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知念とし子(昭和4年生まれ 大里・真境名)【キーワード】玉城村へ避難/収容所

■真境名から集落の人たちと避難
私の家族は父と母、長女(トミ)、次女(ヨシ子)、三女(春子)と私(四女)の5人だった。次女のヨシ子は大阪に働きに行っていたが、そこで空襲で亡くなった。
戦争の時には、真境名(まじきな)から浦添門中(もんちゅう)の墓のところを通って旧の稲福集落に出て、玉城村(現 南城市)の富里(ふさと)に行った。夜通し歩いていたので、途中でどこを通ったのかはわからない。真境名からは私たち家族のほか、前東新屋のおじいさんとおばあさん、前東門の夫婦とおばあさんにノブコさん、東門の父親と娘(ツルさん)、東前のキヨさんと長男の三郎さん(キヨさんの夫の良明さんは防衛隊に召集(しょうしゅう)されていた)、新前川端の父親と娘(タケさん)、前川端のおばあさん1人が一緒に避難した。

■富里の「二つ墓」で捕虜になる
富里にいるときは、山の中で父が壕を掘ってくれた。アメリカ兵が山に来たら民家に逃げ、彼らが山を下りたら山に逃げるということを繰り返していた。富里では爆弾も落とされていたが、私たちには当たらなかった。戦争で苦労したことはなかった。富里に何日いたかはわからないが、一週間くらいはいたと思う。
私の父はいつも、「落ち着けよ、どこにも行くなよ、そこに待っておきなさいよ」と私たちのことを気遣っていた。その後、アメリカ兵が「下りてこい」と呼びかけてきた。アメリカ兵に連れて行かれたら大変だからということで、父母と他の人たちは私たち若い娘の5人を残して、「あとで二つ墓のところにおいでよ」と言って先に山を下りた。のちに父が私たちを迎えに来てくれたので、5人一緒に捕虜になった。
捕虜になってからも他の人たちは黙り込んでいたが、父は「命は宝だよ」と言っていた。

■全員無事に帰郷
その後、私たちは知念村(現南城市)志喜屋(しきや)の茅葺(かやぶき)の民家の上座に収容された。家主の人は下座に暮らしていた。そこに何日いたかは覚えていない。志喜屋にいるとき父は風邪をひいて、目取真(めどるま)の病院に通ったこともあった。
それから目取真に移り、その後大城に行ったが、そこでもどれほど過ごしたのかは覚えていない。一緒に避難した人たちは誰一人けがをせず無事だった。
(知念昌徳による聞き取り 2015)