■愛媛と大阪の工場へ
私の家は農業をしていたが、母は私が11歳の時に亡くなり、父も体が丈夫でなかった。その頃はどこの家も苦しく、食べ物も芋ばかりだった。きょうだいは姉2人と弟2人で、次姉は紡績(ぼうせき)工場(おそらく愛媛の近くの工場だったと思う)に働きに行っていた。長弟は17歳の時に海軍に志願し、顔がきれいで体格もよかったので甲種(こうしゅ)合格になった。彼には子どもも産まれたが、子どもは戦死してしまった。次弟も兵隊にとられていたが、長弟も次弟も戦争を生き延びた。
私は第二大里尋常高等小学校(現在の大里南小学校の前身)を卒業したのち、14歳の時に愛媛県の三島の紡績工場に行った。紡績の募集が出ていたので、機械にも届かないほど背丈が小さかったが、いとこと2人で働きに行き、愛媛で5年は勤めた。初めの会社では食べ物やお菓子もいろいろあってとても良かった。だが途中で別の会社(川根工場)に移動することになった。そこでは食べ物が美味しくなくて、大阪にいた弟に連れに来てくれるよう頼んだ。
大阪では町の真ん中にある工場で1年ほど勤めた。たしかナカニシ工場という、飛行機の部品を作る工場だったと思う。その後、21歳ぐらいの時に沖縄に帰ってきた。
■防空壕掘りと軍の炊事係
沖縄に帰ってきてからは村内の防空壕掘りに何度か動員された。現在のグリーンタウン(戦前はヘンサ森という山だった)の、イオンタウン南城大里に面している場所に、トロッコグヮーを使って壕を造っていた。西原区まで壕掘りに行ったこともある。
真境名(まじきな)では、集落内で大きな家の何軒かに兵隊が寝泊まりをしていた。初めに来た武(たけ)部隊が引き揚げた後には球(たま)部隊が来た。私は友達と2人で球部隊の炊事をしに、真境名の玉城門中(もんちゅう)の本家に行っていた。その時は白米が少なかったので、芋などを入れて大きな鍋で作った。炊事係をした期間が何日ほどだったかは覚えていない。
武部隊の人たちは優しく、曹長や軍曹が家に遊びに来たこともあった。球部隊のサイトウさんという兵士とは友達になり、裁縫箱をもらった。兵士の中には1人やんちゃで女好きな人がいて、私が朝起きて大鍋で芋を炊いていた時にちょっかいを出されたこともあった。その時はとてもびっくりして、「あきさみよー、お父さんよー」と声をあげた。
■真境名の壕に避難
十・十空襲(1944年10月10日)のあと、また空襲が来るかもしれないということで、真境名の山や、公民館の後ろにある井戸のすぐ近くの山の壕へ避難していた。この壕には私たち(父、長姉、当時6歳だった長姉の子ども、私)を合わせて17、8人ほどが入っていて、親戚やよそから来た知らない人たちもいた。昼間にトンボ(アメリカ軍の小型偵察機)が飛んでこない時には水汲(く)みや、畑へ芋を掘りに行った。与那原のおばあさんが「えー、命は宝どー。あんたもこんなときに芋掘りに行ったら大変だよ」と言っていたが、みんな意地で行っていた。この壕の中では誰一人けが人は出ず、不自由することはなかった。
真境名の山には避難民も多く集まっていたらしい。ティンジャーラガマという壕は大きくて、避難中にそこでお産した人も2人いる(真境名の人だった)。そのうち1人が友人だが、彼女はティンジャーラガマから逃げる時(出産の数日後で血も出ていたらしい)、夫が赤ちゃんを抱き、自分は夫を掴んで逃げたと話していた。彼女たちは本当に苦労をした。生まれた女の子2人も戦争を生き延びた。
私は真境名で2、3ヵ月は避難していたと思うが、ある日、西原区から1人の兵隊が顎(あご)から血をダラダラ出しながら「もう兵隊はこっち来ているよ」と言ってきたので、みんなで荷物を頭に載せたり担いだりして壕を出た。
■玉城の山中で捕虜になる
