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當銘由安(昭和7年生まれ 大里・真境名)【キーワード】やんばる避難/収容所

■小谷の屋取集落で育った
戦前、私の生家は真境名(まじきな)の長堂原と道ですぐ隔てたところの佐敷村(現南城市)小谷(おこく)にあった。私たちは首里から下ってきて屋取(ヤードゥイ)を構えていた。私たちの家から東側の下側には、現在はもうなくなっているが、5、6軒の小谷の屋取集落もあった。
戦争前は13歳だったが、軍の壕掘りなどの作業はあまりやっていない。小谷の本集落の子どもたちは農作業などに慣れていたが、私たち屋取の子どもたちは農業をやっておらず、作業があまりできなかった。

■バクヨーをしていた父
私の父(由長)はバクヨー(家畜の売買をする人)をしていた。戦前はほとんどの家庭が馬を飼っていたので、乳離れした仔馬を買って来ては、注文する人に売るというような仕事をしていた。
そのような仕事の関係で、父はいろいろな人たちとの交流があったようだ。中頭あたりに外国帰りの知識人が2、3人いたようで、その人達から「沖縄は危ない、やんばるは安全だ」と聞いていたらしい。
また、戦前は新聞も一般的に普及していなかったので、真境名の人たちは父のもとへ「どうなっているか」と情報を聞きに来ていた。当時は言論統制が厳しかったので、戦(イクサ)のことを話すのは厳禁だった。「負ける」と言ったら銃殺だから大変だった。戦に関することは他人に話さないよう教えられていたが、戦時下では致し方なかったのではと思う。
警察には探偵のように、軍を批判する人を嗅ぎつける仕事をする私服の刑事がいたので怖かった。

■父の判断でやんばるへ避難
艦砲射撃が始まった頃、父は仕事で出会った人たちからの情報をもとに、家族を自家用馬車で久志(くし)村(現 名護市)の二見(ふたみ)に避難させた。避難した祖母のカマド、母の静、私、弟で次男の由徳、妹で長女の春子、次女のツル子の6人はみな無事だったが、父はのちに防衛隊に召集(しょうしゅう)されて島尻で戦死した。どこで亡くなったかはわからなかった。

■二見での「浜学校」
二見にいる時にアメリカ兵が来て、「学生は浜に集まれ」と言われ、「戦は終わった」と聞かされた。
終戦後の二見での学校は「浜学校」というもので、砂浜に座って授業を受けた。ノートや鉛筆などはなかったが、砂に書くということもしなかった。一中(いっちゅう)(沖縄県立第一中学校。現在の首里高校の前身)や二中(にちゅう)(沖縄県立第二中学校。現在の那覇高校の前身)の人たちが先生として教えていて、英語の授業もあった。先生がA、B、C、Dと書かれたカードを作り、途中から順序を変えて出しては「これは何と言うか」という風に教えていた。またウチナーグチ風に歌に乗せ、「A、B、C、D、チャーシッタイ(いつも湿っている)」などと歌いながら教わった。生徒はごちゃまぜで学年はなかった。

■大見武、大城の収容所
肌寒い頃だったと思うが、二見からは避難民と一緒にアメリカ軍のトラックで大見武(おおみたけ)(現 与那原町)に運ばれた。そこはアメリカ軍の兵舎跡みたいなところで大広っぱになっていて、そのテント兵舎に3ヵ月ほどいた。
大見武からさらに大里村大城に移った。大城には半年ほどいたと思う。物資は配給制(はいきゅうせい)で、アメリカ軍から支給されたものだった。大城に収容された人たちは各自の出身集落に通い、整地作業や芋の植え付けなどの食糧増産の作業もしていた。大城の学校でも代用教員のような人が教えていて、給料は物品だった。

■アメリカ軍からの配給食糧
避難民たちとの集団生活ではアメリカ軍の携帯食料も食べたが素晴らしかった。腹いっぱいにはならなかったが、栄養がつまってバランスも取れていた。
二見にいる時にも配給はあったが、腹に合わなくて下痢をする人たちもいた。私は大丈夫だったが、チーズは1番合わなかった。チョコレートなども入っていて、今で言うクワッチー(ごちそう)だった。
みんなが欲しがっていたのは米だった。米の配給もあったがトウモロコシが主体で、よくそれを粉にして食べていた。道具がないので地元の人たちに粉を引いてもらい、代金としていくらかの物資を渡していた。自分たちも空き缶に入れて、棒で突いて粉にしていた。当時としては、苦労をしているという思いはあまりなかった。
見たわけではないが、配給物資は上の人たちが取り込み、下の人たちまでは届かなかったように思う。子どもたちは何も観るものがなかったため、軍のトラックからメリケン粉や米などの物資が降ろされるのをいつももの珍しく見ていた。物資は金銭交換ではなく、1人あたりどれくらいという配給制だったが、メリケン粉などは私たちのもとにはめったに届かなかった。

■真境名での生活のはじまり
真境名に帰ってきたのは正月前だった。親たちが「正月は真境名でやるんだねー」と話していた。帰ってきた時には、真境名の上の長堂原近くにあったわが家はなくなっていた。前とは地形が異なっているが、現在の家の場所に区民による共同作業で仮小屋が造られ、真境名での生活が始まった。このバラック小屋が台風で吹き飛ばされてしまったこともあった。
真境名での生活は、当初は芋がなかった。サトウキビは残っていたため、手押しのサーター車で搾(しぼ)って砂糖を作っていた。また、真境名にはシンタ(すすきの若い芽であるグシチャーを竹の皮で編みこんだ鍋のふた)作りがあって各家庭で作っていたが、母もそれを作って家計を支えていた。
戦後は遅くまで頭割りでの配給制があった。大城や目取真(めどるま)、古堅(ふるげん)などにアメリカ物資の売店があった。
父の判断が良かったから私たちは助かった。歌にもあるように私たちはやはり「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」だと思う。だから今も元気にしている。
(知念昌徳による聞き取り 2016)