が多かったからか、本建家を割り当ててもらうことができた。
真境名に帰ってきてからも畑を耕すなどの共同作業があった。青年たちはクバ笠を探してきてタバコと換えていた。
私は真境名に戻ってからマラリアに罹ってしまった。決まった時間になると自然にすぐ寒くなり、おそらく40度以上の熱が出ていたと思う。家族みんな罹ったが私は特に重症で、2日くらい意識を失ったこともあった。初めに気づいたのは妹で、「姉さん姉さん」と呼びかけても私が返事をしないので死んだと思い、共同作業で開墾をしていた畑にみんなを呼びに行ったそうだ。医者もいないので、芭蕉(ばしょう)を切って熱さましをしようとしたらしい。夏場で寝ていたので、背中の皮膚もみんなただれていた。夜遅くに意識が戻ったと思う。みんな私が死んだと思い、たくさんの人が来ていた。

■終戦後の思い
戦争は兵隊も民間人も関係ない。戦争中は、みんな逃げるのに必死だから何も考えることができなかった。食料も水もなく、声も出ない。今の子どもたちは恵まれているから、もう同じような苦しみを経験させたくない。
戦争は人間同士の殺し合いであるから二度と起こしてはいけない。世界中の人たちがみんな仲良くして欲しい。1日も早く世界が平和になるよう毎日願っている。
(知念昌徳による聞き取り 2009、事務局による聞き取り 2015、2017)