真境名を出て稲福を通り、現在の南城市役所の近くにあった小さな家に荷物を置いた。その後、現在の市役所前の道から、玉城村(現 南城市)親慶原(おやけばる)、そして現在の琉球ゴルフ倶楽部の前の道を通って玉城に下りていったと思う。真境名から玉城までは、夜間にアメリカ軍の飛行機が飛んで来ない時を見計らって1日で移動した。
移動中には、上から大きな弾が「ヒューン」と音を立てて通って行った。音で弾が来るのはわかるが、どこに落ちるのかはわからない。翌日に父が玉城から荷物を取りに戻った時、私たちが通った道に大きな不発弾が落ちていたのを見たようだ。「これが落ちていたらみんな亡くなっていたんだね」と話していた。
食事は飛行機がいない時を見計らって、人の畑から芋などを取ったり、ご飯を炊いたりして食べていた。
玉城の役場近くでは空き家があったのでそこに入った。その後そこにもいられなくなり、富里(ふさと)の山の中の大きな墓のそばにあった壕に入った。ここに避難していた時、アメリカ兵が飛行機から落下傘(らっかさん)で降りていくのを見たこともある。食事にも不自由なく過ごしていた。
一週間ほどそこで過ごしていたが、おそらく西原区のおじいさんが兵隊を連れて来て、みんなに捕虜になるように呼び掛けた。おじいさんの「どこの誰々さんも来てるから早く出なさいよ~、残ったらすぐみんな兵隊にやられるから、みんな出なさいよ~出なさいよ~」という呼びかけでみんな捕虜になって助かった。私たちはあまり苦しい思いをしなかった。
■収容所での生活
捕虜になってからは玉城村百名(ひゃくな)に集められたのち、知念村(現 南城市)志喜屋(しきや)の収容所に収容された。志喜屋では日系2世のアメリカ兵がいたので助かった。配給(はいきゅう)の缶詰もはじめは怖かったが、2世が自分で食べて見せて、「どうもないよ、食べなさい」と言ってくれた。
志喜屋には半年ほどいたのち、大里村目取真(めどるま)の収容所へ移動した。荷物を運ぶために志喜屋と目取真を1日に2往復くらいしたと思う。目取真には長くはいなかった。
その後、大城の収容所へ移動した。収容所は現在の大城の公民館の下の、玉城村船越(ふなこし)に行くところの四つ角にあった。仮小屋1軒あたりに4、5世帯が入り、周辺は田んぼになっていた。まだ自分の集落に帰れない避難民たちがたくさん寄り集まっていて、那覇や国場(こくば)(現 那覇市)あたりの人たちもいた。大城には長いこといたと思う。自分の集落に仮小屋を造るための木を切るなど、帰るための準備もしていた。
大城にいたときには避難民たちと集団で、巡査1人の引率のもと、芋掘りや野菜を取りに行った。芋は植えられたものではなく、自生して誰も取っていないものを掘った。アメリカ軍の大きい車に乗って軍作業にも行ったが、その時はアメリカ軍が捨てたトタンやら何やらを盗んできた。たらいなど、物がいろいろと不足していた。
大城から真境名に戻ってきたが、それがいつ頃だったのかは覚えていない。
(事務局による聞き取り 2017)
| ダウンロード | https://drive.google.com/uc?export=download&id=1oVC0Yyp1m8jg-lm_u6LD93fi2XkO2id9 |
|---|---|
| 大分類 | テキスト |
| 資料コード | 000000 |
| 内容コード | C000015711 |
| 資料群 | 『南城市の沖縄戦証言編(大里)』関連資料 |
| 資料グループ | 南城市教育委員会文化課市史編さん係『南城市の沖縄戦 証言編-大里-』南城市教育委員会(2021) |
| ページ | 132-135 |
| 年代区分 | 戦前(昭和)1945~49年 |
| キーワード | 戦争行政 |
| 場所 | 大里大里-真境名 |
| 発行年月日 | 2021/03/31 |
| 公開日 | 2026/04/10 |